デジタル大辞泉 「乳母」の意味・読み・例文・類語
め‐の‐と【乳=母/×傅】
「もの言はぬちごの泣き入りて、乳も飲まず、―の抱くにもやまで久しき」〈枕・一五〇〉
2 (傅)貴人の子を守り育てる役目の男。もりやく。
「―の兼遠を召して宣ひけるは」〈平家・六〉
ち‐おも【乳▽母】
「
擬制的親族のうち,哺乳にもとづくものに乳母がある。古代オリエント,古代ギリシア,ローマ,中世ヨーロッパ,カフカス,西アジア,インド,中国,朝鮮,日本,マレー,ポリネシア,古代インカに分布していた。この分布からみて古代文明とその周囲に特徴的な制度である。しかも乳母は王族や支配者,貴族のところで行われるのがふつうで,たとえばイギリスでは,王族や上流階級ではビクトリア時代にいたるまで,子どもを哺育させるのが習慣だった。乳母の制度のあるところでは,一般に支配者一族,ことに哺育された子どもと,乳母やその家族との間に緊密な主従関係がかためられていた。乳母と哺育された子との間に乳親族関係が生ずることも少なくない。北カフカスのアブハジア族では,出産後2~3日は母が授乳し,あとは乳母にあずけられる。乳母は自分が乳を与えたものが死んだ場合,死者の近親者と同様,すべての葬宴から遠ざかる。
→擬制的親族関係
執筆者:大林 太良
イスラム以前から今日まで,アラビアでは母親の死亡や離婚などにより,乳児に授乳できなくなった場合,父親は乳母を雇い,その乳母の衣食のめんどうを必ずみるという風習がある。とくにメッカの住民はベドウィンの乳母を雇うことが多かった。乳母の授乳期間は母親同様およそ2年が普通である。乳児に対する授乳手段の確保は,子どもの監護養育権の一部として,イスラム以降も父親に義務づけられた。また授乳により生ずる乳親族の観念は,古代アラビアから存在したが,コーランに採り上げられて(4:23),乳親族は血族に準じて禁婚親の一つとなった。すなわち男性は自分に授乳してくれた乳母および同じ乳で育った乳姉妹とは結婚できない。これは乳汁を精液と同一視して生命の根源とみる観念によるもので,たとえば娘と彼女の乳母の夫の兄弟との間には乳親族関係は生じない。
執筆者:福島 小夜子
日本ではかつて赤子が生まれても,母親が病気になったり死亡したり,あるいは母乳の出が思わしくないときには,ウバイラズなどと呼ばれる,玄米を粉にして煮た,栄養価に乏しい代用品を与えることがあった。しかし,他人の母乳を分けてもらうのが最善であったから,乳母(めのと)という意味での乳母はいつの時代にもふつうにみられた。しかしこのような特別な事情とは別に,いわば制度として乳母をつける風習が,かつて社会の上層を中心にあった。古くは律令制下において,親王や貴人の養育にあたって,乳母がこれを行うという規定があり,その後も将軍・大名の上層武士や,民間でもごく上流の者がこの風をうけ継いでいた。いっぽう庶民の間ではこれとは別に,やはり母乳の不足に原因をもたないもらい乳の風習があった。乳つけとか乳あわせといって,子どもが生まれてはじめてのむ乳を,最初の1回だけあるいははじめの数日間,他人の乳であてる風習である。このとき,生児とは反対の性の子どもの母親にその役をたのむという点は全国でほぼ共通していた。また乳親と子どもとの間に一生特別の親しい交際がつづく場合もしばしばあった。
ところでウバにはもう一つ,姥とか嫗の字をあてて老女をさすとするものがある。能の前ジテの尉(じよう)とともにあらわれる姥は典型的な姿であるが,このほかにも日本各地に姥と称される女性にまつわる伝説は多い。かつて老女ないしは比丘尼が女人禁制の掟をおして霊山に登ろうとしたところ,神の怒りにふれて石に化してしまったとか引き返したという類のもので,各地の名山の中腹にはよく姥神や姥石などがまつられているものである。たとえば紀州高野山の捻石は,弘法大師の母が結界を越えることを許されず,恨んで足ずりをした跡だという。恨みをのんだ母は結局大師の法力で救われるのであるが,ここで姥と大師は母と子の関係にあった。このように姥が乳母と同様に子育てとかかわるのも一つの特徴である。ウバが淵の伝説とは,殿様の子どもをあやまって淵におとしてしまった乳母が,自分もつづいて身をなげたという話で,これも類例は各地にある。またこれとほぼ同様の内容をもつウバ桜の伝説にも,子どもと同時に水が関係してくることが多い。赤子をつれた女が水辺にあらわれて人に子どもを抱かせるという怪談も,この一例にほかならない。これらの話ではウバは若い女と説かれていることからもわかるように,ウバとはかならずしも老女をさすのではなく,目上の女性の総称であった。すなわちウバとはかつて水辺にあって神をまつり,あるいは神の子を育てることを役目とするある種の女性であったのが,のちさまざまな伝説や昔話,風習に展開してきたものであろう。
