下妻庄(読み)しもつまのしよう

日本歴史地名大系 「下妻庄」の解説

下妻庄
しもつまのしよう

市南西端の下妻・馬間田ままだ付近に比定される安楽寺(太宰府天満宮)領庄園。安楽寺草創日記によれば、永承二年(一〇四七)下妻庄五三町一反余が金堂に寄進され、延久四年(一〇七二)に建立された食堂の修理料所とされたという。弘安年間(一二七八―八八)と推定される国分友兼重申状案(新田神社文書/鎌倉遺文二二)に庄名がみえ、友兼は自らを御家人と主張しながら、本所一円地である当庄預所職を望み、預所の五郎兵衛尉とその弟を殺害したと指弾されている。正和二年(一三一三)少別当兼検校大鳥居信朝は当庄の庄司職およびその職田である得丸とくまる名などの安堵を申請し、認められた(同年二月日「信朝所領等注進状」太宰府天満宮文書/鎌倉遺文三二)

下妻庄
しもつまのしよう

下妻庄の初見は「吉記」承安四年(一一七四)三月一四日条で、「下総国松岡庄訴申常陸国下津真庄下司広幹乱行事」とある。下司広幹とは茨城南郡郡司で、南野みなみの牧・村田むらた庄の開発領主でもあった常陸平氏流下妻広幹である。下妻を姓とすることから広幹の根拠地は下妻台地辺りにあったと考えられ、村田庄の西半分(小貝川以西)を下妻庄として分立させたようである。「吾妻鏡」建久三年(一一九二)九月一二日条には「小山左衛門尉朝政先年募勲功浴恩沢、常陸国村田下庄也、而今日賜政所御下文、其状云 将軍家政所下 常陸国村田下庄下妻宮等 補任地頭職事 左衛門尉藤原朝政」とあり、下妻宮を含む地と考えられる下妻庄は村田下庄と称され、小山朝政が地頭職に補任されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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