土佐藩(読み)とさはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「土佐藩」の意味・わかりやすい解説

土佐藩
とさはん

江戸時代、土佐国高知県)一国を領有した外様(とざま)藩。1600年(慶長5)関ヶ原の戦い後山内一豊(やまうちかずとよ)が土佐藩祖となってから、明治の版籍奉還、廃藩置県に至るまで、忠義(ただよし)、忠豊(ただとよ)、豊昌(とよまさ)、豊房(とよふさ)、豊隆(とよたか)、豊常(とよつね)、豊敷(とよのぶ)、豊雍(とよちか)、豊策(とよかず)、豊興(とよおき)、豊資(とよすけ)、豊煕(とよてる)、豊惇(とよあつ)、豊信(とよしげ)、豊範(とよのり)と16代続いた。石高(こくだか)は20万2600石余だが、実際は長宗我部(ちょうそがべ)検地の結果によると24万8300石余。これが本田高で、新田開発によって幕末維新のころは約50万石となった。高知藩ともいう。

 一豊は入国後、長宗我部遺臣(一領具足(いちりょうぐそく))を弾圧あるいは懐柔(かいじゅう)し、中村、宿毛(すくも)、佐川、窪川(くぼかわ)、本山(もとやま)、安芸(あき)などの要地に一門・重臣を配して支配体制を整え、高知城を築き、城下町を設営した。2代忠義は野中兼山(けんざん)を用いて藩政の基礎を固めた。兼山は新田開発、港湾整備、殖産興業、専売仕法、郷士取り立てなどの政策を実施した。藩士は上士(じょうし)(家老、中老、馬廻(うままわり)、小姓(こしょう)組、留守居(るすい)組)と下士(かし)(郷士、用人、徒士(かち)、足軽、武家奉公人)に分かれ、階級差別は厳しかった。藩の政治は、家老のうちから任命される奉行職(ぶぎょうしょく)(執政(しっせい))が統率したが、実務は中老や馬廻から任命される仕置役(しおきやく)(参政(さんせい))とその下の各奉行があたり、裁判や警察は大目付が下級役職を統轄して行った。さらに藩主側近の近習(きんじゅ)家老がおり、江戸と京都には留守居役、大坂には大坂在役(ざいやく)が置かれ国元との連絡にあたった。民衆支配は町・郡(こおり)・浦の奉行がおり、その下で地域の行政事務を助けたのが庄屋(しょうや)である。高知城下には町会所が置かれ、総年寄、庄屋、年寄、総組頭などの町役人が町政をつかさどったが、豪商が総年寄となって庄屋以下を統率した。郡奉行は村役人を監督したが、村には庄屋・老(としより)(年寄)・組頭が置かれた。山間部の小村には名本(なもと)・老・組頭がおり、小村をあわせたものを郷といい、郷には大庄屋(おおじょうや)・総老・総組頭が置かれた。国境には道番所(関所)が設置され、大庄屋が番頭(ばんがしら)を、名本が番人を兼ねることが多く、国境を警備し、商品の移出には口銀(くちぎん)を取り立てた。農民の年貢米は村方役所に置かれた納所(なっしょ)に集められた。浦分にも村と同じく役人が置かれ、港には分一役(ぶいちやく)とよばれた藩派遣の役人がいて、漁業税や商品税を取り立てた。一般庶民は五人組を組織し、相互扶助と連帯責任を負った生活をしていた。

