フィッシャー(読み)ふぃっしゃー(英語表記)Johann Michael Fischer

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フィッシャー」の意味・わかりやすい解説

フィッシャー(Emil Hermann Fischer)
ふぃっしゃー
Emil Hermann Fischer
(1852―1919)

ドイツの化学者。ボン近郊のオイスキルヘンに生まれる。父は有能な企業家で息子を跡継ぎにしようとしたが、そのもくろみはうまくいかず、息子は1871年ボン大学に入学、ケクレの講義を聞いた。翌1872年ストラスブール(シュトラスブルク)大学に移りバイヤーの下で化学を学び、1874年学位をとった。翌1875年バイヤーとともにミュンヘン大学へ移り、1879年員外教授、1882年エルランゲン大学教授、1885年ウュルツブルク大学教授を経て、1892年ベルリン大学化学教授になり、1902年糖類とプリン類の合成でノーベル化学賞を受賞した。第一次世界大戦中、3人の息子のうち長男を除いて2人までを失った(生き残った長男のヘルマンHermann Otto Laurenz Fischer(1888―1960)はのちに有名な有機化学者になった)が、化学製品生産と食糧供給委員会の長としてドイツの化学資源の組織化に活躍し、戦後、化学教育の再編や研究施設の充実に努力した。

 生体構成物質の構造の解明と合成が生涯にわたるフィッシャーの研究テーマであり、彼が現代の天然物化学の基礎を確立した。最初の論文は、彼自身が発見したフェニルヒドラジン誘導体に関するもので、これは後の研究において何度か中心的役割を果たすことになった。1878年までにフェニルヒドラジンそのものを合成し構造式を確立、1884年にはカルボニル基に対する試薬としてのフェニルヒドラジンの有用性(結晶性のヒドラゾンの生成)を発見、とくに、糖類ではカルボニル基に隣接するヒドロキシ基とも反応して結晶性のオサゾンを生成するため、後の糖類の構造研究上不可欠の試薬となった。フィッシャーの学位論文は色素と染料の化学に関するものであったが、これを拡張して、従弟(いとこ)のオットーOtto Phillip Fischer(1852―1932)とともにローズアニリン系色素の構造を研究し、これらがトリフェニルメタン誘導体であることを明らかにした。フィッシャーは、1881年尿酸とその誘導体の研究を始め、1914年のヌクレオチドの最初の合成に至るまでに、わずかな先行研究しかなかったプリン類の化学をほとんど独力で開拓した。1900年までに、プリン類の母体たるプリン(フィッシャーの命名)をはじめ、約130の誘導体の構造決定と合成を行っている。生化学上重要なものの多いプリン類は、ドイツの製薬界からも注目されて、薬理作用をもついくつかのプリン誘導体がフィッシャーの合成法で工業化された。

 1884年、糖質の研究を始め、1891年までにファント・ホッフの立体化学理論から予想されたグルコースの16の立体異性体の立体配置を実験的に確定した。この実験技法を用いて多くの天然糖の構造決定と天然にない糖の合成を行い、1893年には最初のグリコシドを合成し、その環状構造を示唆した。また糖発酵の研究から有名な酵素作用の鍵と鍵穴モデル(かぎとかぎあなもでる)を提出した(1894)。1899年カフェインの全合成を行い、さらに同年タンパク質の研究を始め、おもにアミノ酸の分離と合成(プロリン、セリン、バリンなど)、ポリペプチド合成の研究をした。1916年に約100のポリペプチドの合成研究をまとめた。ベルリンの彼の教室に留学した日本人には鈴木梅太郎、朝比奈泰彦(あさひなやすひこ)らがいる。

[梶 雅範]

『桑田智訳『エミール・フィッシャーの自叙伝――思い出より』(1963・広川書店)』


フィッシャー(ドイツの彫刻家の一族)
ふぃっしゃー
Vischer

ドイツの彫刻(青銅鋳造)家の一族。15世紀後半から16世紀前半にかけてニュルンベルクで活躍し、その有力メンバーは3世代にわたっている。

(1)ヘルマン Hermann V. der Ä.(1429ころ―88)フィッシャー家の開祖。1453年ニュルンベルクに鋳造所をつくる。後期ゴシック様式によるウィッテンベルク市聖堂の洗礼盤(1457)のほかいくつかの墓碑が現存する。

