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瀬戸内海 せとないかい

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

瀬戸内海
せとないかい

本州西部と四国の間にある海域。更新世中期(約 38万年前)に,琵琶湖から有明海にいたる地盤が陥没して備後灘以東に第1次の瀬戸内海が形成された。その後の海水準面の変動により,陸化したが,今日のような形になったのは約 8000年前と推定されている。

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デジタル大辞泉の解説

せと‐ないかい【瀬戸内海】

本州・四国・九州に囲まれた海域。西は早鞆(はやとも)瀬戸(関門海峡)、南西は速吸(はやすい)瀬戸(豊予海峡)、南東は鳴門瀬戸(鳴門海峡)などで外海に通じる。淡路島小豆(しょうど)島をはじめ大小二千余の島があり、典型的な多島海風景を示す。古来、畿内と九州・大陸とを結ぶ重要な海上交通路。瀬戸内。内海。

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百科事典マイペディアの解説

瀬戸内海【せとないかい】

本州,四国,九州に囲まれた東西約440km,南北5〜55kmの海域。西南日本の内帯に属する断層盆地帯にあたり,中生代末に沈降して内海となったのに始まり,最終的には沖積世初期の海進によって形成された。
→関連項目伊方原発伊予灘岡山平野香川[県]燧灘兵庫[県]淀川

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世界大百科事典 第2版の解説

せとないかい【瀬戸内海】

本州,四国,九州に囲まれた日本最大の内海。北部一帯の中国山地,中国高原,冠山山地,西部の九州火山地域および九州山地,南部の四国山地,南東部の紀伊山地に囲まれた西日本内帯に属する陥没地帯である。一般的には友ヶ島水道(紀淡海峡),鳴門海峡豊予海峡関門海峡の4海峡(瀬戸)によって外海と隔てられた内海を指し,この範囲での島(満潮時の周囲0.1km以上)の数は約700(うち有人島は約150)である。瀬戸内海環境保全特別措置法では,南は和歌山県日ノ御埼(ひのみさき)~徳島県蒲生田(かもだ)岬を結ぶ線,愛媛県高茂岬(こうもざき)~大分県鶴御崎(つるみさき)を結ぶ線,北は山口県火ノ山下灯台~福岡県門司崎灯台を結ぶ線と陸地とによって囲まれた,紀伊水道,大阪湾,播磨灘備讃瀬戸備後灘,燧(ひうち)灘,芸予海峡,安芸灘,広島湾,伊予灘周防灘,別府湾,豊後(ぶんご)水道の水域および外海の響(ひびき)灘の一部を含めている。

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大辞林 第三版の解説

せとないかい【瀬戸内海】

本州・四国・九州に囲まれた日本最大の内海。西南日本をほぼ東西に横切る窪地帯に海水が浸水して形成された。無数の島々はかつての地塁などで、周囲より小高かった山地。古来、海上交通の大動脈で、また水産物の宝庫でもある。沿岸に工業が発達。気候は温暖で雨量が少ない。瀬戸内。内海。

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日本の地名がわかる事典の解説

〔県域外〕瀬戸内海(せとないかい)


本州南西岸と四国北岸・九州北東岸に囲まれた内海。南東部は紀伊(きい)水道、西部は関門(かんもん)海峡、南西部は速吸(はやすい)瀬戸によって外海と通じる。東西約440km、南北約7~55km、面積約1万9000km2で、約3000の島が点在する。波静かな多島海の内海だが、狭い海峡・水道が多く、濃霧や複雑な潮流と相まって航路の難所をつくる。沿岸の景勝地は瀬戸内海国立公園に属する。同公園は、1934年(昭和9)、日本で最初に指定された国立公園の一つ。かつては沿岸漁業が盛んだったが、第二次大戦後、浅海部の埋め立てが進行し工業化が進む。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