 こうした職制によって藩政は推進されたが、野中兼山の政治は民衆の不満と政敵の弾劾によって終わりを告げ、寛文(かんぶん)の改替(かいたい)といわれる藩政の転換期を迎えた。以後1752年(宝暦2)の専売制の実施まで藩政は比較的平穏に推移する。藩政は合議制のもとで文治的傾向が強くなるが、その間、地方知行(じかたちぎょう)から蔵米(くらまい)知行への転換、年々の貢租の平均化を図る平等免(ならしめん)が行われ、天和(てんな)の改革(1681)が実施されて藩政の完成期を迎える。「元禄大定目(げんろくおおじょうもく)」の公布はこれを意味するが、幕府の課役や宝永(ほうえい)の地震は藩財政を圧迫し、宝暦(ほうれき)期(1751~1764)に入って藩政は動揺し始める。宝暦から天明(てんめい)(1781~1789)にかけての専売制実施により農民一揆(いっき)が起こるようになるが、9代豊雍によって天明の改革が行われ、いちおうの安定を取り戻した。だが天保(てんぽう)の飢饉(ききん)は大きな打撃となり、13代豊煕は馬淵嘉平(まぶちかへい)らのおこぜ組を起用して藩政改革に乗り出したが、嘉平の心学嫌疑のため挫折(ざせつ)した。それにしても、天保期(1830~1844)に結成された庄屋同盟は後の勤王運動の温床となり、幕末に至って土佐藩は歴史の舞台に登場する。15代豊信(容堂)に起用された吉田東洋(とうよう)は門下の新おこぜ組を手足として安政(あんせい)の改革を断行するが、反吉田の保守門閥層と武市瑞山(たけちずいざん)を盟主とする土佐勤王党の反撃を受け、吉田は勤王党員に暗殺された。文久(ぶんきゅう)(1861~1864)から維新にかけて、容堂の公武合体と勤王党の主張とが絡み合いながら進展してゆくが、坂本龍馬(りょうま)の献策を基本とする大政奉還建白によって土佐藩は時代転換の役割を果たした。明治維新で高知藩となったが、1871年(明治4)廃藩置県により高知県として発足した。

[山本 大]

『平尾道雄著『土佐藩』(1965・吉川弘文館)』『山本大著「土佐藩」(『物語藩史 7』所収・1965・人物往来社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「土佐藩」の意味・わかりやすい解説

土佐藩 (とさはん)

土佐国(高知県)高知に藩庁を置いた外様大藩。高知藩ともいう。藩主は山内(やまうち)氏で藩祖山内一豊以下16代。一豊は関ヶ原の戦のあと,遠江国掛川6万石の城主より土佐24万石(朱印高は20万2626石)に栄進,この恩顧の念が明治維新に際しても藩主の行動を制約した。通称石高24万石は,長宗我部(ちようそがべ)検地で打ち出された本田の地積を,1反=1石の率で換算した数字で,朱印高は本田に石盛(こくもり)をしたものである。近世を通じて開発された新田面積はほぼ本田に等しく,明治初年の合計石高は49万余石にのぼった。

 1601年(慶長6)浦戸城に入った一豊は,弟康豊を中村2万石,深尾重良を佐川1万石など,一門重臣6家を要地に配し,みずからは新たに高知城を築いて03年入城した。中村山内家はいったん断絶したが,2代藩主忠義の次男忠直が3万石をもって再興し中村藩を分立させた。中村藩は89年(元禄2)将軍徳川綱吉の怒りに触れて廃藩,幕府領となったのち本藩に返付された。忠義の三男一安は江戸に麻布山内家を興し,子孫は本藩収納米のうちから1万石を分与されて,定府(じようふ)大名の土佐新田藩主となった。土佐藩士の身分は,家老,中老,馬廻(うままわり),小姓組,留守居組,郷士,用人,徒士(かち),足軽,武家奉公人等に分かれ,留守居組以上を上士(じようし),郷士以下を下士(かし)と称したが,のちその中間に白札身分が派生した。上士のほとんどは,藩祖一豊に従って来国した家系を誇り,高知の郭中に集住した。郷士制度は,農民化していた一領具足(長宗我部氏の下級家臣)の子孫を,新田開発を条件に取り立てたことから起こり,野中兼山の執政時代に登用された初期郷士は1000人に及んだ。上士と下士の差別は根深く,幕末維新の政争にも反映した。職制は,側用役や江戸・京都の留守居役など近習家老の統轄する内官と,執政・参政・大監察・三奉行など行政担当の外官に分かれていた。

 城下の町会所には地下役として総年寄,庄屋,年寄,惣組頭が詰め,郷村では庄屋(小村の場合は名本)・老・組頭の三役があり,納所座(なつしよざ)を置いて年貢を徴収,浦分でも同様の三役がいたほか,浦奉行配下の分一(ぶいち)役人が出張して,分一金の徴収と売米の管理を担当した。

