居合術(読み)いあいじゅつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「居合術」の意味・わかりやすい解説

居合術
いあいじゅつ

居合は立合(たちあい)に対する語で、敵と居合わせるや、腰の扱いですばやく刀を抜き放ち、わが身を守り敵を制する操刀の術をいう。抜刀(いあい)、居相(いあい)、座合(ざあい)、抜合(ぬきあい)、抜剣(ばっけん)、利方(りかた)(理方)、鞘(さや)の内(中)などの名称でもよばれ、その時代その流派によって、さまざまな所作や解釈が加えられているが、いずれも鋒(きっさき)(切先)が鞘を離れる瞬間に勝敗を決することを本旨としている。

 その技法は大別して、座業(ざわざ)(立膝(たてひざ)、あぐら、つくばい、居合腰)、立業(たちわざ)、歩行中の業(わざ)に区別され、得物(えもの)も流儀によってとくに長い刀や鍔(つば)なしの刀を用いるものがあり、また稽古(けいこ)用具も刃引刀、木刀、鞘入木刀のほか、肩当(かたあて)や打込台(うちこみだい)などを使用するものもあった。江戸中期、享保(きょうほう)(1716~1736)以後は礼法的要素が強調され、正座から始めて、鯉口(こいぐち)の切り方、柄(つか)への手のかけ方、放し切り、手の内の締め方、足の踏み方、刀の納め方など、作法の厳正さと、その間の気合を重視し、行住座臥(ぎょうじゅうざが)、つねに身の備えを怠らず、いかなる場合にもただちに対応できる平常の心構えが第一とされた。

[渡邉一郎]

幕末までの歴史と流派

居合の流派を発生的にみると、(1)剣術に付属して考案されたもの、(2)柔術に付属して発展したもの、(3)居合を本体とし、これに剣、柔などを付属させたもの、の三つに大別される。(3)の居合を本体とする流儀の創始者は、戦国末期に出た奥州の人林崎甚助重信(はやしざきじんすけしげのぶ)で、出羽(でわ)国楯岡(たておか)(山形県村山市)の林之明神(はやしのみょうじん)に参籠(さんろう)すること一百日、明神の啓示を得て長柄の刀をくふうして居合の妙を会得し、神夢想(しんむそう)林崎流(略して夢想流、また林崎流、重信流)を編み出した。この門流から江戸時代の初期、田宮平兵衛重(成)正(しげまさ)(田宮流祖)、長野無楽斎槿露(むらくさいきんろ)(無楽流祖)、片山伯耆守久安(ほうきのかみひさやす)(伯耆流祖)、関口弥六右衛門氏心(やろくえもんうじむね)(関口柔心(じゅうしん)、関口流祖)、一宮(いちのみや)左太夫照信(一宮流祖)などの俊才が相次いで現れた。越えて享保のころ、土佐に長谷川主税助英信(ちからのすけひでのぶ)(長谷川英信(えいしん)流の祖、略して英信流)が出て、始祖重信以来の達人といわれた。

 このほか天真正伝神道流(てんしんしょうでんしんとうりゅう)(香取(かとり)神道流)、竹内流、一伝流、制剛流など、柔、剣の流儀に付随して発展した流派も多く、柔新心流、不伝流、今枝流(理方一流)、水野流、家次流、化顕流、無外流、一心流、水鴎流、新田宮流、影山流、立身流、抜討流、山本流、荒木流などは居合流派として有名であった。それらを含めて江戸末期には居合の流派は200を超えるという。

[渡邉一郎]

明治以後の居合術

明治維新による武士階級の崩壊、さらに1876年(明治9)の廃刀令(帯刀禁止令)によって、居合諸流派は大打撃を受けた。一部有志の人々によってわずかに命脈を保ち、1886年警視庁流剣術組太刀(くみたち)の制定の際、剣術形10本に対し、居合形5本(前、後、左、右、四方)を各流派からとって組み立てたが、普及するに至らなかった。越えて1895年大日本武徳会が設立されたが、居合術はわずかに各種大会に演武の機会を与えられるにすぎなかった。ついで日露戦争前後、伯耆流の星野九門(熊本)、長谷川英信流の大江正路(高知)、大森流中山博道(東京)らの努力によってようやく居合術の存在が世に認められるようになった。中山は1920年(大正9)大日本武徳会から居合術範士と剣術範士の称号を受け、翌1921年警視庁武術師範に任命されている。

 1933年(昭和8)中山は、その後の研究の成果を踏まえて、初伝(大森流)正座11本、中伝(長谷川英信流)立膝10本、奥居合(神夢想林崎流)座業8本、立業13本、計42本の形を編成し、夢想神伝流と称して、その普及を図った。当時の武徳会居合術範士は中山ただ1人(教士31名、練士63名)であり、その影響力は大きく、現代の居合道に及んでいる。なお太平洋戦争突入直前の1941年3月、居合術の称号所有者数は、範士2、教士50、練士178、計230名と、この戦時下8か年に2.4倍となっている。

[渡邉一郎]

現代の居合道

1945年(昭和20)の敗戦とともに、GHQ(連合国最高司令部)による一連の武道弾圧政策、刀剣類の所持禁止令など、居合術にとっては壊滅的ともいえる大打撃を被った。1951年9月の講和条約締結により剣道復活の気運は急速に高まり、翌1952年10月、全日本剣道連盟(全剣連)が結成された。ついで1954年5月には全日本居合道連盟が結成され、1956年9月、総会の決議によって、多年懸案の共通居合道形を制定することとなり、同年10月、各流派より初心者向けの基本的な技を選び、5本からなる「全日本居合道刀法」を制定した。このころから居合術にかわって居合道の名が定着してきたといえる。一方、全剣連においても、組織内の強い要望を受けて居合道部を設置し、剣道と同じく段位制を採用し、称号、段位の審査基準を決定した。このため両者の間に確執を生じたが、相互に立場の相違を認め合って今日に至っている。なお、最近の居合道人口は目覚ましい増加をみせ、2008年(平成20)3月時点で全剣連加入の有段者は8万2809人である。

[渡邉一郎]

『剣道日本編集部編『新版全日本剣道連盟居合』(1990・スキージャーナル)』

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