(2)ペーター Peter V. der Ä.(1460ころ―1529)ヘルマンの子。フィッシャー家の代表的存在で、クラフト、シュトスと並ぶ当代の重要な彫刻家。1487年工房を継ぐ。1488年聖セバルドゥス教会の聖遺物入れを受注、この仕事は1507年から1519年にかけて息子たちと共同で完成された。この間バンベルク、マクデブルク、ブレスラウ、ポーゼンに多くの墓碑を制作する。

 1512年アウクスブルクの聖アンネン教会礼拝堂の格子細工(完成せず)、同年皇帝マクシミリアンからインスブルックの墓碑のためにアーサー王とテオドリクス王の等身大の像を注文され、1513年に完成。彼の力強い作風はドイツのルネサンスに開拓者的な影響力をもつが、その好作例に通称「枝を折る人」(1490。ミュンヘン、バイエルン国立美術館)の小像がある。彼には5人の息子があり、それぞれ彫像制作に関与したが、次の3人が知られる。

(3)ヘルマン2世 Hermann V. der J.(1486ころ―1517)父の助手として働き、1515年イタリアに留学したが、若くして世を去った。

(4)ペーター2世 Peter V. der J.(1487―1528)パドバに滞在して彫刻家のリッチョAndrea Riccio(1470―1532)の影響を受けたと推定される。ウィッテンベルクのフリードリヒ賢明王の墓の制作によって、1527年真鍮(しんちゅう)鋳造のマイスターとなる。代表作はニュルンベルクの聖セバルドゥスの墓(1507~19)。

(5)ハンス Hans V.(1489ころ―1550)1530年に父の工房を受け継ぎ、盛期ルネサンス様式で制作した。

[野村太郎]


フィッシャー(Ronald Aylmer Fisher)
ふぃっしゃー
Ronald Aylmer Fisher
(1890―1962)

イギリスの統計学者。ロンドンの郊外に生まれる。ケンブリッジ大学で学び、数学および物理学(とくに統計力学、量子論)を専攻。卒業後、会社勤務、学校教師を経て、ロンドン郊外のロザムステッド農事試験場に統計家として勤務し、研究に従事。そこでの研究活動により、実験計画法を創案し、推測統計学の基礎を築いた。1929年には王立協会会員となり、その後、1933年に記述統計学の導入者であるK・ピアソンの後を継いでロンドン大学の教授となり、さらに1943年には母校ケンブリッジ大学の教授となった。

 彼の最大の業績は、それまでのピアソン流の記述統計学を改革し、統計母集団のもつ特性を、それから抽出したいくつかの標本に基づいて推計し、あるいはその特性に関する仮説を検定する推測統計学の基礎を確立したことである。その推定論、仮説検定論は、その後、J・ネイマン、ピアソンEgon Sharpe Pearson(1895―1980)(K・ピアソンの子)、A・ワルドらによって発展させられたが、とくに前二者との間では、推論方式に関しての論争が有名である。

[高島 忠]


フィッシャー(Edmond H. Fischer)
ふぃっしゃー
Edmond H. Fischer
(1920―2021)

アメリカの生化学者。中国の上海(シャンハイ)でスイス人の両親より生まれる。1939年スイスのジュネーブ大学入学。1947年同大学で化学の博士号を取得。1953年まで同大学で講師を勤める。酵素学を学ぶためにアメリカに拠点を移し、同年ワシントン大学助教授、1961年より同大学教授。1990年に名誉教授となる。

 学生時代にブタ膵臓(すいぞう)の酵素アミラーゼを精製、結晶化する。ワシントン大学に移ってすぐに、グリコーゲンの加リン酸分解酵素(フォスフォリラーゼ)についてE・クレブスとの共同研究を始める。彼らは、初めてフォスフォリラーゼを単離精製、結晶化することに成功した。さらに、筋肉組織でグリコーゲンからエネルギーを取り出す際には、フォスフォリラーゼがリン酸化を受けることが必要で、この酵素の機能がリン酸を着脱する2種類の酵素(リン酸化酵素と脱リン酸化酵素)により調節されていることを明らかにした。その後、多くの機能タンパク質がリン酸化、脱リン酸化機構によりその働きを制御されていることが明らかとなった。これらの功績により、クレブスとともに1992年のノーベル医学生理学賞を受賞した。

