茨城県西部、真壁郡(まかべぐん)にあった旧町名(関城町(まち))。現在は筑西市(ちくせいし)の南西部を占める地域。1956年(昭和31)関本町と河内(かっち)、黒子(くろご)の2村が合併して、各町村に関係のある国指定史跡関城跡にちなんで関城町と改称した。2005年(平成17)、下館市(しもだてし)、真壁郡明野町(あけのまち)、協和町(きょうわまち)と合併、筑西市となった。旧町域は鬼怒(きぬ)川と小貝(こかい)川に挟まれ、高度30メートルの台地をなす。関東鉄道常総(じょうそう)線と国道294号が通じる。南北朝時代は関氏領で南朝方の拠点となり、前述の関城は『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』を著した北畠親房(きたばたけちかふさ)も入城して北朝軍と戦った。近世は鬼怒川水運で栄えた。米、ニラ、ネギなどを産するほか、早くから茨城県最大のナシの産地となっている。また県農業総合センターがあり、独立行政法人家畜改良センター茨城牧場もある。結城紬(ゆうきつむぎ)の名で知られる紬織業が行われるほか、関館(せきたて)工業団地、つくば関城工業団地があり、近代工業も立地する。県指定史跡で装飾古墳の船玉古墳(ふなだまこふん)や関東天台宗の本山、千妙寺(せんみょうじ)がある。
[櫻井明俊]
『『関城町史』全10巻(1983~1988・関城町)』
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…関道は万里の長城の八達嶺を前線とし,南口を後衛として約20km,その間に500mの高低の差があって,関はその中央に位置する。周囲6km余の関城は,モンゴルの侵入がもっとも激しかった明代に築かれたもので,ここに隆慶衛(のち延慶衛と改名)をおき多数の守備兵を駐屯させた。今この関城の中心に道路をまたいで,大理石のアーチ型の門が立っているが,これは元代,1343年(至正3)に交通安全を祈って建造された過街塔の台座なのである。…
…城門は国都などは《周礼(しゆらい)》にもとづき12門を基準としたが,州県程度では規模に応じて2~4門,城門の外側には半月形の甕城(おうじよう)と称する副城壁や,内側に日本の升形のような防壁を設けることも宋代に普遍化する。 城の形は,華北では方形,長方形が大部分で,山西や陝西では軍事上の必要から甕城をさらに強化,拡大した関城を設ける場合もあったが,華中や華南では円形,楕円形,不整形の城も目だつ。唐以後の国都やいくつかの大都市では2重,3重の城壁をもち,明・清時代の北京は4重の城郭を備え,内城(子城),外城(羅城)など呼名も分かれている。…
…交通路が城内に入る地点には,新しく市域が広がり,それが一定程度発達すると新しい城郭で囲まれることもまれでない。城外廂(しよう),関城と呼ばれる部分がそれである。宋の国都,開封と杭州をはじめ,地域の中心をなす成都,江陵,江寧(南京)などの大都市では著しく人口が増加し,唐都長安の市制や坊制を過去のものとした。…
…東を小貝川,西を鬼怒川が流れ,常陸台地が中央部に広がる。町名は南北朝時代に北畠親房が拠った関城にちなむ。幕末に武蔵国(現,神奈川県)川崎から伝えられた梨栽培が発展し,全国的な産地となっている。…
※「関城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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