首里(読み)シュリ

デジタル大辞泉 「首里」の意味・読み・例文・類語

しゅり【首里】

沖縄県那覇市東部の地名。旧琉球王朝の首都。旧首里市で、昭和29年(1954)那覇市に合併。

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精選版 日本国語大辞典 「首里」の意味・読み・例文・類語

しゅり【首里】

  1. 沖縄県那覇市東部の地名。かつての琉球王朝の首都。琉球王の居城首里城城下町として発達。守礼門園比屋武御嶽(そのひやんうたき)などがある。大正一〇年(一九二一)市制。昭和二九年(一九五四)那覇市に合併。

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日本歴史地名大系 「首里」の解説

首里
しゆい

沖縄島南部、首里台地に立地する琉球王国の王都。スイともいう。北は浦添うらしー間切、北から東は西原にしばる間切、南は南風原ふえーばる間切、西は真和志まーじ間切に接する。地形的には沖縄島中部から続く丘陵の南端にあたり、北西の末吉すえよしの丘陵、東のべんヶ岳に囲まれた台地で、南部の高台に首里城が位置する。首里の語源は、明の馬観の「星槎勝覧」の「翠麗」に由来するとも、朝鮮語で都を意味する語に由来するともいわれるが(南島風土記)、いまだ定説はない。「明実録」洪武二六年(一三九三)四月辛卯条に「寿礼結致」(シュリウッチ)とみえ、古くから用いられていたともされる(南島風土記)。洪武二六年は察度王の時代であり、首里が王都であったか否かは別にして、中山の支配地に含まれていたことになる。首里の字が用いられたのは、文明年間(一四六九―八七)金丸(尚円)が島津御屋形御奉行所に宛てた書簡に押された「首里之印」が最初とされている(六月二〇日「金丸世主書状」旧記雑録)シュリに首里の好字が当てられたのであろう。「おもろさうし」や辞令書(嘉靖二年の田名家文書ほか)では一貫して「しより」と表記されている。近世は首里三平等と称された。

〔古琉球〕

首里が開かれた時期は明確ではない。「明実録」の寿礼がシュリだとすると、一四世紀末に首里は成立していたことになる。しかし王都が浦添から移っていたか否かは即断できない。首里が明確に王都と確認されるのは一五世紀初頭の尚巴志政権の成立以後である。宣徳二年(一四二七)八月、国相懐機が建てた安国山樹華木之記碑(県立博物館蔵)によれば、中国の制に倣って王城外の安国あんこく山の北に池(龍潭)を掘り、物見台を築き、遊息の所とした。山には花果・薬木を植えるなどと記している。翌三年には国門(中山門)が築かれ(「球陽」尚巴志王七年条)、首里城周辺の整備が進められていた。

一四五一年には懐機が長虹ちようこう堤を築き、那覇港に位置する浮島を陸続きとし、首里と結んだ(「球陽」尚金福王二年条)。五三年、志魯・布里の王位継承をめぐる争いで首里城は炎上、両人ともに倒れたため、尚泰久が六代の王となった(「中山世譜」巻五)。尚泰久は翌年来琉した禅僧の芥隠を重用し、首里に天龍てんりゆう寺、のちの久茂地くむじ村の地に普門ふもん寺を建立させた。五五年には天尊てんそん廟、万寿まんじゆ寺の梵鐘、五七年には下天妃しもてんぴ宮の梵鐘を鋳造させ、翌年には首里城正殿前に掛着したという万国津梁鐘(県立博物館蔵)を鋳造させた。万国津梁鐘の鐘銘は、海外交易で繁栄する王国をたたえる内容で、当時の琉球の人々の気概を表すものとなっていた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「首里」の意味・わかりやすい解説

首里
しゅり

沖縄県、沖縄本島、那覇市東部の地区。旧首里市。1921年(大正10)市制施行したが、1954年(昭和29)那覇市に編入。方音シュイ。琉球(りゅうきゅう)石灰岩台地上にあり、南は安里(あさと)川で仕切られる。旧城下町で、琉球王府時代は最高所に首里城、それを囲んで寺院、士族屋敷がつくられていた。1914年に那覇から電車が開通したが、1933年(昭和8)には廃線。沖縄戦の激戦地で、城跡地下には軍司令部が設定されていた。第二次世界大戦後、首里城跡には琉球大学が設立されたが、1977年から1984年にかけて西原町、中城(なかぐすく)村に移転。おもな旧跡に、守礼門(しゅれいもん)、園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)、円覚寺跡(えんかくじあと)、玉陵、金城(きんじょう)町石畳道などがある。1992年(平成4)、復原なった首里城正殿を中心とした首里地区(首里城公園)は、沖縄海洋博覧会記念公園(本部(もとぶ)町)とあわせて国営沖縄記念公園として開園した。また、首里城跡、園比屋武御嶽石門などは、2000年「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」として世界文化遺産に登録されている。

[堂前亮平]


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改訂新版 世界大百科事典 「首里」の意味・わかりやすい解説

首里 (しゅり)