[馬場錬成 2018年10月19日]


フィッシャー(Irving Fisher)
ふぃっしゃー
Irving Fisher
(1867―1947)

アメリカの経済学者、統計学者。ニューヨーク州出身。エール大学に学び、数学、物理学を専攻し、ヨーロッパに留学後、1893年に母校の数学の助教授となったが、1895年に経済学の助教授にかわり、1898年以降教授(~1935)。計量経済学の創始者の一人でもあり、1932年に計量経済学会の初代会長を務めた。

 経済分析に数学的手法を導入することにより、近代経済理論の開拓者の地位を占めるが、とくに貨幣理論に優れた業績を残し、物価問題の分析および対策について実践的貢献をし、大恐慌時の1930年代には大統領のブレーンに加わり、ニューディール政策の立案にも関与した。彼の業績のうち、『貨幣の購買力』The Purchasing Power of Money(1911)のなかで展開された貨幣数量説は、フィッシャーの交換方程式としてとくに有名である。また、『物価指数の作成』The Making of Index Numbers(1922)においてなされた物価指数に関する研究では、今日でも「フィッシャーの理想算式」として知られている指数公式が示されている。

[高島 忠 2018年10月19日]


フィッシャー(Ernst Otto Fischer)
ふぃっしゃー
Ernst Otto Fischer
(1918―2007)

ドイツの化学者。ミュンヘン工科大学の物理学教授カール・フィッシャーKarl T. Fischer(1871―1953)の息子としてミュンヘン近郊に生まれる。1949年ミュンヘン工科大学を卒業。1952年博士号を取得した。1957年ミュンヘン大学の教授となり、1964年にはミュンヘン工科大学の無機化学部門の主任教授になる。1957年ゲッティンゲン科学アカデミーの化学賞、1959年ドイツ化学会のアルフレッド・ストック・メモリアル賞を受賞している。1972年にはミュンヘン大学の名誉博士号を受けた。

 炭化水素と遷移金属の反応のメカニズムの理論的研究を進め、フェロセンの構造として、環状分子によって金属分子が挟まれたサンドイッチ化合物の概念を提唱するなど、有機錯体化学分野で先駆的かつ重要な成果をあげた。1973年に同じような研究を続けていたウィルキンソンとともにノーベル化学賞を受賞した。

[編集部]


フィッシャー(Hans Fischer)
ふぃっしゃー
Hans Fischer
(1881―1945)

ドイツの有機化学者。ローザンヌ大学とマールブルク大学で化学と医学を学び、ミュンヘン大学で医学の学位を取得。E・フィッシャーの助手、ミュンヘンで生理学講師、インスブルック大学、ウィーン大学教授などを経て1921年よりミュンヘン工科大学有機化学教授。血液や胆汁の色素、葉緑素などの研究を行い、これらがピロール環を含むポルフィリンやその類縁物質であることを明らかにし、ピロール誘導体の研究をして、これを基礎に関連化合物を多く合成した。とくに1929年には血色素のヘミンの合成を完成してその構造を確定し、それによって1930年ノーベル化学賞を受賞。ほかに胆汁色素ビリルビンの合成、クロロフィル(葉緑素)の正しい構造式の提出などの業績がある。第二次世界大戦末期に自殺した。

[梶 雅範]


フィッシャー(Franz Fischer)
ふぃっしゃー
Franz Fischer
(1877―1947)

ドイツの化学技術者。ミュンヘン、ギーセン、パリ、ライプツィヒで電気化学を学び1904年よりベルリンの化学研究所に勤め、1911年よりシャルロッテンブルク工業大学の電気化学教授、加圧下での電気化学反応の研究で著名となる。1914年にカイザー・ウィルヘルム協会(現、マックス・プランク協会)が新設した石炭化学研究所の所長に就任し、一酸化炭素への水素添加による石油合成に取り組む。トロプシュHans Tropsch(1889―1935)とともにこの石油合成法のいちおうの工業化に成功したのは1923年である。製造されたガソリンの品質は悪かったが、ジントールとよばれ、ベルギウス法とともに、第二次世界大戦下のドイツにとって貴重な液体燃料を生産した。