瀬戸内海
せとないかい

西日本の近畿、中国、四国、九州の諸地方の沿岸部によって囲まれた海域。東西約440キロメートル、南北約5~50キロメートル、周囲は約1300キロメートル、面積約9500平方キロメートルに及ぶ。東西に延びる沿岸は大小3000もの島をもつ複雑な海岸線を形成し、世界的にも傑出した自然景観を展開し、その主要部は国立公園となっている。日本の歴史を通じて、交通、政治、文化上きわめて重要な役割を演じてきた海域として注目される。[三浦 肇]

境域

西端は早鞆ノ瀬戸(はやとものせと)(関門海峡東部)、南西端は速吸瀬戸(はやすいせと)(豊予(ほうよ)海峡)、南東部は友ヶ島水道(紀淡海峡)と鳴門瀬戸(なるとのせと)(鳴門海峡)の狭隘(きょうあい)な瀬戸によって外海に通じ、これら四瀬戸の内側の意をもって、瀬戸内(せとうち)あるいは瀬戸内海とよばれてきた。狭義には明石(あかし)海峡および鳴門海峡以西をいうこともあり、また広義には、「瀬戸内海環境保全特別措置法」(1978)のように、その南東界を紀伊水道の和歌山県日ノ御埼(ひのみさき)灯台―徳島県蒲生田岬(かもだみさき)の線までをその範囲とする場合もある。[三浦 肇]

自然

瀬戸内海とその周辺は、地質構造上は西南日本内帯南部の幅広い東西方向の窪地(くぼち)帯にあたり、それが鮮新世から更新世(洪積世)にかけて、北東―南西方向の軸をもつ隆起部と沈降部が交互に並ぶ波状の地殻変動が加わって、瀬戸内地方の起伏の概形ができあがった。その一部は湖水や内海となっていたが、氷河時代に海面が低下したため、瀬戸内海全域が陸化し、備讃(びさん)瀬戸付近を分水界として紀淡川が東流し、豊後(ぶんご)川が西流していた。氷河時代最後のビュルム氷期以降海面が上昇し始め、紀伊水道や豊後水道から海水が浸入してきて、ほぼ現在の瀬戸内海が形成されたのは完新世(沖積世)の初め、いまから8000年前ごろとみなされている。その後も海進は続いて、約5000年前ごろの海面は現在より6~7メートル程度高かった。至る所で深く海が入り込んだ沈水海岸線をつくり、淡路(あわじ)島、小豆(しょうど)島、備讃諸島、芸予(げいよ)諸島、防予(ほうよ)諸島などの島嶼(とうしょ)群と、大阪湾、播磨灘(はりまなだ)、備後(びんご)灘、伊予灘、周防(すおう)灘のような広い水域とが交互に現れ、それまでの特異な地盤運動と地形構造を反映した複雑な海陸の配置をつくりだした。その後わずかに海面が低下して、2500年前ごろにほぼ現在の海陸の分布形態に落ち着いたのである。もちろん、その後各地で三角州平野の発達や人工の干拓地、埋立地の造成によって平野部が広がった所も多い。
 瀬戸内海の潮汐(ちょうせき)は、東は紀伊水道、西は関門海峡・豊予海峡を通じて外洋水が出入りすることによって生ずるが、東西からの潮流の出合う塩飽(しわく)諸島付近での干満差は最大4メートルに達する。島嶼間の狭い瀬戸では強い潮流のため、航路上の難所をなす所も多く、とくに明石海峡や豊予海峡では最大5ノット、早鞆ノ瀬戸で8ノット、来島(くるしま)海峡や鳴門海峡では10ノット以上にも達する。瀬戸内海の水深は、灘の部分では20~40メートル程度であるが、急潮で知られる海峡では激しい潮流の侵食によって海底が削られ、海釜(かいふ)とよばれる深い窪地ができている。たとえば明石海峡では水深約100メートルの帯状の谷が掘り込まれており、備讃瀬戸の大槌(おおづち)島―小槌(こづち)島間には東側に水深89メートル、西側に79メートルの二つの海釜があり、豊予海峡では南側に水深360メートル、北側に460メートルにも達する内海最深の海釜の存在が知られている。
 瀬戸内地方はとくに瀬戸内気候とよばれる日本でも特色ある少雨地帯である。夏は南東風が四国山地を越えて、冬は北西風が中国山地を越えて瀬戸内に入ったとき、いずれも下降気流となって晴天が多くなる。年降水量は1000~1500ミリメートルで、日照時間も年間2200時間以上の所が多い。しかし海が浅いので冬の海水温は低く、周防灘や備後灘では8℃前後のこともあって外洋の黒潮より10℃も低い。したがって沿岸の都市でもたとえば岡山の1月平均気温(3.4℃)は、山陰の鳥取(3.9℃)より寒い傾向がみられる。また、4月から6月に多い濃霧も、冬の低温が残る内海に、南から暖湿な気流が流入するため発生するもので、このころ周防灘や播磨灘では海上事故が起こりやすい。さらに夏の暑さの厳しい内海沿岸は海陸の温度差に起因する海陸風のよく発現する所で、海風と陸風の交替時の無風状態は朝凪(あさなぎ)・夕凪として知られる。[三浦 肇]

