都城跡(読み)みやこのじようあと

日本歴史地名大系 「都城跡」の解説

都城跡
みやこのじようあと

[現在地名]都城市都島町 本城・八幡城

北流する大淀川西岸、同川と梅北うめきた川・萩原はぎわら川合流点の西方にある。都之城とも記され、遺構としては都之城みやこのしろ跡とよばれる。近世には鶴丸つるまる城とも通称された(三国名勝図会)。築城については、南北朝前期、この地に入部した北郷資忠が宮古島みやこじまに築城して都城と改称したとするもの、宮丸氏が外孫北郷義久(資忠子)に譲渡したとするものなどが近世以来から語られてきた(「庄内地理志」「島津国史」など)。北郷氏系図・「島津国史」では永和元年(一三七五)義久が庄内南しようないみなみ郷宮古島に城を築いて都城と名付け、安永薩摩迫やすながさつまざこ(現山田町)の城から居を移したとしている。南方には南北朝期、南朝方の肝付氏与党の拠った大和田おおわだ(大岩田)城があり、これがのち都城の一部をなすとみられている(宮崎県史蹟調査)

永和二年一二月島津氏と対抗する九州探題今川了俊は、伊東氏・肥後相良氏をはじめとする日向・大隅・薩摩などの御家人らを国人一揆として組織し、今川満範を大将として北郷義久・樺山音久の拠る都城を囲んだ。翌年一月には島津氏久は志布志しぶし(現鹿児島県志布志町)を発し、都城救援のためてんヶ峰に着陣、二月末から三月一日にかけて城北西方の蓑原みのばるで合戦があった。三俣高みまたたか(現高城町)に拠った満頼らは都城を攻め落すことができず、島津方・今川方ともに一進一退の戦況であった(「肝付兼氏譜」「北郷義久譜」旧記雑録、「山田聖栄自記」「島津国史」)。この合戦などで今川満範に従い戦った土持栄勝に与えられた永和三年とみられる一二月二日付の満範書状(肝付文書)に「都城」とみえ、翌四年のものとみられる年月日欠の土持栄勝軍忠状(同文書)にも「都城御陣」とある。この頃探題方として高城に入った肥後の国人名和慈冬は、都城周辺を焼払い早田を刈取り、また都城からの野伏を討取っている(六月二九日「名和慈冬書状」・七月二五日「名和慈冬書状」禰寝文書)。康暦元年(一三七九)閏四月三日の今川了俊書状案(同文書)によれば、了俊は都城合戦に加わった国人一揆中の軍忠をねぎらったうえで再度の発向を促し、参陣の意思の有無などを起請文で注進するよう申送り、参陣しない者は島津氏久と同心とみなすとして一揆の引締めを図っている。同年一〇月七日、満範は土持栄勝に「徴矢古之陣之合戦」の忠節を賞する感状(土持文書)を発給している。

康暦二年一〇月今川勢は北郷城か崎に惣陣を取り、都城攻略のため山東勢・伊東勢一揆中を動員し、遅くとも一月一五日以降、都城を包囲すると決定し、禰寝氏に早急の参陣を促した(一〇月一六日「今川満範書状写」禰寝文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報