ドイツの画家,版画家,美術理論家。ニュルンベルクに生まれ,同地で没。いわゆる〈中世の秋〉のドイツに生をうけ,早くにイタリア・ルネサンスの新風に触れ,その美術の奥に潜む理論を故国に伝えるとともに,まだ揺籃期にあった版画を一躍芸術的完成の域にまで引き上げ,その作品を通じて北方諸国はもちろんイタリア美術にも多くの影響を与えた。
15歳でニュルンベルクの画家ウォルゲムートM.Wolgemutの工房に入門。1490-94年遍歴の旅に出,その後半はバーゼル,シュトラスブルクなどライン上流地方の都市で版下師として活動。94年の春いったん帰郷して結婚。その秋から翌年の春にかけてベネチアに滞在(第1次)し,同地の出版事情,ことに活字本の木版画挿絵について見聞を得たと思われる。1498年ころ一枚刷りの大版木版画集《受難伝》および《ヨハネの黙示録》を刊行し,精密な斜線を刻むことにより従来の輪郭線を主とした木版画の常識をはるかに超える卓抜な表現に成功し,版画家デューラーの名声は一挙に不抜のものとなった。そのころより銅版画をも手がけ,イタリアの銅版画を範として裸体習作を盛んに試み,その成果がウィトルウィウスの人体比例を応用した《アダムとイブ》(1504)として結実する。他方画家としてはザクセン選帝侯フリードリヒの庇護を得て祭壇画等を制作,《1498年の自画像》(マドリード)は意気軒昂たる彼の心境を吐露して余すところがない。また《1500年の自画像》(ミュンヘン)は,トマス・ア・ケンピスの思想に倣い,みずからをキリストに似せて描いた特異な作品である。1505-07年再訪したベネチアではドイツ最大の画家として好遇され,ドイツ人商館のために祭壇画《ローゼンクランツフェスト》を描き,またおそらく再建中の上記商館の外壁画制作に関し,当地のジョルジョーネらと争ったものと思われる。帰国して《アダムとイブ》(1507),《1万人のキリスト者の虐殺》(1508),《ヘラー祭壇画》(1509,焼失)等の板絵大作の制作に当たり,12年からはドイツ皇帝マクシミリアン1世の殊遇を受けてその美術顧問ともいうべき位置にあり,192枚の木版画をはり合わせた《皇帝マクシミリアンの凱旋門》(1517)や祈禱書周縁装飾素描等を作った。そのころ彼の版画制作は,技術,内容の両面において絶頂に達し,有名な三大銅版画,すなわち《騎士と死神と悪魔》(1513),《メレンコリアⅠ》(1514),《書斎のヒエロニムス》(1514),そのほか木版および銅版による2種の小型版受難伝等が次々に制作され,版画はそこに表現される精神性において優に絵画をしのぐ域に達した。19年マクシミリアンが没し,20-21年皇帝カール5世の戴冠式を機に約1ヵ年ネーデルラントへ旅行してアントワープに滞在,数種の写生帳のほか旅日記を残す。また1500年ころより始まった均衡論や遠近法等の美術理論の研究は,晩年に近づくに及んでしだいに大きな関心事となり,《測定法》(1525),《築城論》(1527),《人体均衡論》(1528)等として刊行されたが,他面健康の衰えと重なって美術作品の減少を招いた。24-25年ニュルンベルクを襲った宗教改革の狂瀾はデューラーをも渦中に巻き込み,その苦衷の中から最後の力をふり絞って描いた大作《四人の使徒》(1526)は,下端の銘文が示すように,市庁舎の会議室を飾る〈正義図〉の伝統を借りた信仰告白であったと見ることができよう。
作品は絵画約70点,銅版画約100点,木版画約200点,そして1000点に近い素描が現存する。彼はまた文筆にも長じ,自伝《家譜》,《覚書》,書簡,日記,それに上記3種の著書と膨大な量の草稿などを残した。それらは美術文献の域を超えて文学的価値をも有する。また彼の美術論は,アルベルティ,レオナルド・ダ・ビンチなどイタリアの先覚者の業績をそしゃくしたうえで,類型の数を飛躍的に増大して個別への強い関心を示すなど,彼独自の見解を加えたものであるが,彼がどうしてレオナルドの手稿の内容を知りえたかは,なお今後の解明にまつべき点が多い。
執筆者:前川 誠郎
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ドイツの画家、版画家。ハンガリーから移住した金工師の息子として5月21日ニュルンベルクに生まれる。初め父の工房で修業したが、画家を志して1486年末ウォルゲムートMichael Wolgemut(1434―1519)の工房に入る。ここで人文学者シェーデルの『世界年代記』のための木版挿絵を師と共作したと推定される。90年コルマル、バーゼル、ストラスブール、フランドル地方を遍歴。コルマル行きはションガウアーを慕ってのことだったが、彼はすでに亡く、期待は果たせなかった。バーゼルで署名入りの最初の木版画を制作している。