歴史

瀬戸内海地方における人類居住の始まりは少なくとも旧石器時代にさかのぼり、内海中央の井島(いしま)、与島(よしま)、櫃石(ひついし)島や高松市国分台(こくぶだい)などでその遺跡が知られているが、そのころはまだ内海は広い陸地であった。岡山県の黄島(きじま)や香川県の小蔦(こつた)島には下層に淡水産の、上層に海水産の貝類を出土する縄文早期の貝塚遺跡が発見されているから、このころから内海時代の歴史が始まるのである。海面の高かった縄文時代は気候も温暖で、岡山平野周辺、松永湾岸、広島湾岸、山口県沿岸などには、縄文各期の狩猟や漁労生活を物語る遺跡が点々と分布し、坂出(さかいで)市金山(かなやま)のサヌカイトや大分県姫島の黒曜石(こくようせき)が石器材料として広く沿岸各地に運ばれ、内海水運を通じての文化圏の広がりを知ることができる。
 紀元前3世紀ごろ、稲作を主とする弥生(やよい)文化が大陸からもたらされると、急速に北九州から瀬戸内を経て近畿、伊勢(いせ)湾岸に至る西日本一帯に伝播(でんぱ)、定着して、弥生前期に早くも北九州と畿内(きない)を中心とする二大文化圏が成立し、瀬戸内海はこの東西を結ぶ重要な回廊地帯となった。古墳時代にも、吉備(きび)や畿内の巨大古墳のなかには、その石棺材料として阿蘇(あそ)凝灰岩が北九州の産地から内海を経由して輸送されたものが数多くあることや、山口県熊毛(くまげ)半島の白鳥(しらとり)古墳、愛媛県高縄(たかなわ)半島の相ノ谷1号古墳、広島県松永湾岸の黒崎山古墳などその地域最大の前方後円墳が、内海航路の拠点に占地していることなどからみても、大和(やまと)政権による古代国家形成期に瀬戸内海が文化動脈として多彩な役割を果たしたことがうかがえる。古代の水運を担った人々は海人(あま)族といわれ、これには宗像(むなかた)系と住吉(すみよし)系とあって、それぞれ北九州沿岸を本拠としてしだいに内海一帯に植民し、製塩、漁労、造船の技術に秀でていた。内海における製塩の歴史は古く、備讃諸島で発見された師楽(しらく)式土器を出土する古墳時代の製塩遺跡が有名で、同じような土器製塩は東は淡路島から西は山口県宇部沿岸に至るまで広く各地で行われていた。奈良時代に入って鉄釜(かま)製塩にかわり、塩浜の開発が進むと、弓削(ゆげ)島、塩飽島、因島(いんのしま)などのような中央の貴族・社寺による塩荘園(しょうえん)も現れてきた。
 平安時代になると荘園の発達とともに内海水運による物資輸送が急増したが、やがて治安の乱れに乗じて海賊の出没する海となり、なかでも、東は摂津(せっつ)から西は大宰府(だざいふ)まで瀬戸内海全域を舞台とした藤原純友(すみとも)の反乱は中央政府に強い衝撃を与えた。平安末期、海賊の討伐に功のあった平氏は、しだいに内海各地の水軍を支配下に繰り入れ、その一門は畿内から九州に及ぶ西国一帯に知行(ちぎょう)国や多くの所領荘園を有して強大な勢力を培い、とくに武門出身最初の太政(だいじょう)大臣となった平清盛(きよもり)は、海外貿易を重視して大輪田泊(おおわだのとまり)を修築し、宋(そう)船の入港を図り、内海航路の整備を進め、海上交通の守護神である厳島(いつくしま)神社を厚く信仰した。しかし平氏一門の繁栄も長くはなく、源氏を中心とする東国武士団の追撃によって京都を追われ、瀬戸内海を舞台とする攻防戦を繰り返したが、熊野水軍や伊予河野(こうの)水軍の源氏への加担によって、1185年(文治1)長門(ながと)壇之浦において滅亡した。
