ボルジア(その他表記)Cesare Borgia

デジタル大辞泉 「ボルジア」の意味・読み・例文・類語

ボルジア(Cesare Borgia)

[1475~1507]イタリアルネサンス時代の専制君主枢機卿からロマーニャ公となり、権謀術数をもって支配領域を拡大したが、父教皇の死とともに失脚。マキャベリの「君主論」に叙述される。

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精選版 日本国語大辞典 「ボルジア」の意味・読み・例文・類語

ボルジア

  1. ( Cesare Borgia チェザーレ━ ) イタリアの専制君主。枢機卿。教皇アレクサンデル六世の子。中部イタリアを経略、支配領域を拡大し、ロマーニャ公となった。一五〇三年父の死後追放された。(一四七五‐一五〇七

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改訂新版 世界大百科事典 「ボルジア」の意味・わかりやすい解説

ボルジア
Cesare Borgia
生没年:1475-1507

ルネサンス・イタリアの政治家。アルバノ司教で枢機卿のロドリゴ・ボルジア(後の教皇アレクサンデル6世)の庶子。1482年教皇シクストゥス4世の首席秘書官を皮切りに,最初は聖職者の道を歩み始める。父の教皇就任後,92年バレンシア大司教,93年枢機卿となり,教皇最良の相談相手となる。94年シャルル8世がイタリアを簡単に制圧し,力をまざまざとみせつける。この時の政治体制,国際外交や戦争がイタリアと彼に一つの転換の必要を悟らせる。95年教会国家の一拠点オルビエトに支配者として派遣され,また弟の暗殺の責任が問われたのを契機に,教会の位階を放棄して政治活動に専念する。フランス王からバレンティノ公爵位を授けられ,以後イタリアではこの肩書で呼ばれる。99年ナバラ王の妹シャルロットとの結婚後,集権的教会国家の確立を目指して,ローマに至る幹線道路沿いのロマーニャ地方の征服に本格的に取り組む。父の教皇の死後,教皇領国家の支配代官職ウィカリウスvicariusの称号を授けられたりはしたが,ユリウス2世時代には,政策などの違いから対立し,逮捕され,スペインに送られる。その地のビアナ城の攻囲中戦死する。彼はマキアベリに理想的な新君主と評価される一方,人々からは妹の夫や弟の殺害なを平然と実行できる冷酷非道の権勢家と批判されている。後者の批判の中には後の反スペイン的風潮の中で創作されたものも多い。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ボルジア」の意味・わかりやすい解説

ボルジア
Borgia, Cesare, Duc (duke) De Valentinois

[生]1475/1476. イタリア,ローマ?
[没]1507. スペイン,ビアナ近郊
イタリアの政治家。ロドリーゴ・ボルジア(のちのローマ教皇アレクサンデル6世)の息子ボルジア家出身。1492年バレンシア大司教,1493年枢機卿,1495年オルビエト総督。1497年の弟フアンの死に関与したとみられ,この頃から政治的野心をみせ始めた。1498年枢機卿の位から降りることを宣言,同年フランス王ルイ12世からリヨン近くのバレンティノア領を授けられ,以後バレンティノア公と呼ばれた。1499年ルイ12世のいとこでナバラ(ナバール)王の妹シャルロット・ダルベールと結婚。フランスの支援を確実としたのち中部イタリアの征服を目指してイモラ,フォルリリミニペザロ,ウルビノを次々に手中に収め,1502年にロマーニャ公の地位についた。1503年父アレクサンデル6世が突然病死し,チェーザレ自身重い病に倒れると,後任教皇ユリウス2世によって逮捕され,ロマーニャ公の称号を剥奪された。ナポリに逃れたが再び逮捕されてスペインに流刑の身となり,再度脱出に成功してナバラ王国に身を寄せたが,1507年同地で戦死。権謀術数に富んだ波乱生涯で,マキアベリがチェーザレの政治的力量をみて『君主論』を執筆したことは有名。

ボルジア
Borgia, Lucrezia

[生]1480.4.18. ローマ
[没]1519.6.24. フェララ
フェララ公妃。ロドリーゴ・ボルジア (のちのローマ教皇アレクサンデル6世 ) の娘。ボルジア家の出身。 1493年ペーザロ伯ジョバンニ・スフォルツァと結婚したが,父教皇はアラゴンとの同盟が必要となったためこの結婚を破棄して,98年アラゴン家のビシェリエ公アルフォンソ (17歳) と再婚させた。だが兄のチェーザレ (→ボルジア,C.) が今度はフランスとの同盟が必要となって,1500年ビシェリエ公を暗殺。このためルクレツィアは 01年エステ家のフェララ公アルフォンソと結婚。 03年父である教皇の死後,政争から離れ,フェララ公妃としてその知性と美貌のゆえに多くの芸術家から敬愛された。その宮廷はイタリア・ルネサンス期の芸術の中心となった。

ボルジア
Borgia, Juan

[生]1477?
[没]1497.6.14.
ガンディア公。ロドリーゴ・ボルジア (のちのローマ教皇アレクサンデル6世 ) の息子。ボルジア家の出身。父が 1492年に教皇となると,その権威を背景にスペインのガンディア公となった。 97年ローマ貴族オルシニ家との戦いで教会軍総司令官をつとめたが敗北。父に愛され,要職を与えられたが,それをねたんだ兄チェーザレ (→ボルジア,C.) に暗殺されたとされている。

ボルジア

「フランシスコ・デ・ボルハ」のページをご覧ください。

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百科事典マイペディア 「ボルジア」の意味・わかりやすい解説

ボルジア[家]【ボルジア】

15―16世紀に権勢を振るったイタリアの名門家系。スペイン出身。カリストゥス3世,アレクサンデル6世の2人の教皇を出している。とくにアレクサンデル6世の時にはラファエロミケランジェロらの芸術家に仕事を与え,ローマにおけるルネサンス文化の頂点を極めた。また彼の子どもに,チェーザレ(C.ボルジア)とルクレツィア〔1480-1519〕の兄妹がおり,兄は権力者として,妹は美貌と知性の持主として,政治の舞台で活躍した。
→関連項目バチカン宮殿

ボルジア

イタリアの専制政治家。ロドリゴ・ボルジア(後の教皇アレクサンデル6世)の子。宗教界の要職を次々と獲得して教皇領を拡大。その政治的手腕のため,権謀術数の代表的人物とみられており,マキアベリの《君主論》のモデルとされた。1503年父の死後逮捕され,不遇な生活を送った。→ボルジア[家]
→関連項目マキアベリズムレオナルド・ダ・ビンチ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ボルジア」の解説

ボルジア Borgia, François de

1850-1933 フランスの修道女。
1850年3月21日生まれ。明治10年(1877)プチジャン司教の要請で来日。岡山から熊本に転任し,玫瑰(まいかい)館(のちの天使園),玫瑰女学校(のちの熊本信愛女学院)を創立,児童福祉や女子教育につくした。昭和8年3月8日長崎で死去。82歳。ソーヌ-エ-ロワール県出身。本名はフィリベルト=マテー(Philiberte Mathey)。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ボルジア」の解説

ボルジァ

チェーザレ・ボルジァ

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旺文社世界史事典 三訂版 「ボルジア」の解説

ボルジア

チェザーレ=ボルジア

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