日本大百科全書(ニッポニカ) 「関・大宝城の戦い」の意味・わかりやすい解説
関・大宝城の戦い
せきだいほうじょうのたたかい
南北朝時代に常陸(ひたち)関郡の関城(茨城県筑西(ちくせい)市)、下妻庄(しもづましょう)の大宝城(同県下妻市)で展開された南北両軍の合戦。関城は大宝沼に突出した要害。城主関宗祐(むねすけ)は大宝沼を挟んで南東に位置する大宝城の下妻政泰(まさやす)と呼応し、関東における南朝勢力屈指の拠点として足利(あしかが)方に激しく抗戦した。1341年(興国2・暦応4)11月北畠親房(きたばたけちかふさ)は関城に入り、すでに大宝城に入っていた春日顕時(かすがあきとき)とともに東国の南朝勢力の糾合を企てた。高師冬(こうのもろふゆ)以下結城(ゆうき)、佐竹(さたけ)氏など足利氏の軍勢は関・大宝城を攻囲し、陸路の往反を押さえ、城内への兵糧・軍事物資の搬入を阻止、宗祐・政泰らは必死の抵抗を試みたが、43年(興国4・康永2)11月ついに落城、戦死した。親房はあやうく脱出し、吉野へ向かった。関・大宝城の落城とともに、関東における南北両軍の軍事的抗争は事実上終結し、足利氏の支配が確立した。
[市村高男]