領家郷
りようけごう
的淵・鏡両川右岸と、その西方分水嶺西山腹の諸村を近世、領家郷といった。川を境に東を地頭分郷といい、中世に下地中分が行われた荘園の領家分であったと考えられるが詳細は不明。慶長二年(一五九七)の秦氏政事記(蠧簡集)には「土佐山」の領家分庄屋がみえ、地頭分郷、土佐山郷(現土佐山村など)とともに「土佐山」といわれていた可能性が強い。この地域の検地結果は天正一七年(一五八九)の領家山地検帳・領家山切畑地検帳にまとめられ、地積六一町四九代、切畑一九町五反一三代で、田地が多くを占めた。比較的まとまった平地のある地域は大黒氏・片岡氏などの長宗我部氏家臣の給地。
「土佐州郡志」は領家郷として現鏡村内の去坂・竹奈路・横屋・増原・梅木・小山・葛山、現高知市内の上利・領家・唐岩・行川・針原、現吾川郡伊野町内の中追・槙の一四ヵ村を記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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