[加藤邦興]


フィッシャー(Kuno Fischer)
ふぃっしゃー
Kuno Fischer
(1824―1907)

ドイツの哲学史家。イエナおよびハイデルベルク大学教授。ヘーゲル派の思想家であったが、カントに立ち返った研究で有名である。彼の『近代哲学史』10巻(1852~1877)は人間精神の自己認識の発展という視点で描かれている。同じく哲学史家としても有名なウィンデルバントは彼の弟子である。哲学的にはカントとヘーゲルを仲介しようとする考え方を示したが、ショーペンハウアーの影響を受けた著作も残している。

[佐藤和夫 2015年3月19日]

『玉井茂他訳『ヘーゲルの生涯』(1976/新装版・1987・勁草書房)』『岸本晴彦他訳『ヘーゲルの論理学・自然科学』(1983・勁草書房)』『将積茂他訳『ヘーゲルの精神哲学・歴史哲学』(1984・勁草書房)』


フィッシャー(動物)
ふぃっしゃー
fisher
[学] Martes pennanti

哺乳(ほにゅう)綱食肉目イタチ科の動物。大形のテンで、カナダとアメリカ合衆国北部の森林にすむ。体長50~90センチメートル、尾長25~50センチメートルで、雌はやや小さい。毛色は黒褐色で、前頭部から頭頂部は淡色、腹面は濃色である。腰から腹に白斑(はくはん)をもつものもある。習性はテンと共通であるが、樹上よりも地上にいることが多く、ことに水辺でとらえられるのでフィッシャー(漁夫の意)とよばれたが、実際の食物は80%まで小形哺乳類、とくにリス類であり、ほかには小鳥、昆虫、果実などで、魚はほとんど食べない。ただし、水泳は巧みである。日中は岩陰や朽ち木の洞にいて、夜に活動する。3~5月ごろ交尾するが、胎児の着床は翌年の1~3月まで遅れ、出産まで約1年を要する。毛皮はアメリカテンよりも劣るが、かなり高価で、カナダでは年間1万枚程度取引されている。アメリカ合衆国ではかつてはより南部まで分布していたが、現在では北部の限られた地域にしか生息しない。

[朝日 稔]


フィッシャー(Johann Michael Fischer)
ふぃっしゃー
Johann Michael Fischer
(1692―1766)

ドイツの後期バロック様式を代表する建築家。オーバープファルツのブルクレンゲンフェルトに生まれ、1721年以降アルトバイエルンおよびシュワーベン地方で32の教会と23の修道院建築に携わった。外観は簡素であるが、内部空間は各室の動的な配列によって本堂を中心に統一ある律動的な空間をつくりだしているのがその特徴。また内部装飾では彫刻家フォイヒトマイヤー(1709/10―72)や画家アサムらの協力により化粧しっくい装飾や壁画による明るい空間を現出した。ミュンヘンで没。ツウィーファルテン、オットーボイレン、ロット・アム・インの各修道院会堂が代表的な作例である。

[野村太郎]


フィッシャー(Edwin Fischer)
ふぃっしゃー
Edwin Fischer
(1886―1960)

スイスのピアノ奏者。生地バーゼルの音楽院で学んだのちベルリンに留学、バッハからロマン派に至るドイツ音楽をレパートリーとして独奏活動に入る。1926年リューベック音楽協会の、28年ミュンヘン・バッハ協会の指揮者になって指揮活動も始め、ベルリンにフィッシャー室内管弦楽団を組織、ヨーロッパ各地に演奏旅行をして名声を高めた。31年A・シュナーベルの後任としてベルリン音楽大学教授となる。42年スイスに帰国、ルツェルン音楽祭の主要メンバーとして活動した。豊かな情感と確固たる構成力の結び付いた独特のバッハ、モーツァルトを聞かせた。チューリヒに没。