 鎌倉時代に入って承久(じょうきゅう)の乱や蒙古(もうこ)襲来のために西国の海路は一時社会的緊張を増したが、鎌倉幕府は西国地方の守護・地頭(じとう)に多く東国武士を任じて統制を強化したから、内海水運は荘園年貢や諸国物資の輸送によって活発となった。大量の宋銭や陶器類を出土した草戸(くさど)千軒町(広島県芦田(あしだ)川の河津)の遺跡が物語るように商品経済も発達して、兵庫、牛窓(うしまど)、鞆(とも)、尾道(おのみち)、柳井(やない)など港湾都市が栄えた。鎌倉末期から南北朝争乱の時代には、内海の土豪(どごう)武士たちの多くは南朝に属し、航路上の要所に築城して警固料(通行税)を取り立て、海賊衆ともよばれ、その一部は海外に出て倭寇(わこう)となった。室町幕府の足利義満(あしかがよしみつ)はこれら内海の海賊衆を制圧して日明(にちみん)間に勘合貿易を開いたが、讃岐(さぬき)の細川氏、播磨の赤松氏、周防の大内氏なども海外貿易に進出を試みた。とくに関門海峡を押さえる大内氏は室町末期から戦国時代にかけて村上水軍を警固衆として内海西半を制することにより日明貿易の主導権を握り、その城下山口は西の京都とよばれるほどの繁栄をみた。
 1588年(天正16)豊臣(とよとみ)政権による厳しい刀狩令と海賊鎮圧令によってやがて内海海賊衆は姿を消し、封建体制下に組み込まれ、さらに江戸幕府は寛永(かんえい)の鎖国令によって海外渡航を禁じたが、各藩の産業開発の進展と相まって、画期的な内海水運時代を迎えるのである。山陽沿岸寄りの従来からの航路は「地乗り」と称して、公式の海駅として大坂に始まって兵庫、室津(むろつ)、牛窓、下津井(しもつい)、鞆、尾道、蒲刈(かまがり)、上関(かみのせき)、下関などには本陣、番所が設けられ、参勤交代の諸大名、朝鮮信使、琉球(りゅうきゅう)使節、長崎出島商人などがこの公路を利用した。一方、西廻(にしまわり)航路の開発によって、日本海沿岸の物資が下関を経由して大坂に集まるようになると、大型の北前(きたまえ)船の航行も盛んとなり、「沖乗り」航路に沿って、新しく木江(きのえ)や御手洗(みたらい)、鹿老渡(かろうと)など島嶼の港町が繁栄するようになった。また沿岸各地で次々と大規模な干拓地が造成されたが、とくに赤穂(あこう)地方に始まった入浜式塩田は急速に讃岐の坂出や周防の三田尻(みたじり)など各地方に伝播し、全国製塩の9割を占める瀬戸内十州塩田が成立した。これも、内海水運を中心とする西日本沿岸海運の発達によって、全国的市場の開発が進んだためである。
 幕末・維新の変革期を経て、明治時代に入り、1901年(明治34)山陽鉄道が下関まで全通すると、内海水運の事情は大きく変貌(へんぼう)する。帆船は機帆船や大型汽船にかわり、風待ちや潮待ちの小港町は衰退して、下関や神戸、大阪が貿易港として発展し、国際航路もここに集まってきた。一方、産業の近代化が進み、阪神工業地帯の成長に伴い、倉敷や広島など各地に紡績業が始まり、呉(くれ)に海軍工廠(こうしょう)、神戸、玉野、因島に造船所、新居浜(にいはま)には銅精錬と化学工業、宇部には石炭産業と化学工業がおこり、北九州の製鉄業や筑豊(ちくほう)炭田の開発と相まって、瀬戸内海は西日本における産業運河としての機能をますます強めてきた。[三浦 肇]

