パブロワ

デジタル大辞泉 「パブロワ」の意味・読み・例文・類語

パブロワ(Anna Pavlovna Pavlova)

[1882~1931]ロシアバレリーナディアギレフバレエリュスに参加したが、のち一座を組織して世界各地で公演。「瀕死白鳥」で名声を得た。

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精選版 日本国語大辞典 「パブロワ」の意味・読み・例文・類語

パブロワ

  1. ( Anna Pavlovna Pavlova アンナ=パブロブナ━ ) ロシアの名バレリーナ。ペテルブルクの帝室舞踊学校に学ぶ。「瀕死の白鳥」は特に有名で、一九二二年日本でも公演した。(一八八一‐一九三一

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百科事典マイペディア 「パブロワ」の意味・わかりやすい解説

パブロワ

ロシア出身の女性舞踊家。20世紀初頭における最大のバレリーナ。ペテルブルグの帝室舞踊学校で学び,1899年マリインスキー劇場バレエ団に入団。古典作品の主役を次々と踊り,1906年にはプリマ・バレリーナとなる。1909年〈バレエ・リュッス〉の第1回パリ公演に参加したが,ディアギレフらと方針が合わず,新たに自らのグループを結成しニューヨークロンドンで公演を行う。こののち世界中を巡演して大きな反響を巻き起こした。日本へも1922年に訪れている。彼女のためにフォーキンが振り付けた《瀕死(ひんし)の白鳥》(1907年,音楽はサン・サーンス)はパブロワの代名詞ともなったレパートリーで,日本公演の際に歌舞伎界の6代目尾上菊五郎がその踊りを見て感銘を受けたという話は有名。
→関連項目ウラノワジゼルスペシフツェワチェケッティレ・シルフィード

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改訂新版 世界大百科事典 「パブロワ」の意味・わかりやすい解説

パブロワ
Anna Pavlovna Pavlova
生没年:1881-1931

ロシア出身の女性舞踊家。農民出の兵士と洗濯婦の家庭に生まれた。1899年ペテルブルグ帝室劇場の舞踊学校に学び,マリインスキー劇場でデビュー。完璧な技巧と新鮮な感覚によって古典の名作に新たな魅力を加える一方,学友M.フォーキンの新作に協力。とくにサン・サーンス作曲の《白鳥》(1907年フォーキン振付。のちに《瀕死の白鳥》と改題)は新しいバレエのシンボルとなった。1909年〈バレエ・リュッス〉のパリ公演は彼女に世界的名声をもたらした。翌年自分の一座を組織し,ロンドンを本拠に名作の抜粋と新作の小品をもって各地を巡演,その足跡は22年の日本を含めて44ヵ国に及び,いたるところにバレエ団と学校を続出させるほどの大きな影響を与えた。13年祖国を去りイギリスに居を移した。その芸術は20世紀初頭のロシアの文学,音楽,絵画に共通する〈不安の時代における美しいものへの慕情〉を秘め,魂に深く訴える力をもっていたといわれる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パブロワ」の意味・わかりやすい解説

パブロワ
Pavlova, Anna

[生]1881.2.12. ロシア帝国,サンクトペテルブルグ
[没]1931.1.23. オランダ,ハーグ
ロシアのバレリーナ。フルネーム Anna Pavlovna Pavlova。ロシア帝室舞踊学校に学び,卒業後マリインスキー劇場バレエ団に入り,『ジゼル』の主役で大成功を収め,1906年プリマ・バレリーナになった。 1907年マリインスキー劇場バレエ団を離れ,セルゲイ・パブロビッチ・ディアギレフバレエ・リュスに参加するなどしてヨーロッパを巡演。その後,男性を中心とするバレエ作品をめぐる対立から退団,ミハイル・ミハイロビッチ・モルドキンと組んで自身のバレエ団を組織し,イギリスを本拠に 1914年から世界各地を巡演,バレエの普及に貢献した。公演回数約 3600回,訪問国は 43ヵ国に上る。日本では 1922年に東京の帝国劇場および神戸,広島で公演。そのレパートリーには,名演技でパブロワの代名詞ともなった『瀕死の白鳥』のほか,『カリフォルニアケシ』『ガボット』,自作の『秋の木の葉』などがある。

パブロワ
Pavlova, Eliana

[生]1899.3.22. チフリス(現トビリシ)
[没]1941.5.6. 南京
ロシア生れの舞踊家。白系ロシア人貴族の家に生れる。革命を逃れて,妹ナデジダとともに上海経由で 1920年頃日本に亡命。ペテルブルグ帝室舞踊学校で学んだ実績を生かして鎌倉七里ヶ浜で教室を開き,定住した。日本バレエ界の黎明期にあって教室は多くの人材を集め,東勇作橘秋子服部智恵子,貝谷八百子ら,のちのリーダーとなる舞踊家を輩出。また,37年帰化し霧島エリ子を名のって,戦地への慰問活動を行い,その途中,南京で客死するまで広くバレエ界に貢献した。没後,ナデジダが教室を受継ぎ,活動を続けた。

パブロワ
Pavlova, Karolina Karlovna

[生]1807.7.22. ヤロスラブリ
[没]1893.12.14. ドイツ,ドレスデン
ロシアの女流作家。主著『クレムリンでの会話』 Razgovor v Kremle (1954) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「パブロワ」の意味・わかりやすい解説

パブロワ
ぱぶろわ
Анна Павловна Павлова/Anna Pavlovna Pavlova
(1881―1931)

ロシア出身のバレリーナ。サンクト・ペテルブルグに生まれ、同地の帝室舞踊学校に学ぶ。マリンスキー劇場に入り、1906年にはプリマ・バレリーナとなる。07年にフォーキン振付けの『瀕死(ひんし)の白鳥』を踊り名声を得た。09年ディアギレフのロシア・バレエ団に参加したが、11年以降自身のバレエ団を創設し、イギリスを本拠に世界各地を巡演。日本にも22年(大正11)に来演し、6世尾上(おのえ)菊五郎と舞踊の交歓会を開いている。ダンサーとして抜群の魅力を備え、とくに手の表現の柔らかさは観客の目を見張らせた。現在も出演映画『不死の白鳥』(1924)に、その魅力の片鱗(へんりん)をみることができる。

[市川 雅]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「パブロワ」の解説

パブロワ Pavlova, Eliana

1899-1941 ロシアの舞踊家。
1899年3月22日生まれ。白系ロシア人の貴族。8歳のときからバレエをまなぶ。ロシア革命後の大正9年(1920)母と妹をつれて日本に亡命。昭和3年鎌倉の七里ケ浜にバレエスクールを開設し,多数の舞踊家をそだてた。12年日本に帰化。軍慰問中の南京で,昭和16年5月3日客死。43歳。日本名は霧島エリ子。

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