1494年、故郷でアグネス・フライと結婚。この時期の作品に「求婚の自画像」といわれるアザミ(夫の誠実を象徴)を手にする『自画像』(ルーブル美術館)がある。この年から翌年にかけての第1回イタリア旅行でベネチアに滞在するが、旅の途中、水彩で純粋風景画の連作を描いている。98年木版画の連作『ヨハネ黙示録』を完成、ドイツ民衆芸術として出発した木版画はここに初めて高度の芸術的表現を得た。動植物、人体の形態学的研究および遠近法の研究を行い、この時期の代表作に『パウムガルトナーの祭壇』(ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク)、『三王礼拝』(フィレンツェ、ウフィツィ美術館)があり、木版連作『マリアの生涯』をほぼ完成。銅版画『アダムとイブ』のプロポーション研究は、やがて現プラド美術館蔵の大作となって結実する。
1505~07年、第2回イタリア旅行を行う。ベネチアに長く滞在し、ベッリーニおよびマンテーニャの芸術に触れて啓発された。『若いベネチアの娘』(ウィーン美術史博物館)、『真鶸(まひわ)の聖母子』(ベルリン国立美術館)、『ロザリオの女王の聖母マリアの祝祭』(プラハ美術館)は、「ゲルマンの巨匠」としての彼の名声を揺るぎないものとしたこの時期の代表作である。帰国後、『万聖節』(1511ころ・ウィーン美術史博物館)などの宗教画を制作し、以前から手がけていた木版画の連作『大受難』を完成するとともに、銅版画の傑作『メランコリア』『騎士と死と悪魔』『書斎のヒエロニムス』を制作。これら明暗の微妙な振幅をもつ銅版画は、後世のレンブラントのエッチングに道を開く表現として高く評価されている。生涯に木版画350点、銅版画100点、デッサン900点に上るグラフィック作品を残した彼は、彩色画とともに黒白の線の表現を重視するドイツ絵画の伝統を基礎づけている。
1519年、友人ピルクハイマーとスイス旅行に出かけ、20年から翌年にかけてはフランドル各地を旅行する。マクシミリアン1世から終身年金を受ける身となった彼にとって、この旅は名実ともに北欧絵画の第一人者としての凱旋(がいせん)の旅であった。彼は芸術における北欧と南欧との障壁を身をもって克服し、後期ゴシックとルネサンスとを融和に導いたドイツ絵画の父であると同時に、美術史上もっとも重要な画家の1人でもある。当時のドイツは宗教改革から農民戦争へ続く危機的時代であり、狂信と不寛容の横行する精神の荒廃を彼は黙視できなかった。26年自発的に描いて故郷の市庁舎に贈った大作『4人の使徒』(アルテ・ピナコテーク)は、ルネサンス的教養人デューラーの警世の寓意(ぐうい)を込めた遺言であると理解されている。同絵画館の『自画像』(1500)も使命感をもつ芸術家像として声価が高い。28年4月6日、ニュルンベルクで没。
[野村太郎]
『F・アンツェレフスキー著、前川誠郎・勝国興訳『デューラー――人と作品』(1982・岩波書店)』▽『前川誠郎解説『世界美術全集9 デューラー』(1976・集英社)』▽『H・T・ムスバー解説、千足伸行訳『世界の巨匠シリーズ デューラー』(1969・美術出版社)』▽『J・アデマール、坂本満編『世界版画3 デューラーとドイツ・ルネサンス』(1978・筑摩書房)』▽『海津忠雄・高橋裕子編著『世界版画美術全集1 デューラー/レンブラント』(1981・講談社)』▽『前川誠郎編著『デューラーの素描』(1972・岩崎美術社)』
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1471~1528
ドイツの画家。ルネサンス期を代表する巨匠で,「自画像」その他の絵画も有名だが,ことにキリストの受難など聖書を主題にした多くの木版画,銅版画は画期的といわれる。
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…中国や日本では自画像の観念は西洋よりも希薄で,画僧明兆が淡路島に住む母親へ送ったという自画像(14世紀中ごろ)などは例外的である。 自画像の制作に鏡を用いることは15世紀初頭のフランスの写本画に女性が鏡の前に座って自身の姿を描くさまが図示されていること,またデューラーの1484年の銀筆素描の銘文に鏡像である旨が記されていることなどから明らかである。その場合両手を添えて描いた3/4正面像となることが多く,筆をもつ右手が画中では左手となって他方の手のうしろに隠され,また眼は自身を正視する形で後から描き入れられるのが定石である。…
