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大徳寺 だいとくじ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大徳寺
だいとくじ

京都府京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山。山号は竜宝山。正和4(1315)年大燈国師宗峰妙超の創建。花園天皇後醍醐天皇の帰依があつく勅願所とされ,また他門の僧の入寺を許さない独自の禅道場として,鎌倉幕府を背景とする五山派に対し,在野的立場をとった。

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デジタル大辞泉の解説

だいとく‐じ【大徳寺】

京都市北区にある臨済宗大徳寺派の大本山。山号は竜宝山。開創は正中元年(1324)、開山は宗峰妙超、開基は赤松則村後醍醐天皇から勅額を賜り、五山の一となったが、のち、その位を辞し在野的寺格を保つ。応仁の乱で焼失したが、堺の豪商の帰依を得て一休宗純が再建。多数の塔頭(たっちゅう)があり、また、国宝の唐門は聚楽第(じゅらくだい)の遺構と伝えられる。有名な茶室・茶庭も多い。

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百科事典マイペディアの解説

大徳寺【だいとくじ】

京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の大本山。大灯国師が小庵を開いたのが始まり。後醍醐天皇の勅額を受けて五山に列した。室町末〜桃山期に堺の豪商や織田信長豊臣秀吉などの外護により大伽藍(がらん)が整備された。
→関連項目雲谷等顔小宅荘狩野松栄唐門枯山水北[区]京都[市]京都五山紫衣事件宗峰妙超聚楽第寸松庵色紙大徳寺文書伴野荘名田荘長谷川等伯飛来一閑文清満月寺破田村

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デジタル大辞泉プラスの解説

大徳寺

京都府京都市北区にある寺院。創建は1315年。臨済宗大徳寺派大本山、本尊は釈迦如来。方丈庭園は国の史跡・特別名勝に指定。千利休が2階を増築し、利休居士像を安置したことが自決の原因となった山門(国の重要文化財)など多くの文化財を保有。

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世界大百科事典 第2版の解説

だいとくじ【大徳寺】

京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の大本山。山号は竜宝山。開山は大灯国師宗峰妙超(しゆうほうみようちよう)である。1315年(正和4),妙超が赤松則村の帰依を受けて,雲林(うりん)院の旧地に小堂を建てたのが当寺の草創であるという。そののち花園・後醍醐両帝の厚い外護(げご)のもと,妙超は寺域を拡大し,24年(正中1)禅苑として堂舎を整え,竜宝山大徳寺と号した。翌25年花園天皇の勅願寺となり,33年(元弘3)には後醍醐天皇の祈願所となって〈本朝無双之禅苑〉なる勅額を下賜され,五山の第1に列せられた。

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大辞林 第三版の解説

だいとくじ【大徳寺】

京都市北区にある臨済宗大徳寺派の総本山。山号、竜宝山。後醍醐天皇の勅により、1324年宗峰妙超しゆうほうみようちようを開山として創建。真珠庵・聚光院・大仙院など多数の塔頭たつちゆうがある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大徳寺
だいとくじ

