朝日日本歴史人物事典 「香西元長」の解説
香西元長
生年:生年不詳
室町幕府管領細川政元の内衆,山城国(京都府)守護代。通称又六。讃岐国香川郡香西(高松市香西町)を本拠とする一族は南北朝以来細川氏の内衆となっていた。元長は明応6(1497)年に山城守護代となるが,その勢威を恐れた公家寺社は朝廷に働きかけて,武家伝奏勧修寺政顕に元長の公家寺社領への違乱を停止させるよう求めている。同7年12月,南山城に鷹狩を催した元長は郷民らの抵抗,包囲にあい,政元が内衆安富元家を派遣してこれを救出している。しかし,永正2(1505)年9月に元長が山城国中に半済を課し,抵抗した一乗寺,高尾などに放火した際には,政元はこれをとがめて攻撃したため同国嵯峨城に逃げ込んだ。翌年三好之長が政元に招かれて阿波より入京し,政元の養子澄元を擁して台頭してくると,元長は同じく政元の養子となっていた澄之を擁してこれに対抗した。同4年4月,丹波国出兵のため賀茂社社人を徴発するが,社人がこれに応じなかったため賀茂郷に放火。同年6月23日には薬師寺長忠らと連合して政元を暗殺,折から入浴中であった政元は不意を突かれて討死したという。翌日澄元,之長を襲って近江に走らせ,澄之を家督として政権を握る。しかし8月1日澄元を擁した細川高国,同政賢らの攻撃を受け,京都遊初軒において澄之,長忠と共に戦死した。わずか1カ月余の政権であった。
(森田恭二)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報