産業

開発が古く、人口密度も高い瀬戸内地方は平地に乏しく、島嶼も多いので、狭い農地を集約的、多角的に利用してきた。近世以来、米、麦、サツマイモのほか、讃岐のサトウキビ、備前(びぜん)の綿、備中(びっちゅう)の菜種(なたね)、備後の藺草(いぐさ)など多種類の商品作物がつくられた。現在も、雨の少ない讃岐平野や岡山平野では溜池(ためいけ)や農業用水路網が整備され、良質の讃岐米・備前米の産地となり、岡山平野北部の丘陵地一帯は白桃やマスカットの全国的な果樹地域を形成しているし、また島嶼農業も多彩であり、淡路島、真鍋(まなべ)島、向(むかい)島、能美(のうみ)島は花卉(かき)栽培、生口(いくち)島、因島、大崎上(おおさきかみ)島、大崎下(しも)島、倉橋(くらはし)島、周防大島はミカンやネーブルなどの柑橘(かんきつ)栽培に特色がある。また淡路島は和牛飼育、酪農の先進地として知られる。
 内海の水産業は、海面は狭いが、灘や瀬戸の配置、複雑な海岸地形、潮流などの海況によって魚種が多く、漁法も多様である。漁獲量も少なくはないが、沿岸や島嶼には早くから漁村が発達し、漁家1戸当りの漁獲は全国平均の4分の1程度で、小規模な零細沿岸漁業が主となっている。漁法では小型底引網、一本釣り、刺網(さしあみ)、延縄(はえなわ)、船引網、たこ壺(つぼ)などが盛んで、エビ、イワシ、アジ、タイ、カレイ、ナマコ、タコの漁獲が多い。全国総漁獲量のなかに占める割合は4%程度である。とくに近年は埋立地の造成によって、魚類の産卵場である内湾が各地で失われ、乱獲や工場・都市排水の影響による海水汚染や赤潮の発生のために魚類は減少傾向にあり、養殖・栽培漁業への転換が図られつつある。すでに江戸時代から知られた広島湾の養殖カキは全国一の生産をあげており、香川県東かがわ市のハマチ養殖、山口県秋穂(あいお)湾のクルマエビの養殖などが知られている。
 瀬戸内では江戸時代から山陽沿岸の綿作地帯を控えて、農村工業ともいうべき綿織物の生産が盛んであったが、明治時代に入って早くも岡山、倉敷、福山、広島などに紡績工場の設置をみた。大正時代以降、宇部の海底炭田や別子(べっし)銅山など鉱産開発に伴って、宇部、小野田や新居浜に機械・化学工業がおこり、製塩地に近い徳山や宇部に原料(塩)指向型のソーダ工業、三原、松山、岩国、防府(ほうふ)には用水型の化学繊維工業が立地し、玉野、因島、尾道には造船工業が進出して、各地に分散的に工業都市が成立したが、まだまとまった瀬戸内工業地域として展開をみるまでには至らなかった。第二次世界大戦後は、旧軍用地の転用や大規模な埋立地造成によって、各地で先進的な鉄鋼、石油化学を中心に臨海型の重化学工業化が急速に進展した。主要なものは水島、岩国、徳山、小野田、松山の石油化学コンビナート、広畑、水島、福山、呉の鉄鋼業、広島、防府や水島の自動車工業などで、瀬戸内工業地域の生産は全国の約10%を占めるが、全国的にみても、大規模で高能率の工場が多いことが特色である。[三浦 肇]