 初期の藩政は,村方の動揺を鎮めるため旧来の慣行に従うことを公約し,走者(はしりもの)の禁止に努めた。やがて財政難から元和改革が必要となったが,検地の対象は新田に限られ,その後も本田には及ばなかった。17世紀中葉,執政野中兼山の手で領内の大開発が推進されたが,領民のはなはだしい疲弊を招いて兼山は失脚し,寛文改替と称する民力休養の政治が行われた。以後藩政では合議制による文治主義が支配的で,1690年には元禄大定目の制定をみた。18世紀に入ると1707年(宝永4)の大地震津波,27年(享保12)の城下の大火,32年の凶作など災害が相つぎ,藩は家臣の借地,農民の出米徴収,紙の専売制などを強行して,池川紙一揆に代表されるような民衆の抵抗にあい,天明改革では藩費半減の方針を採用した。その後,天保年間(1830-44)には馬淵嘉平による改革の企てが挫折,幕末には海防問題が切迫するなかで,山内容堂(豊信)に登用された吉田東洋が安政改革を推進した。東洋が土佐勤王党に暗殺されたあと,その志を継ぐ後藤象二郎は豊信の意を受けて藩内の勤王党を制圧,やがて時勢をみて脱藩組の坂本竜馬と提携して大政奉還を実現した。
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藩名・旧国名がわかる事典 「土佐藩」の解説

とさはん【土佐藩】

江戸時代土佐(とさ)国土佐郡高知(現、高知県高知市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は教授館(こうじゅかん)(のち致道館(ちどうかん))。1601年(慶長(けいちょう)6)、改易(かいえき)された長宗我部盛親(ちょうそがべもりちか)に代わって、山内一豊(やまうちかずとよ)関ヶ原の戦いで東軍に与(くみ)して加増を受け、遠江(とおとうみ)国掛川から入封(にゅうほう)。以後明治維新まで山内氏16代の支配が続いた。石高は20万2600石だったが、新田開発により明治初年には49万石以上に達した。一豊は長宗我部氏旧家臣の反乱に備えるため、重臣らを領内に配置して支配体制を整え、高知城の築城や城下町の整備を進め、2代藩主の忠義(ただよし)は朱子学者の野中兼山(けんざん)を登用して藩政の基礎を固めた。藩内の武士を、山内系藩士の「上士(じょうし)」と、長宗我部氏旧家臣の「郷士(ごうし)」とに厳しく分けた差別化政策は幕末の政争にも影を落とした。15代藩主の山内容堂(ようどう)(豊信(とよしげ))に起用された吉田東洋(とうよう)は安政(あんせい)の改革を断行、そのため武市瑞山(たけちずいざん)(半平太(はんぺいた))の土佐勤王党の反発を買って暗殺された。1867年(慶応3)には、大政奉還の建白書を第15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に提出。坂本龍馬(さかもとりょうま)をはじめ、中岡慎太郎(なかおかしんたろう)後藤象二郎(ごとうしょうじろう)板垣退助(いたがきたいすけ)岩崎弥太郎(いわさきやたろう)らの人材を輩出、薩摩藩長州藩とともに明治維新の指導的役割を果たした。支藩として中村藩、新田藩があった。1871年(明治4)の廃藩置県により高知県となった。◇高知藩(正称)ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「土佐藩」の意味・わかりやすい解説

土佐藩
とさはん

高知藩ともいう。江戸時代,土佐国 (高知県) を領有した藩。藩主は代々山内氏。戦国時代から関ヶ原の戦い後まで長宗我部盛親の所領であったが,長宗我部氏が西軍側について所領を没収されると,慶長5 (1600) 年 11月に遠江 (静岡県) 掛川にいた山内一豊が 20万 2600石で入封,同9年に大高坂山に高知城を築き城下町を開いた。2代忠義は,土佐南学でも知られる野中兼山を登用して藩政を確立した。その後,9代豊雍 (とよちか) は谷真潮,箕浦行直らを登用して天明の改革を断行し,次いで 12代豊資は天保の改革を行い,株仲間を解散するなど,徹底した財政改革を行なった。歴代藩主で最も名高いのは 15代豊信 (とよしげ。容堂) で,安政年間 (1854~60) に吉田東洋を中心とする実力主義の官僚機構を整備し,さらに幕末の公武合体運動の中心大名として活躍。藩主は公武合体派であったが,藩政の主流であった後藤象二郎らは坂本龍馬の指導によって大政奉還を主張し,また中岡慎太郎,板垣退助,谷干城らは武力討幕を主張して薩長と同盟を結んで明治維新の中心勢力の一つとなった。新田高を含め幕末には 49万石となった。外様,江戸城大広間詰。