京都市北区紫野(むらさきの)大徳寺町にある臨済(りんざい)宗大徳寺派の大本山。山号は竜宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。1324年(正中1)の創建で、開基は赤松則村(のりむら)、開山は大燈(だいとう)国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)。花園(はなぞの)上皇・後醍醐(ごだいご)天皇の祈願所となり、1326年(嘉暦1)開堂の式をあげた。ついで1333年(元弘3・正慶2)後醍醐天皇より「本朝無双禅苑(ぜんえん)」の勅翰(ちょっかん)を賜って五山の第一位に推されたが、1386年(元中3・至徳3)足利義満(あしかがよしみつ)により十刹(じっせつ)の第九位に下された。1431年(永享3)十刹の位を辞し、厳粛な禅風を守り在野的立場をとった。1453年(享徳2)火災により堂宇の大半を焼失、再建後まもなく応仁(おうにん)の乱にあってふたたび諸堂を失った。1474年(文明6)一休宗純(いっきゅうそうじゅん)が入住し第48世の住持となり、堺(さかい)の豪商の援助を得て再興に力を尽くした。1582年(天正10)豊臣(とよとみ)秀吉が織田信長を当寺に葬り、菩提(ぼだい)所総見(そうけん)院を寺内に建立して寺領を寄進し、これより浅野幸長(よしなが)、黒田長政(ながまさ)、前田利長(としなが)らの諸大名も寺内に諸院を寄進したため、ようやく諸堂完備し盛観を呈した。また千利休(せんのりきゅう)、小堀遠州(こぼりえんしゅう)といった茶人も山内に庵(いおり)を結び、ために茶道との縁由を深め、現に多くの茶室・茶庭が造営され今日に伝えられている。
 江戸時代には、寺領2000石余の朱印を有して寺門すこぶる繁栄したが、明治維新後は寺領を失って衰微。1876年(明治9)9月独立して大徳寺派を公称した。広大な寺域には、唐(から)門、方丈(ほうじょう)(ともに国宝)、勅使(ちょくし)門、三門(山門)、仏殿、法堂(はっとう)、寝堂、庫裡(くり)、経蔵、鐘楼(以上、国重要文化財)などの伽藍(がらん)が建つ。そのうち、三門は1589年(天正17)千利休の修造したもので、このとき楼上に自像を安置したため、豊臣秀吉の不興を買い、ついに死を賜る原因となったことで知られる。また勅使門は慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に造構された皇居の南門を移したものといわれ、唐門は聚楽第(じゅらくだい)の遺構で華麗な桃山建築である。また方丈庭園は特別名勝・史跡に指定されている。寺宝は非常に多く、本坊には牧谿(もっけい)画の代表作として知られる『観音(かんのん)図』『猿鶴(えんかく)図』(ともに南宋(なんそう)代)をはじめとする宋元画や、絹本着色大燈国師像(鎌倉時代)、後醍醐天皇宸翰(しんかん)御置文、虚堂智愚墨蹟(南宋代)などの国宝、竜虎(りゅうこ)図、五百羅漢像、楊柳(ようりゅう)観音像など多くの国重要文化財を所蔵している。
 塔頭(たっちゅう)はしだいに増加し、江戸時代には約60を数えたが、現在は黄梅院、真珠庵(あん)、孤篷(こほう)庵、竜源院など22院のみである。末寺は204か寺あり、境内は6万8000余坪(2244アール)あって、織田氏その他の諸大名や村田珠光(じゅこう)などの茶人といった著名な人々の墓碑も多く、達磨(だるま)峰、瑞雲(ずいうん)軒、看雲(かんうん)亭などは名勝の地として十勝の称を与えられている。[平井俊榮]
『『古寺巡礼 京都16 大徳寺』(1977・淡交社) ▽源豊宗・坂本万七著『大徳寺』(1958・朝日新聞社) ▽佐藤虎雄著『大徳寺系譜』(1939・河原書店) ▽恩賜京都博物館編『大徳寺名宝集』(1933・便利堂)』

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世界大百科事典内の大徳寺の言及

【紫衣事件】より

…1627年(寛永4)7月,以心崇伝や老中土井利勝らは,大徳寺・妙心寺の入院・出世が勅許紫衣之法度(1613年6月)や禁中並公家諸法度(1615年7月)に反してみだりになっているととがめた。しかるに翌春,大徳寺の沢庵宗彭,玉室宗珀,江月宗玩や妙心寺単伝士印らは抗議書を所司代板倉重宗に提出したため,江戸幕府は態度を硬化させ,29年7月,あくまで抵抗した沢庵を出羽国上山に,玉室を陸奥国棚倉に,単伝を出羽国由利に配流し,さらに,1615年(元和1)以来幕府の許可なく着した紫衣を剝奪した。…

【大仙院】より

…京都市北区にある臨済宗大徳寺の塔頭。1509年(永正6)古岳宗亘(こがくそうこう)の開山。…

【徹翁義亨】より

…19歳で出家し,上洛して建仁寺の鏡堂覚円(きようどうかくえん),南禅寺の通翁鏡円(つうおうきようえん)に参じたが,五山の禅風にあきたらず,東山の雲居(うんご)庵に隠棲していた宗峰妙超(しゆうほうみようちよう)(大灯国師)の門に入り,その法を継いだ。妙超が大徳寺を開くとこれに随い,妙超没後の1338年(延元3∥暦応1),勅により大徳寺2世として入寺し,別に寺前に徳禅寺を建立した。大徳寺七ヵ条制法や徳禅寺法度を定めるなど,寺の運営に力を注ぎ,大徳寺の寺基を固めるとともに,大灯門派興隆の基礎をつくった。…

【東山文化】より

… 五山の僧侶の間にひろまった五山文学の世界では,景徐周麟,横川景三(おうせんけいざん)らが詩文で知られたが,この時期には詩文よりも経史に比重が移り,この分野では九州へ下り宋学を講じた桂庵玄樹の名が知られる。将軍家の保護を得た五山にかわり,林下の大徳寺が社会各層の帰依を得て隆盛に向かうのも,応仁・文明の乱前後からで,《狂雲集》を著した一休は,後世にも大きな影響を及ぼした。 さて武家社会では,将軍家を中心に,諸分野にわたる芸能者がこれに近侍奉仕したのが特徴で,猿楽の音阿弥や作庭の善阿弥・小四郎・又四郎3代,同朋衆では唐物奉行に当たった能阿弥芸阿弥相阿弥代,香,茶の千阿弥,立花(たてはな)の立阿弥などの名が知られる。…

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