[岩井宏之]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フィッシャー」の意味・わかりやすい解説

フィッシャー
Fischer, Joschka

[生]1948.4.12. ゲーラブロン
ドイツの政治家。1990年代に緑の党を率いて連立政権に参加した。1946年にハンガリーを追放されてドイツに移住したハンガリー人の父とドイツ人の母の間に生まれた。高校を中退して写真家見習いとなった。1967年,ドイツ連邦共和国(西ドイツ)のベルリンで行なわれた政治デモで学生が警官に射殺された事件をきっかけに政治活動に目覚め,1968年末にフランクフルトに移住すると過激派グループのメンバーとなった。1977年に左翼テロ活動に参加したあと,過激派と袂を分かち 1982年に緑の党に入党。1983年,緑の党初の西ドイツ連邦議会議員となった。フィッシャーの現実主義路線は,緑の党を草の根の環境保護団体以上のものに押し上げていった。また,1990年代に緑の党の断固とした反核政策を方向転換し,ドイツは軍事的に,北大西洋条約機構 NATOを通じてではなくとも,ヨーロッパ連合 EUを通じて西ヨーロッパ諸国と結びついているべきだと考えた。90年連合と組んだ 1994年の選挙では,7.3%の得票率で再び連邦議会に議席を獲得した。1998年の選挙後,90年連合=緑の党は,ドイツ社会民主党 SPD主導の連立政権に参加。同 1998年フィッシャーは副首相兼外務大臣に任命され 2005年まで務めた。2002年,緑の党党首に就任したが,2005年に選挙結果の責任をとり辞任。翌 2006年政界を引退し,アメリカ合衆国のプリンストン大学で講師および特別研究員として過ごした。2007年ドイツに帰国。

フィッシャー
Fisher, Irving

[生]1867.2.27. ニューヨーク,ソーゲルティーズ
[没]1947.4.29. コネティカット,ニューヘーブン
アメリカの経済学者,統計学者。エール大学に学び,同大学教授 (1898~1935) 。博士論文『価値と価格の理論の数学的研究』 Mathematical Investigations in the Theory of Value and Prices (1892) は,アメリカにおける最初の一般均衡理論書であるが,ベクトルを用いて今日の線型経済学の先駆をなすなど多くの独創的貢献を含んでいる。貨幣数量説の主張者として,その交換方程式とともに有名。指数論においてもいわゆるフィッシャーの理想算式を考案した。みずからも設立に尽力した計量経済学会 (1930創立) の初代会長。主著『資本と所得の性質』 The Nature of Capital and Income (06) ,『貨幣の購買力』 The Purchasing Power of Money (11) ,『指数論』 The Making of Index Numbers (22) ,『利子の理論』 The Theory of Interest (30) 。

フィッシャー
Fischer, Bobby

[生]1943.3.9. アメリカ合衆国,イリノイ,シカゴ
[没]2008.1.17. アイスランド,レイキャビーク
アメリカ合衆国生まれのチェス世界チャンピオン。本名 Robert James Fischer。6歳でチェスを習いはじめ,16歳のとき,ゲームに専念するために高校を中退した。 1957年全米チャンピオン,1958年 15歳でグランドマスターの称号を得,史上最年少記録を樹立した。 1971年世界選手権大会挑戦者決定戦を圧倒的な強さで勝ち抜き,翌 1972年ボリス・スパスキーを7勝3敗 11和 (引き分け) で破り世界チャンピオンの栄冠を獲得,賞金 15万 6000ドルを手にした。 1975年のタイトル防衛戦を放棄してアナトリー・カルポフに王座を譲り,信仰生活に身を投じた。 1992年,アメリカが経済制裁を課していたユーゴスラビアの大会で現役復帰を果たしたが,アメリカから制裁違反の罪で起訴され,国外に逃れた。 2004年日本で出入国管理及び難民認定法違反で拘束されたが,2005年市民権を与えたアイスランドに送還された。

