日本歴史地名大系 「首里城跡」の解説
首里城跡
しゆりじようあと
〔古琉球〕
「中山世鑑」などの正史は開闢当初から首里が王都で、首里城も天孫氏による造営とする説を述べるが、創建時をめぐる同時代史料は今のところ存在しない。宣徳二年(一四二七)に建立された安国山樹華木之記碑(県立博物館蔵、県指定文化財)によると、尚巴志の命で懐機が中国の名園を視察して帰国し、首里城の北に池(龍潭)を掘り花木を植栽するなど外苑整備を行った。それ以前に城郭内の施設整備は進行しており、それを受けて外苑整備に取りかかったものと推定される。翌年に国門(中山門)が創建されたというから(琉球国旧記)、
景泰七年琉球に漂着し首里城を見聞した朝鮮人梁成らの報告(「李朝実録」世祖八年二月辛巳条)によると、王城は外城・中城・内城の三重構造になっており、外城に倉庫・厩が、中城に侍衛軍二〇〇人余が詰め、内城に閣が建っていた。閣は三階建になっており、上層は倉庫・保管庫、下層は酒食を供する場、中層は王のいるところで侍女が二〇〇人余もいた。閣は朱色に塗られていたが、屋根は板葺で、その外面は金属性の塗料で塗られていた。閣に連結して回廊式の建物があり、城は曲線を描く城壁で囲まれ、随所に城門が配置されていた。閣は正殿(百浦添御殿)のことで、志魯・布里の乱による全焼から三年後の見聞であるから、この時点で城はすでに再建されていたことになる。天順二年(一四五八)鋳造の万国津梁鐘(県立博物館蔵、国指定重要文化財)の銘によると、この梵鐘は王殿(正殿)の前に掛着する目的で造られた。「海東諸国紀」の琉球国之図には沖縄島中央に「琉球国都」と大書されており、円形の三つの郭が表現されている。いくつもの門があり、大倉や王弟・大臣の居所の存在が記されていることから、明らかに首里城を表現した図である。
一五世紀末―一六世紀中期の尚真王・尚清王代に重要な整備が行われた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報