…また16世紀以降しばしば描かれた,手のひらにのる程度の小型肖像画(ミニアチュール,ポートレート)も一般に水彩を使っているが,やはりベラムまたは象牙板の上に描かれ,いわゆる水彩とは区別される。水彩は15~16世紀のフランス,イタリア,ネーデルラントの画家たちにも散発的には見られるが,水彩画の最初の巨匠と呼ぶべきはドイツのデューラーで,1494‐95年のイタリア旅行の途上および帰国後に描かれた数々の水彩は,それ自体で独立的な価値をもった最初の作品群といえる。この中にはアルプスやニュルンベルク周辺の風景を描いたものも少なくなく,風景画のまだ確立されていなかった当時にあって貴重な作例となっている。…
…線はまた版画や素描の表現手段でもある。ドイツ最大の画家とされるデューラーも,実は油彩画よりも版画によってこそ前人未到の世界を切り開いたのである。その起源からしてドイツの地を故郷とする版画は,彼によって一挙に完成の域へ引き上げられ,ヨーロッパに冠たる名声をドイツにもたらすことができた。…
…ルネサンス期になると商業の発達が著しく,パリ,フィレンツェ,ベネチアなどの都市の人口が増加し,中世の都市の改造が行われはじめた。16~17世紀にかけて,デューラー,スカモッツィなどの理想都市の提案があった。これらは支配階級の権威と防衛とを重視し,都市の形は多角形または星形をとり,市街地は幾何学的な街路パターンをもち,主要な場所には広場が配置されている。…
…ポンポニウス・ガウリクスPomponius Gauricusの《彫刻論》は人相学も論じ,グロテスクな横顔の素描を描いたレオナルド・ダ・ビンチも人相学に興味を示し,鼻の形に注目している。また,A.デューラーは多血質,胆汁質,粘液質,憂鬱(ゆううつ)質などのいわゆる四性論にもとづいた人相学に凝って多くの作品を描いている。この四性論的人相学はヒルThomas Hillの《人間の観察》などにも詳しい。…
…北方絵画の風景表現は,油彩技法への驚異とあいまってイタリア・ルネサンス美術に多大の刺激を与え,ピエロ・デラ・フランチェスカ(例,《ウルビノ公夫妻像》)やレオナルド・ダ・ビンチの諸作品における風景描写を生むに至った。 画中から物語的要素がしだいに減少し,代わって風景的要素が増大していく過程の作家の一人にアントワープの画家パティニールがあり,1521年同市滞在中のデューラーは日記にこの人を〈良き風景画家〉と記し,そのときLandschaftsmalerなるドイツ語を初めて使用したといわれている。デューラー自身はすでに15世紀末にどこの景色と特定しうる現存最古の地誌的風景を水彩で描いたが,人物的要素が完全に消失したタブローとしての純粋な風景画は16世紀の20年代に南ドイツのドナウ派から生まれた(例,アルトドルファー《ドナウウェルトの眺め(城のある風景)》)。…
…中世では新たな説明原理として占星術が加わり,たとえばアルナルドゥス・デ・ウィラノウァは,火星の色と熱が胆汁の色と熱に近いところから,メランコリーの原因がこの惑星にあると考えたが,土星に関係があるという説も根強かった。 メランコリーがしかし歴史の脚光をあびるのはルネサンス期に入ってからで,たとえばドイツの画家デューラーは1514年に有翼の女性の沈思の姿をかりて銅版画《メレンコリア・I》を描き,同時代のミケランジェロはメディチ家の廟を《ペンセローソ(沈思の人)》で飾り,1世紀後のミルトンも同名の詩をつくってメランコリーを賛美する。さらに,1621年に出た牧師R.バートン《メランコリーの解剖学(憂鬱の解剖)》は当時のベストセラーの一つだったと伝えられる。…
… 15世紀末に,銅版画の表現が精度を高めると,簡略化しがちの木版画に,銅版画を模した線の交錯で陰影部を彫って(凸版としては不合理な技法であるが),銅版画的な精度をもち,かつそれまでにない大型版画がつくられた。その大成者はA.デューラーであった。彼の影響は大きく,ドイツ,オーストリア,スイス,アルザスの諸地方にL.クラーナハ(父),A.アルトドルファー,ベーハム兄弟,H.バルドゥング,H.ホルバインらが輩出した。…
…ボローニャ近郊に生まれる。画家・金細工師のF.フランチアのもとで修業した後,1508年ころベネチアに赴き,とくにデューラーの木版画の模刻をするが剽窃(ひようせつ)罪で訴えられる。10年ころローマに移住し,ラファエロの工房で師のデッサンに基づく多量の複製版画を制作し普及に努めた。…
※「デューラー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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