フィッシャー
Fisher, John Arbuthnot, 1st Baron Fisher

[生]1841.1.25. セイロン
[没]1920.7.10. ロンドン
イギリスの海軍軍人,政治家。 13歳で海軍に入り,クリミア戦争,中国などで活躍。 1874年大佐,90年少将に昇進し,92年海軍本部委員,94年ナイト爵に叙せられた。その後,西インド諸島,ハーグ平和会議などで活躍,地中海艦隊司令長官となった。 1902年に再び第2委員として海軍本部につとめ,04年に海軍本部委員長 (軍令部長) となり,戦艦『ドレッドノート』を建造して大艦巨砲時代をもたらしたのをはじめ,多くの改革を行なって海軍力を強化し,第1次世界大戦中のイギリス海軍の基礎を築いた。 09年男爵となり,10年引退。 14年 73歳で海軍本部委員長に復帰し,海相 W.チャーチルの下で第1次世界大戦中海軍による積極的な攻撃を指導したが,チャーチルのダーダネルス作戦に反対し,15年に引退。主著"Memories and Records" (2巻,1919) 。

フィッシャー
Fisher, Sir Ronald (Aylmer)

[生]1890.2.17. ロンドン郊外イーストフィンチリ
[没]1962.7.29. アデレード
イギリスの統計学者。ケンブリッジ大学カイユス・カレッジ卒業後,会社の統計技師 (1913~15) ,中等学校教師 (15~19) をしたあと,ロザムステッド農事試験所で統計技師として働き (19~33) ,次いでロンドン大学優生学教授 (33~43) を経て,母校ケンブリッジ大学の遺伝学教授 (43~57) 。 52年にナイトの称号を与えられる。ロザムステッド農事試験所での経験から母集団と標本を区別し,小標本によって母集団の平均や分散などを推測する方法を確立し,従来の統計学 (記述統計学) の代りに新しい統計学 (推測統計学 ) を創始した。特に実験計画法は彼のロザムステッド時代の独創的産物である。集団遺伝学でも業績を残している。ケンブリッジ大学を退職後,オーストラリアのアデレードの研究所で客員研究員をしていた。

フィッシャー
Fisher, Andrew

[生]1862.8.29. エアシャー,キルマーノック近郊
[没]1928.10.22. ロンドン
オーストラリアの政治家。初期の労働党政権下で3回首相となった (1908~09,10~13,14~15) 。スコットランドの出身で,1885年オーストラリアに移住。 93年クイーンズランド議会に選出され,連邦議会発足当時 (1900) の労働党議員をつとめた。首相在任中の1期目は前内閣 (A.ディーキン ) の社会立法の充実,拡大をはかり,2期目には漸進的な社会主義政策の実施に成功,40の法案を成立させたが,そのなかにはオーストラリア紙幣発行法,連邦銀行設立法などがある。またオーストラリア海軍の設立が立法化され,軍備の強化をはかった。第1次世界大戦ではイギリス本国支持を早くから決定。 1915年戦争の圧迫により首相を辞任。 16~21年高等弁務官としてロンドンで勤務した。

フィッシャー
Fischer, Emil Hermann

[生]1852.10.9. アウスキルヘン
[没]1919.7.15. ベルリン
ドイツの有機化学者。ボン大学で F.ケクレに,シュトラスブルク大学で A.バイヤーに師事。ミュンヘン大学講師 (1879) ,エルランゲン (82) ,ウュルツブルク (85) ,ベルリン (92) 各大学教授。 1881年尿酸,キサンチン,カフェイン,テオブロミンのようなプリン化合物の研究を手がけた。 83年から糖の研究を開始。フラクトース,グルコース,その他多くの糖の分子構造を決定し,フェニルヒドラジンを用いて糖を合成し,立体構造を実証した。糖の分解酵素を研究して糖の化学構造と酵素との関係を示した。さらに,蛋白質を分解して多くのアミノ酸を得,その構造を決定,合成した。その後タンニンの研究を手がけた。糖とプリンの合成研究の業績により,1902年ノーベル化学賞を受賞した。

フィッシャー
Fischer, Eugen

[生]1874.6.5. カルルスルーエ
[没]1967.7.9. フライブルク
ドイツの人類学者。ベルリン大学人類学教授兼カエサル・ウィルヘルム人類学・遺伝学・優生学研究所所長。生物統計学を人類集団に適用して人類の遺伝学的,優生学的研究を行なった。特に南アフリカのレホボート (オランダ人と現地人の混血) の調査に基づく人種交配についての科学的研究が有名。主著"Die Rehobother Bastards und das Bastardierungsproblem beim Menschen" (1913) ,"Anthropologie" (23) ,"Menschliche Erblichkeitslehre und Rassenhygiene" (27) 。