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旺文社日本史事典 三訂版 「土佐藩」の解説

土佐藩
とさはん

江戸時代,土佐(高知県)を領した外様藩
藩主山内氏。藩高24万石。版籍奉還当時は実高49万石をこえた。16世紀後期,長宗我部元親が土佐1国を平定。子の盛親は関ケ原の戦いで西軍に属し所領を没収された。1601年山内一豊 (やまのうちかずとよ) が入国,高坂山に高知城を築いた。2代忠義のとき,野中兼山により藩政を確立。のち天明・天保の藩政改革で財政緊縮,国産藩営専売を確立した。維新の変革には,前藩主山内豊信 (とよしげ) を中心に公武合体,大政奉還に努力し,薩摩・長州・肥前とともに指導的役割を果たし,藩閥を形成した。

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デジタル大辞泉プラス 「土佐藩」の解説

土佐藩

土佐国、高知(現:高知県高知市)を本拠地とし、土佐国一国を領有した外様藩。関ヶ原の戦い後、長宗我部盛親(ちょうそがべもりちか)に代わり山内一豊(やまうちかずとよ)が20万2600石で入封。以後山内氏が幕末まで16代にわたり藩主をつとめた。江戸初期の南学者・野中兼山、幕末から明治期に活躍した坂本竜馬、板垣退助、岩崎弥太郎などの人材を輩出している。

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防府市歴史用語集 「土佐藩」の解説

土佐藩

現在の高知県域。幕末には、山内豊信[やまのうちとよしげ](容堂[ようどう])が安政の大獄[あんせいのたいごく]により藩主を退いた後も活躍しました。土佐藩出身の人としては、坂本龍馬[さかもとりょうま]や中岡慎太郎[なかおかしんたろう]などが活躍しています。

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百科事典マイペディア 「土佐藩」の意味・わかりやすい解説

土佐藩【とさはん】

高知藩

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「土佐藩」の解説

土佐藩
とさはん

高知藩(こうちはん)

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世界大百科事典(旧版)内の土佐藩の言及

【柄在家】より

…尼崎藩では近世初期に年貢,夫役を負担した一軒前の役家が,貧窮により没落し,揚り役百姓になったが,これを柄在家とよんだ。(2)近世土佐藩における課役の名称。通常田役とよばれ,水路補修のため,本田1反につき春3人ずつの課役を徴するものであるが,1822年(文政5)より新田にも課せられた。…

【郷士】より

…郷士にはさまざまな種類があり,類型化は容易ではないが,大きくは(1)旧族郷士,(2)取立郷士に分けられる。(1)旧族郷士は,元来は正規の武士になるべきものが,近世初頭あるいはその後になんらかの事情により郷士となったもので,薩摩藩の外城(とじよう)衆,土佐藩の郷士,津藩や近江甲賀郡の無足人十津川郷士などが知られている。日向延岡藩の小侍,郷足軽もこれにあたる。…

【土免】より

…検見取(けみどり)が当該年の作柄調査を前提とした徴租法であったのに対し,土壌の善悪を基準に年貢を定める方式。熊本藩ではこの土免について〈御土免は田畑共に地味之位をよく見届け,反別相応に相極め申したく候〉としており,また土佐藩でも〈土地の厚薄にしたがい,何村の免は何ッ成と大抵は定め置き,なおまた,五年三年を限り,その村の豊凶を見合せて春のうち免究め仕り候,これを土免と唱え申し候〉としている。土地生産性の向上によって増収を図る小農民経営の展開に対応して,作柄に基づいた年貢徴収を方針とした豊臣秀吉は,1586年(天正14)土地善悪による土免を禁じた。…

【百姓一揆】より

…18世紀後半になると,惣百姓強訴の性格は変わらないが,専売制反対一揆が闘われるようになる。1755年(宝暦5)に土佐藩では,国産方役所設置にともなう特権商人の不当な国産紙強制買上げに反対する一揆が起こる。専売制反対一揆も多くの要求項目をもつが,どの一揆も自由売買を主張して価格,流通の統制に反対する点で共通する。…

【山内氏】より

…その次子一豊は掛川の城主から1600年(慶長5)土佐20万2600石余の藩主となる。以下,忠義,忠豊,豊昌,豊房,豊隆,豊常,豊敷(とよのぶ),豊雍(とよちか),豊策(とよかず),豊興,豊資,豊熙,豊惇,豊信(とよしげ),豊範と16代272年にわたり廃藩置県まで土佐藩主を務めた。のち侯爵。…

【山内一豊】より

…安土桃山時代の武将。初代土佐藩主。通称伊(猪)右衛門。…

【山内忠義】より

…江戸初期の大名。2代土佐藩主。治世は1605年(慶長10)から56年(明暦2)の隠居までの52年間。…

※「土佐藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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