民俗・観光

古代から大陸、北九州と畿内を結んで、頻繁に文物の往来した瀬戸内地方は、歴史的な古俗を伝える伝統行事や習俗が多く残され、文化財の宝庫であるともいわれている。
 古代海人族の習俗を伝える「家船(えぶね)」は現在はほとんど姿を消したが、近年までは家族が乗り込んで漁船を住居とし、内海各地を漂泊しながら漁労し、一本釣り、延縄、打瀬(うたせ)網などの漁獲物をその妻女が売って歩いた。その親村は広島県三原瀬戸の能地(のうじ)や吉和(よしわ)、二窓(ふたまど)で、各地に定着して枝(えだ)村をつくり、東は小豆島や牛窓から西は山口県宇部までの間に100漁村にも及ぶという。家船の妻女が寄港した町々では、魚を「はんぼう」という桶(おけ)で頭上運搬して行商した姿が第二次世界大戦前までみられた。この頭上運搬の習俗はイタダキともカベリともいい、傾斜地の多い島嶼でもみられ、備讃諸島の男木(おぎ)島、女木(めぎ)島、佐柳(さなぎ)島、高見島などにも残っている。
 人口密度の高い内海の島では、すでに江戸時代後期から出稼ぎが行われ、広島県の田島や山口県の祝(いわい)島、長島では九州五島(ごとう)まで出かけて鯨組舸子(くじらぐみかこ)として出稼ぎ、塩飽諸島や因島の船大工、愛媛県越智(おち)郡の石工、伊予大島や祝島の酒造杜氏(とうじ)、愛媛県野忽那(のぐつな)島や睦月(むづき)島では行商人が本土各地に出かけており、島民の移動性と開放性に富む生活には注目すべきものがある。島の若い女性が阪神地方の都市へ出て女中奉公する風習も、東は小豆島から西は山口県上関付近の島々まで広く第二次世界大戦前まで続いていた。また海外移民も多く、山口県周防大島は明治以降ハワイやアメリカ移民の母村として有名である。
 年中行事の祭礼、神事のなかにも内海らしい特色のあるものが多い。下関市長府(ちょうふ)の忌宮(いみのみや)神社の夏祭「数方庭(すほうでい)」、長門一宮(いちのみや)住吉神社の旧暦元旦(がんたん)の秘事「和布刈祭(めかりさい)」、防府市周防一宮玉祖(たまのおや)神社の呪術(じゅじゅつ)的儀礼「占手(うらての)神事」(占手相撲(ずもう))、愛媛県今治(いまばり)市大三島大山祇(おおやまづみ)神社のお田植祭に田の神を相手に行う「一人相撲」、岡山県吉備津(きびつ)神社の「釜鳴(かまなり)神事」などは、古代にさかのぼる民族の古俗を伝えるものとして貴重である。
 華やかな海の祭典としては、日本三景の一つ安芸(あき)の宮島厳島神社の管絃祭(かんげんさい)が有名で、船上に鳳輦(ほうれん)を載せ、雅楽を奏しながら数多くの供船(ともぶね)を従えて、対岸の地御前(じごぜん)神社まで海峡を往復するもので、王朝絵巻の再現といってよい。同じ平家ゆかりの下関市の安徳(あんとく)天皇を祀(まつ)る赤間神宮の先帝祭(せんていさい)は、壇ノ浦の戦いの旧暦4月23日の忌日に行われ、上(じょうろう)参拝のある異色の祭礼である。
 伊予水軍にちなむ愛媛県松山市の鹿島(かしま)祭の船踊り「カイネリ(櫂練り)」は「カイデンマ(櫂伝馬)」ともいう。同じような伝馬船競漕(てんませんきょうそう)は因島箱崎、大崎上島、蒲刈島などでもみられる。海上守護神として知られる讃岐の金刀比羅(ことひら)宮はお伊勢参りと並んで、江戸時代に全国的な信仰を集めた。金毘羅(こんぴら)街道に沿って「こんぴら道」の道標や灯籠(とうろう)が残り、現在でも年間400万の観光客が参詣(さんけい)する。また、岡山県西大(さいだい)寺観音(かんのん)院の「会陽(えよう)」は、2本の神木を奪い合う裸祭として知られる春の祭礼であるが、厳島神社の玉取祭も、海中で若衆が宝珠を奪い合う夏の裸祭である。四国八十八か所を巡る遍路の旅は聖地巡礼の民間信仰で、これを略式化した島四国八十八か所が各地にあり、淡路島、小豆島、伊予大島、周防大島、山口県秋穂半島などそれぞれ特色があり、瀬戸内の春らしい信仰行事である。