→乳 →乳母(めのと)
執筆者:真野 俊和
実母に代わって子女の養育に当たる女性の称。乳母をおく風習は古代の貴族・豪族の間では一般的なことであった。《日本書紀》神代巻には〈ちおも〉とあり,また〈ちぬし〉と称することもあった。律令によれば親王およびその子には乳母が給されることになっていた。乳母と被扶養者との関係は非常に親密で,近親に近い扱いをうけた。9世紀の初めころまでは,例えば,阿倍内親王(のち孝謙天皇)と阿倍朝臣石井のように,親王の名に乳母の氏族名を付けることもごくふつうに行われた。また天皇や院,摂政,関白の乳母およびその一族は特別な優遇を受け,破格の昇進をすることも多く,政治的に大きい力をふるうこともあった。院政期において院近臣として権勢を誇った白河上皇の乳母従二位藤原親子の子藤原顕季の一族の場合などはその顕著な例である。平安時代中期以降,天皇の乳母は典侍となる例が多い。
執筆者:玉井 力 平安中期以降貴族中心に乳母が養育に重点をおいて盛行するにともない,その夫である乳母夫(めのとぶ)も役割の同一性から乳母とよばれ,さらに貴人の子の養育にあたる男性一般をも,傅の字を用いながら,〈めのと〉とよぶようになった。乳母,傅は,武士が社会的に成長する平安後期以降は武家の間にもひろまった。貴族,武家をとわず,乳母,傅は通常親族または従者,郎等格のもののうちから,とくに当該父母の信頼を受けた者があたり,身分の高い場合ほど幼少時の実生活全般を見る傾向が強い。その教育範囲は読書,作文はもちろん,貴族の場合は詩歌,管絃,武家の場合は武芸にまで及んだ。この結果乳母,傅と被養育者の結びつきは,実父母以上に強いことが珍しくなく,乳母,傅の家族,とくに乳母,傅の子は,〈めのとご〉とよんで実の兄弟姉妹以上のきずなで結ばれることもあった。乳母,傅およびその一族は,幼少期の以上のような強い関係を背景に,被養育者の成人後も公私両面にわたって支え,また支えられる関係を維持するのが通例であった。この場合,貴族の社会では外戚が招婿婚などを背景に乳母,傅をこえる力を発揮することが多かったが,武家の社会では外戚をおさえて父権を強化しようとする傾向がより強かったから,源頼朝の乳母を出した比企一族のように,乳母,傅が外戚に匹敵する力をもって政治的な発言力を得ることさえあった。南北朝・室町時代以降,父系の家が強化された父権の下に家政機構をともなって世襲的に確立されるようになると,乳母,傅の役割は一般的には固定,縮小される傾向をたどるが,養育で結ばれた両者のきずなの強さは潜在的にはかわらず,近世に及んでも徳川3代将軍家光の乳母春日局のように,ときに政治的実権をもつこともあった。
→乳母(うば)
執筆者:義江 彰夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
実母のかわりに乳児に授乳し養育する女性。乳母は実母が病気または死去した場合、乳の出ない場合などに頼むが、おも、ちおも、めのと、おんばなどといって、古来宮廷貴族の間では、生母が乳養せず、生児のために授乳する女を置く風があった。乳母ということばは、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などにもみえ、平安時代以降近世まで『栄花物語』をはじめ諸記録にみえている。男性でも傅役(もりやく)を乳母とよぶ場合があった。乳母の子は乳兄弟(めのとご)とよばれて好遇された。江戸時代には将軍家や諸大名もこの慣習を行い、乳母の権力は春日局(かすがのつぼね)(徳川家光(いえみつ)の乳母)のように大きかった。乳母は選ばれると扶持(ふち)を支給されたが、自分の家を放棄し、自分の子は里子に出さねばならなかったので敬遠された。『守貞漫稿(もりさだまんこう)』によると、江戸では乳母は奉公人中もっとも給金が高く、乳母の子の養育費も支給するのが普通であった。上流の豪農、豪商、商家などでも乳母を置き、この風は明治以降も続いた。子供がだいじに育てられることを「お乳母(んば)日傘」といった。一般庶民の間では母乳が出ない場合や足りないときに頼み、乳母の容貌(ようぼう)や性質は乳児にうつるといわれて、その選定には注意した。
