間瀬玉子(読み)マセ タマコ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「間瀬玉子」の解説

間瀬 玉子
マセ タマコ


職業
バレエ指導

肩書
埼玉県舞踊協会会長

生年月日
明治43年 1月22日

出生地
神奈川県 横浜市

経歴
大正11年ロシア人のバレエ指導者エリアナ・パブロワ入門バレリーナとしてレッスンを重ね、15年には16歳で初舞台を踏んだ。昭和14年満州に渡ってハルビンでバレエの指導に当たり、16年に帰国した後は東京中野でバレエ教室主宰。19年戦災を避けて埼玉県熊谷市に疎開して以来、同地を拠点にバレエの指導を行い、21年には同市平戸に間瀬バレエ・スタジオを開いた。また、熊谷市文化祭への出演や埼玉県舞踊協会会長・熊谷市文化連合洋楽部長を歴任するなど、同市の文化事業にも貢献し、43年には熊谷市文化賞を受賞している。

受賞
熊谷市文化功労者〔昭和43年〕,埼玉県文連文化奨励賞(第7回)〔昭和49年〕

没年月日
昭和51年 4月13日 (1976年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「間瀬玉子」の解説

間瀬 玉子
マセ タマコ

昭和期のバレエ指導者 埼玉県舞踊協会会長。



生年
明治43(1910)年1月22日

没年
昭和51(1976)年4月13日

出生地
神奈川県横浜市

主な受賞名〔年〕
熊谷市文化功労者〔昭和43年〕,埼玉県文連文化奨励賞(第7回)〔昭和49年〕

経歴
大正11年ロシア人のバレエ指導者エリアナ・パブロワに入門。バレリーナとしてレッスンを重ね、15年には16歳で初舞台を踏んだ。昭和14年満州に渡ってハルビンでバレエの指導に当たり、16年に帰国した後は東京・中野でバレエ教室を主宰。19年戦災を避けて埼玉県熊谷市に疎開して以来、同地を拠点にバレエの指導を行い、21年には同市平戸に間瀬バレエ・スタジオを開いた。また、熊谷市文化祭への出演や埼玉県舞踊協会会長・熊谷市文化連合洋楽部長を歴任するなど、同市の文化事業にも貢献し、43年には熊谷市文化賞を受賞している。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「間瀬玉子」の解説

間瀬玉子 ませ-たまこ

1910-1976 昭和時代のバレエ指導者。
明治43年1月22日生まれ。大正12年からエリアナ=パブロワにまなび,15年初舞台をふむ。昭和14年からハルビン,東京でバレエを指導。戦後は埼玉県熊谷市で教室をひらく。間瀬バレエ・スタジオ主宰。埼玉県舞踊協会会長などをつとめた。昭和51年4月13日死去。66歳。神奈川県出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android