 なお、瀬戸内地方は新しい交通革命に対応して、本州四国連絡橋が3ルート計画され、1988年には児島―坂出(さかいで)ルートが、1998年(平成10)に神戸―鳴門ルート、1999年に尾道―今治ルートが全通した。[三浦 肇]
『中国新聞社編・刊『瀬戸内海』上下(1960) ▽福尾猛一郎編『内海産業と水運の史的研究』(1966・吉川弘文館) ▽谷口澄夫他著『瀬戸内の風土と歴史』(1978・山川出版社) ▽岩波書店編集部編『瀬戸内海――空からみた』(1990・岩波書店) ▽緑川洋一・岡谷公二・古茂田不二著『とんぼの本 瀬戸内海 島めぐり』(1991・新潮社) ▽宮本常一著『瀬戸内海の研究 島嶼の開発とその社会形成――海人の定住を中心に』(1992・未来社) ▽森田敏隆写真『瀬戸内海国立公園』(1993・毎日新聞社) ▽須磨海浜水族園編『せとうち百魚百話――瀬戸内海のゆかいな魚達』(1994・神戸新聞総合出版センター) ▽進藤松司著『瀬戸内海西部の漁と暮らし』(1994・平凡社) ▽松原弘宣編『瀬戸内海地域における交流の展開』(1995・名著出版) ▽松原弘宣著『古代国家と瀬戸内海交通』(2004・吉川弘文館) ▽石野博信編『古代の『海の道』――古代瀬戸内海の国際交流』(1996・学生社) ▽岡市友利・小森星児・中西弘編『瀬戸内海の生物資源と環境――その将来のために』(1996・恒星社厚生閣) ▽中国新聞「瀬戸内海を歩く」取材班著『瀬戸内海を歩く』上下(1998・中国新聞社) ▽柳哲雄編著、合田健監修『瀬戸内海の自然と環境』(1998・神戸新聞総合出版センター) ▽山内譲著『中世瀬戸内海地域史の研究』(1998・法政大学出版局) ▽白幡洋三郎編著、合田健監修、瀬戸内海環境保全協会企画・編集『瀬戸内海の文化と環境』(1999・神戸新聞総合出版センター) ▽室山敏昭・藤原与一編『瀬戸内海圏 環境言語学』(1999・武蔵野書院) ▽環瀬戸内海会議編『住民がみた瀬戸内海――海をわれらの手に』(2000・技術と人間) ▽地方史研究協議会編『海と風土――瀬戸内海地域の生活と交流』(2002・雄山閣) ▽大林宣彦著『ぼくの瀬戸内海案内』(2002・岩波ジュニア新書) ▽西田正憲著『瀬戸内海の発見――意味の風景から視覚の風景へ』(中公新書)』

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世界大百科事典内の瀬戸内海の言及

【水軍】より

…海上交通の拠点となる沿岸島嶼に跋扈(ばつこ)し,荘園年貢などを輸送する船の警護役を務めて駄別料を取り立てたり,関所を設けて通行税を徴収したりするほか,ときには往来の船を襲って積荷を略奪するなど乱暴を働いた。瀬戸内海から九州地方にかけての海賊衆は,みずから朝鮮貿易に参加することもあり,また倭寇として朝鮮,中国沿岸を荒らし,人々から恐れられる存在であった。このような海賊衆は漁業経営とも密着した在地性の強い集団で,その配下として多数の漁民を従え,彼らにも武装させていた。…

※「瀬戸内海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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