産育の習俗として、生児に最初の乳を与えるのに生母でなく、他の女性の乳を飲ませるという風習がある。生後2日間くらいは母乳でなく、同じころに産をしてすでに哺乳(ほにゅう)をしている他の人の乳を与えた。これを乳(ち)付けとかチチアワセといい、男児には女児をもつ人の、女児には男児をもつ人の乳を与えた。乳付けした人を乳付け親といい、生児と仮の親子関係を結んだ。乳付け親は地方によってチチンバ、チアンマ(乳母)、シウヤ(乳付け親)などといい、こうするとじょうぶに育つ、縁組が早いという。乳母と子も擬制的親子関係であり、乳母の子と生児とは乳(ち)兄弟の関係となる。
[大藤ゆき]
『恩賜財団母子愛育会編『日本産育習俗資料集成』(1975・第一法規出版)』▽『『産育習俗語彙』(『定本柳田国男集30』所収・1963・筑摩書房)』▽『大藤ゆき著『児やらい』(1968・岩崎美術社)』
母親にかわって、幼児に乳を飲ませて養い育てる女、また、養い育てた現在でも、その世話をし続けている女の古称。「ちおも」「ちのひと」ともいい、近世では「うば」といった。古来貴族は、生児のために授乳する女を置くのを例とし、生児に初めて乳を含ませるのを「乳付(ちづ)け」というが、それは乳母が行った。そして、幼児はほとんど乳母の手で養育されるのが例であった。この慣習は武士にも継承された。
[佐藤裕子]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
実母にかわって子どもの養育にあたる女性。本来の役割は嬰児に授乳することだが,平安中期~鎌倉時代は養育に重点がおかれた。平安末期以降,乳母の夫も「めのと」(乳父)とよばれるようになり,被養育者の家政をとりしきる執事的存在として,また被養育者の後見人として重要な立場に位置づけられた。上皇・天皇の乳母・乳父や乳母子(めのとご)は,特別な待遇をうけ,破格の昇進をとげることが多かった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…宗族は秩序の体系を持っており,人々はその中で一定の地位を占め,そのことから身分関係や国家の法との関係を規制され,各人は親族名称,すなわち〈名〉に応じた行動規準を持たねばならない。全体は図4を参考に供するとして,たとえば〈はは〉についてみると,生みの母を〈親母〉,めかけの子は父の正妻を呼んで〈嫡母〉,前妻の子は後妻を呼んで〈継母〉,めかけの子がその生みの母を失い,他のめかけが養育するとそのめかけを〈慈母〉,養子は養い親の妻を〈養母〉,離婚された親母を〈出母〉,寡婦たる親母で他人に嫁いだものを〈嫁母〉,父のめかけで子あるものを他の子は〈庶母〉,父のめかけで己に乳を与えたものを〈乳母〉という。親母を除いてこれらを〈八母〉というが,それぞれに礼制上,服喪の期間などが細かく段階的に定められていることはもちろん,律の上でも一定の扱いがある。…
…牛乳人工栄養【沢田 啓司】
【文化史】
日本にはかつて,出産直後の母乳である初乳を〈新乳(あらちち)〉といって捨て,かわりに他の乳児の母親から乳をもらう〈乳合せ〉という風習があったが,感染の機会にもなるので,〈乳合せ〉には通過儀礼としての社会的意義はあるとしても,医学的には有害無益である。J.J.ルソーは乳母(うば)にゆだねずに子を母乳で育ててこそ,親子と夫婦のきずなが固くなり,家庭生活が魅力あるものになると強調した。乳母はヨーロッパにも日本にも古くからいたが,乳の出が悪い場合には,もらい乳をしなければならない場合もあるので,乳母に託することを一概に悪いとはいえない。…
…擬制的親族のうち,哺乳にもとづくものに乳母がある。古代オリエント,古代ギリシア,ローマ,中世ヨーロッパ,カフカス,西アジア,インド,中国,朝鮮,日本,マレー,ポリネシア,古代インカに分布していた。…
※「乳母」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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