沖縄県那覇市の地名。琉球王国の都。歴史的にどこまでさかのぼれるか今のところ不明であるが,沖縄が山北(さんほく)(北山),中山(ちゆうざん),山南(南山)という三つの小国家に分かれて争っていた時代,中山の拠点は浦添(うらそえ)であったという。1406年中山の覇権を掌中にした尚巴志(しようはし)は首里を拠点にえらび,20年代には首里城とその外苑を整備して王都としての基礎をかためた。29年,尚巴志が三山を平定して統一王朝(琉球王国)を樹立すると,首里の地位は不動のものとなり,以後王都としての発展を約束されるが,とくに尚真王(在位1477-1526)の時代に各地の按司(あんじ)(首長)を首里に集住させたため人口が急激に増加,また多くの造営事業がほどこされるなど王都としての面目が一新された。近世に入ると,士身分の特定集住地となったため,堅牢な石垣に囲まれた屋敷が密集し,俗に〈首里親国(方音でスイウェーグニ)〉と称された。1729年の史料によると人口約2万人(琉球全体約17万4000人),その約半数は士身分で,残りが町方百姓であった。首里城を中心に王府の各機関が集中し,王国の中枢都市としての機能を備えていた。行政的には真和志(まわし),南風(はえ),西の三つの平等(ひら)(区画)に区分されていたが,これが〈首里三平等(みひら)〉の別称をうんだ。

 1879年3月,明治政府は王国体制を廃して沖縄県の設置を断行,国王尚泰に首里城の明け渡しを命じた(琉球処分)。政府が県庁所在地を那覇に決めたため首里の中枢都市としての役目は終わった。置県後,首里役所をおいて監理したが,96年郡区編成にともない首里区となり区長が任命された。1908年区長は民選となったが,21年市制の適用により首里市となり特別制度時代に終止符が打たれた。沖縄戦(1945)の戦火で全市灰燼に帰したが,46年再び首里市が復活,48年にはアメリカ統治下で戦後初の市長選が実施された。54年9月那覇市に合併,今日におよんでいる。
首里城
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百科事典マイペディア 「首里」の意味・わかりやすい解説

首里【しゅり】

沖縄県,沖縄島那覇(なは)市の一地区。市街東部の台地にあり,1920年市制の旧市であったが,1954年那覇市に合併。琉球王朝時代の王城の地で,城を中心に寺や屋敷が多かったが,第2次大戦で壊滅,戦後王城跡に琉球大学が設置され,学園・住宅地区となった。復元された守礼門,玉陵(たまうでん),首里城正殿などと博物館があり,泡盛の名産地でもある。2000年11月首里城,園比屋武御嶽石門,玉陵が世界遺産条約の文化遺産リストに登録された。那覇空港から沖縄都市モノレールが通じる。
→関連項目沖縄[県]おもろさうし徳之島与論島

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「首里」の意味・わかりやすい解説

首里
しゅり

沖縄県沖縄島南西部,那覇市の中心市街地の一部。旧市域。1954年那覇市に編入。市域の東部,石灰岩の丘陵上にある。琉球王朝時代 14世紀後半頃からの旧都で,展望のよい天然の要害地に首里城が築かれ,城下町が形成された。当時,那覇は首里の外港であった。明治以降,那覇に中心が移ってからは,消費都市としての市勢は衰微,文教の中心地となった。第2次世界大戦中,旧首里城の地下に最高防衛司令部が置かれたため,沖縄の戦いで大きな被害を受けた。戦後は城跡に琉球大学が設置され,守礼門,園比屋武御嶽石門(すぬひあんうたきせきもん。国の重要文化財)が復元された。1984年琉球大学は隣接する西原町に移転。1992年跡地に琉球文化の象徴であり,第2次世界大戦で焼失した首里城正殿をはじめ城郭全体が復元され,守礼門を含めた一帯が首里城公園となった。公園内にはほかにも国の史跡である円覚寺跡と玉陵(たまうどぅん)などがある。首里城跡,園比屋武御嶽石門,玉陵は 2000年世界遺産の文化遺産に登録された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「首里」の解説

首里
しゅり

琉球・沖縄の都市名。15世紀初頭に尚巴志(しょうはし)の手で首里城が整備され,やがて琉球王国の王都となった。16世紀初期に尚真王が各地の按司(あじ)(豪族)を首里に集居させたため,城下町としての発展が加速された。首里城を中心に官衙や寺院,家臣の屋敷が並ぶ王国随一の都市であった。首里親国は美称。1879年(明治12)の琉球処分,沖縄県設置により首里城が明け渡され,県庁が那覇におかれたことにより,長く続いた行政上の拠点的性格を喪失。首里市として存続したが,1954年(昭和29)那覇市に合併。45年の沖縄戦で米軍の激しい攻撃をうけ文化遺産の大半を失ったが,92年(平成4)焼失した首里城が復元された。首里城跡は国史跡。

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デジタル大辞泉プラス 「首里」の解説

首里

堀場清子による詩集。1992年刊行(いしゅたる社)。1993年、第11回日本現代詩人賞を受賞。

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世界大百科事典(旧版)内の首里の言及

【那覇[市]】より

…1921年市制。54年首里(しゅり)市(1921市制),小禄村,57年真和志(まわし)市(1953市制)を編入。人口30万1890(1995)。…

【琉球】より

…按司は〈ぐすく(城)〉と称する城塞を築造して抗争し,12世紀末から13世紀には舜天,英祖などの強大な按司が出現し,14世紀に入ると沖縄本島を中心に〈三山(さんざん)〉と呼ばれる小国家が出現した。北部には今帰仁(なきじん)城を拠点とする〈山北(さんほく)(北山)〉が,中部には浦添(うらそえ)城(のちに首里(しゆり)城)を拠点とする〈中山(ちゆうざん)〉が,南部には島尻大里(しまじりおおざと)城(一時は島添(しまそえ)大里城)を拠点とする〈山南(さんなん)(南山)〉が割拠して互いに覇を競った。 1372年中山王察度(さつと)は中国に誕生した明朝の太祖洪武帝の招諭を受け入れて初めて入貢し,その冊封(さくほう)体制の一員となった。…

※「首里」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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