フィッシャー
Vischer, Friedrich Theodor

[生]1807.6.30. ルートウィヒスベルク
[没]1887.9.14. ゲムンデン
ドイツの美学者。ヘーゲル学派の美学の代表者。 1835年テュービンゲン大学講師,44年同大学,55年チューリヒ,66年テュービンゲンの各大学教授。美的範疇論に関して独自の考察を示し,ヘーゲル学派の美学の体系化に貢献した。すなわち彼においては,理念と形象とを契機とする矛盾の展開過程として崇高,滑稽が,そしてその統一として本来的な美 (優美) が考えられ,醜はそれらの否定的なものとして把握された。晩年は観念論的傾向を離れ,具体的,心理主義的傾向を強めた。主著『美学』 Ästhetik oder Wissenschaft des Schönen (6巻,1846~57) 。

フィッシャー
Fisher, Herbert Albert Laurens

[生]1865.3.21. ロンドン
[没]1940.4.18. ロンドン
イギリスの歴史家,政治家。オックスフォード大学を卒業後,1891年母校の講師となり,フランス,ドイツに留学。ドイツ史学の科学的方法論に強く反発,人物史に立脚する優雅,自由な方法を採用した。 1916年以降ロイド・ジョージ内閣の文相,20~22年国際連盟総会のイギリス代表をつとめた。主著『ヨーロッパ史』 History of Europe (3巻,1935) ,『ナポレオンの政治力』 Studies in Napoleonic Statesmanship (03) ,『ヨーロッパ共和制の伝統』 The Republican Tradition in Europe (11) 。

フィッシャー
Fisher, John

[生]1469. ヨークシャー,ベバリー
[没]1535.6.22. ロンドン
イギリスのカトリック司教,枢機卿。聖人。ケンブリッジ大学卒業。 1504~34年母校総長,ロチェスターの司教。 11年友人 D.エラスムスにすすめてケンブリッジで教えさせた。学者,説教者,行政家としてもすぐれていた。ヘンリー7世母后,ヘンリー8世第1妃の聴罪師。ルター派に反対し,論戦に活躍。ヘンリー8世の離婚と首長令に反対して 34年ロンドン塔に入獄。獄中で枢機卿に任じられたが,刑死。 1935年列聖。主著"Lutheri assertionis confutatio" (1523) 。祝日は6月 22日。

フィッシャー
Fischer, Kuno

[生]1824.7.23. シュレジエン
[没]1907.7.5. ハイデルベルク
ドイツの哲学者,哲学史家。ライプチヒ,ハレの各大学で文献学,神学,哲学を学んだ。 1872年ハイデルベルク大学教授。ヘーゲル学者で,ヘーゲル学派の中央派に属するが,またカントの文献学的研究により新カント学派の形成に刺激を与えた。主著『ディオティーマ,美の理念』 Diotima,die Idee des Schönen (1849) ,『論理・形而上学体系』 System der Logik und Metaphysik (52) ,『近世哲学史』 Geschichte der neueren Philosophie (10巻,52~93) 。

フィッシャー
Fischer, Hans

[生]1881.7.27. ヘヒシュトアムマイン
[没]1945.3.31. ミュンヘン
ドイツの有機化学者。 1904年マールブルク大学で化学の学位を取得。次いで 08年ミュンヘン大学で医師の資格を取り,医者をしながら医化学の研究をした。インスブルック大学医化学教授を経て,ミュンヘン大学教授 (1921) 。動物の血色素ヘミンと植物色素クロロフィルの構造を決定し,これらがともにポルフィリン構造をもつことを示した。ヘミンの合成に成功し,クロロフィルの合成もほぼ完成した。さらにビタミンAの前駆物質である黄色色素カロテンの研究にも貢献した。 30年ノーベル化学賞を受賞した。

フィッシャー
Fischer, Edmond H.

