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関城 せきじょう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

関城
せきじょう

茨城県西部,筑西市南西部の旧町域。鬼怒川小貝川に囲まれた常陸台地の西部にある。 1956年関本町と河内村,黒子村の2村が合体して関城町が発足。 2005年下館市,明野町,協和町と合体して筑西市となった。

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関城
せきじょう

藤原秀郷の子孫と称する関氏の鎌倉時代以来の居城。茨城県筑西市関舘,大宝沼中に突出した山城であった。南北朝時代北畠親房関宗祐に擁せられ,常陸国小田城からここに移り,数ヵ月にわたって北朝方高師冬らの軍と戦い,この間陸奥国白河城主結城親朝にあて,南朝回天の策を立ててその援助を訴えた『関城書』を書いた。

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デジタル大辞泉の解説

せき‐じょう〔‐ジヤウ〕【関城】

茨城県筑西市にあった鎌倉・南北朝時代の城。北畠親房(きたばたけちかふさ)が入城して北朝軍と戦った本拠地

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百科事典マイペディアの解説

関城【せきじょう】

中世,常陸(ひたち)国の関氏の居城。城跡(史跡)は茨城県筑西市関館(せきたて)の舌状台地上にある。南北朝内乱期には南朝方の拠点で,小田城から迎えられた北畠親房が入城。

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大辞林 第三版の解説

せきじょう【関城】

茨城県筑西市にあった城。南北朝争乱の折、城主関宗祐は南朝に属し、北畠親房らと籠城ろうじようしたが、高師冬に攻められ、1343年落城。土塁が現存。

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日本の城がわかる事典の解説

せきじょう【関城】

茨城県筑西市(旧関城町)にあった城。国指定史跡。三方が低い湿地帯となっている堅固な城だった。鎌倉時代の初めに、結城家2代当主朝広の四男の朝泰が築いたとされる城で、以後、朝泰の家系はこの城を本城として代々関氏を名乗った。城主の関氏は南北朝時代には南朝方として活躍し、南朝方と北朝方の間に起こった常陸・下総の争乱で、大宝城、下妻城とともに南朝方最後の拠点となった城である。城主の関宗祐は1341年(暦応4/興国2)、小田城の小田治久が北朝方に寝返り、城を開城する直前に、同城を脱出した北畠親房を迎え入れている。小田城を攻めていた足利幕府(北朝方)の高師冬(こうのもろふゆ)は大宝城と関城の攻撃を開始。しかし、関城の守備は固く、坑道を掘るなどの作戦も露見して失敗し、足利軍の結城直朝を討ち取るなどの戦果をあげて撃退した。しかし、多勢に無勢で、長期間にわたる籠城戦の中で兵力や食糧を消耗して、1343年(康永2/興国4)、関宗祐とその子宗政は討ち死にし、ついに関城は落城した。現在、城跡は民家、畑、水田などになっているが、各所に土塁や空堀跡などの遺構が残っている。関城を落城させた高師冬が城に向けて掘らせた坑道も残っている。JR水戸線結城駅からバス。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

関城
せきじょう

茨城県西部、真壁(まかべ)郡にあった旧町名(関城町(まち))。現在は筑西(ちくせい)市の南西部を占める地域。1956年(昭和31)関本町と河内(かっち)、黒子(くろご)の2村が合併して、各町村に関係のある国指定史跡関城跡にちなんで関城町と改称した。2005年(平成17)、下館(しもだて)市、真壁郡明野(あけの)町、協和(きょうわ)町と合併、筑西市となった。旧町域は鬼怒(きぬ)川と小貝(こかい)川に挟まれ、高度30メートルの台地をなす。関東鉄道常総(じょうそう)線と国道294号が通じる。南北朝時代は関氏領で南朝方の拠点となり、前述の関城は『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』を著した北畠親房(きたばたけちかふさ)も入城して北朝軍と戦った。近世は鬼怒川水運で栄えた。米、ニラ、ネギなどを産するほか、早くから茨城県最大のナシの産地となっている。また県農業総合センターがあり、独立行政法人家畜改良センター茨城牧場もある。結城紬(ゆうきつむぎ)の名で知られる紬織業が行われるほか、関館(せきたて)工業団地、つくば関城工業団地があり、近代工業も立地する。県指定史跡で装飾古墳の船玉(ふなだま)古墳や関東天台宗の本山、千妙(せんみょう)寺がある。[櫻井明俊]
『『関城町史』全10巻(1983~1988・関城町)』

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世界大百科事典内の関城の言及

【居庸関】より

…関道は万里の長城の八達嶺を前線とし,南口を後衛として約20km,その間に500mの高低の差があって,関はその中央に位置する。周囲6km余の関城は,モンゴルの侵入がもっとも激しかった明代に築かれたもので,ここに隆慶衛(のち延慶衛と改名)をおき多数の守備兵を駐屯させた。今この関城の中心に道路をまたいで,大理石のアーチ型の門が立っているが,これは元代,1343年(至正3)に交通安全を祈って建造された過街塔の台座なのである。…

【城】より

…城門は国都などは《周礼(しゆらい)》にもとづき12門を基準としたが,州県程度では規模に応じて2~4門,城門の外側には半月形の甕城(おうじよう)と称する副城壁や,内側に日本の升形のような防壁を設けることも宋代に普遍化する。 城の形は,華北では方形,長方形が大部分で,山西や陝西では軍事上の必要から甕城をさらに強化,拡大した関城を設ける場合もあったが,華中や華南では円形,楕円形,不整形の城も目だつ。唐以後の国都やいくつかの大都市では2重,3重の城壁をもち,明・清時代の北京は4重の城郭を備え,内城(子城),外城(羅城)など呼名も分かれている。…

【都市】より

…交通路が城内に入る地点には,新しく市域が広がり,それが一定程度発達すると新しい城郭で囲まれることもまれでない。城外廂(しよう),関城と呼ばれる部分がそれである。宋の国都,開封と杭州をはじめ,地域の中心をなす成都,江陵,江寧(南京)などの大都市では著しく人口が増加し,唐都長安の市制や坊制を過去のものとした。…

【関城[町]】より

…東を小貝川,西を鬼怒川が流れ,常陸台地が中央部に広がる。町名は南北朝時代に北畠親房が拠った関城にちなむ。幕末に武蔵国(現,神奈川県)川崎から伝えられた梨栽培が発展し,全国的な産地となっている。…

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