養徳院(読み)ようとくいん

日本歴史地名大系 「養徳院」の解説

養徳院
ようとくいん

大徳寺の塔頭。南門を入ったすぐ東側にある。将軍足利満詮が先室妙雲院善室のために妙雲院を創建したのに始まり(正続大宗禅師行状)、応永二五年(一四一八)五月、満詮の死後その子通玄尼寺竺英長老が養徳院と改称し、春浦宗熙を開山とした。養徳院は満詮の法号。

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関連語 応仁 寺宝 京都

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「養徳院」の解説

養徳院 ようとくいん

1515-1608 戦国-織豊時代の女性。
永正(えいしょう)12年生まれ。池田政秀の娘。近江(おうみ)(滋賀県)の滝川恒利を婿にむかえ,天文(てんぶん)5年池田恒興(つねおき)を生み,同年織田信長乳母となる。このため恒興は信長に厚遇され,養徳院は大御乳(おおおち)様と称され,諸侯から尊敬された。慶長13年10月26日死去。94歳。

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世界大百科事典(旧版)内の養徳院の言及

【池田氏】より

…泰政から9代目の教依(のりより)の妻は,楠木正行に嫁いでそのたねを宿して正行の戦死後に教依に再嫁したといわれるから,教依の子教正は正行の遺腹の男とされ,ここに池田氏の楠胤説がうまれた。教正から5代目の紀伊守恒利は織田信秀に仕え,その妻養徳院は1536年(天文5)信秀の子信長の乳母になった女丈夫である。恒利の子恒興(信輝)は幼時から信長に仕え,尾張国犬山,摂津国大坂などに在城し,ついで秀吉に味方して美濃国大垣城主(13万石)となったが,84年(天正12)長久手の戦で嫡子之助とともに討死した。…

【池田恒興】より

…《寛政重修諸家譜》などは信輝とするが,この実名は確実な史料には見えない。母養徳院は織田信長の乳母。織田氏の諸征服戦に従軍,とくに1580年(天正8)摂津の荒木氏を攻めて勲功をたて,同国内で領知を与えられ,高山・中川・安部・塩川・伊丹衆を与力とし,翌年摂津軍団を率いて因幡鳥取城攻略の助勢を命ぜられた。…

※「養徳院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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