[生]1920.4.6. 上海
アメリカの生化学者。スイス人の両親のもとに上海で生れる。 1947年ジュネーブ大学で博士号を取得。 53年アメリカに渡り,シアトルのワシントン大学の生化学助教授に就任。 61年教授,90年名誉教授。 1950年代なかば,E.G.クレブスとともに細胞蛋白質へのリン酸基の付加と離脱反応によって筋肉の収縮が起ることを発見し,リン酸基の付加反応を触媒する酵素キナーゼと離脱反応を触媒するホスファターゼの不均衡が糖尿病や癌,アルツハイマー症などの原因になることを示した。 92年クレブスと共同でノーベル生理学・医学賞を受賞。

フィッシャー
Fischer, Edwin

[生]1886.10.6. バーゼル
[没]1960.1.24. チューリヒ
スイスのピアニスト,指揮者。バーゼル音楽院に学び,のちベルリンで M.クラウゼにピアノを師事。 1905~14年母校ベルリンのシュテルン音楽院教授,のちベルリン高等音楽学校教授,26年リューベック音楽協会指揮者,28~30年ミュンヘン・バッハ協会指揮者となった。その後ベルリンでフィッシャー室内管弦楽団を組織し,指揮者,ピアニストの2役で成功した。第2次世界大戦後は,スイスを中心にピアニストとして活躍,またバイオリンの W.シュナイダーハン,チェロの E.マイナルディとのトリオ演奏でも活躍。

フィッシャー
Fischer, Ernst Otto

[生]1918.11.10. ドイツ,ミュンヘン
ドイツの化学者。第2次世界大戦に従軍後,ミュンヘン工科大学で学び 1952年博士号を取得。 59年同大学教授,64年無機化学研究所主任を歴任。金属のなかで遷移金属と呼ばれるものが有機物質と化合する機構を解明し,同時期に同様の研究をしていたイギリスの G.ウィルキンソンとは別に,有機金属化合物がつくるサンドウィッチ化合物の構造を研究した。イェナ大学,マールブルク大学でも教鞭をとり,アメリカの複数の大学の客員教授となっている。ウィルキンソンとともに 73年ノーベル化学賞受賞。

フィッシャー
Fischer, Leck

[生]1904.3.26. コペンハーゲン
[没]1956.6.17. コペンハーゲン
デンマークの小説家。第1次世界大戦後の「幻滅の時代」を代表する一人。冷静かつ客観的に身辺をみつめて,親子,夫婦,兄妹の関係を追究した。代表作,3部作『幸福なレイフ』 Leif den Lykkelige (1928~29) ,『じきに月曜になるよ』 Det mågerne blive Mandag (34) ,『40代の女』 En Kvinde på Fyrre (40) 。

フィッシャー[ランベス]
Fisher of Lambeth, Baron

[生]1887.5.5. ナニートン
[没]1972.9.15. ドーセット,シェボーン
第 99代カンタベリー大主教。本名 Geoffrey Francis Fisher。オックスフォード大学に学び,27歳でレプトン校校長。 1932年チェスター,39年ロンドン各主教。 45年カンタベリー大主教となり,第2次世界大戦後の復興に指導的役割を果した。教会統一に努力。 61年引退。

フィッシャー
Fischer, Aloys

[生]1880.4.10. フルト
[没]1937.11.23. ミュンヘン
ドイツの哲学者,教育学者。 1918年ミュンヘン大学教授。現象学の立場に立ち,教育学,社会学の著述がある。主著『社会の心理学』 Psychologie der Gesellschaft (1922) ,『教育学的社会学』 Pädagogische Soziologie (31) 。

フィッシャー
Fischer, Johann Caspar Ferdinand

[生]1655頃
[没]1746.3.27. ラシュタット
ドイツの作曲家。バーデン辺境伯ルートウィヒの楽長をつとめた。作品はトランペットを伴う管弦楽組曲『春の日記』 (1695) ,20の前奏曲とフーガから成る『アリアドネ・ムジカ』 (1715) など。

フィッシャー
Fischer, Engelbert Lorenz

[生]1845
[没]1923
ドイツの哲学者。新スコラ哲学の立場に立つカトリックの哲学者。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報