西日本の近畿、中国、四国、九州の諸地方の沿岸部によって囲まれた海域。東西約440キロメートル、南北約5~50キロメートル、周囲は約1300キロメートル、面積約9500平方キロメートルに及ぶ。東西に延びる沿岸は大小3000もの島をもつ複雑な海岸線を形成し、世界的にも傑出した自然景観を展開し、その主要部は国立公園となっている。日本の歴史を通じて、交通、政治、文化上きわめて重要な役割を演じてきた海域として注目される。
[三浦 肇]
西端は早鞆ノ瀬戸(はやとものせと)(関門海峡東部)、南西端は速吸瀬戸(はやすいせと)(豊予(ほうよ)海峡)、南東部は友ヶ島水道(紀淡海峡)と鳴門瀬戸(なるとのせと)(鳴門海峡)の狭隘(きょうあい)な瀬戸によって外海に通じ、これら四瀬戸の内側の意をもって、瀬戸内(せとうち)あるいは瀬戸内海とよばれてきた。狭義には明石(あかし)海峡および鳴門海峡以西をいうこともあり、また広義には、「瀬戸内海環境保全特別措置法」(1978)のように、その南東界を紀伊水道の和歌山県日ノ御埼(ひのみさき)灯台―徳島県蒲生田岬(かもだみさき)の線までをその範囲とする場合もある。
[三浦 肇]
瀬戸内海とその周辺は、地質構造上は西南日本内帯南部の幅広い東西方向の窪地(くぼち)帯にあたり、それが鮮新世から更新世(洪積世)にかけて、北東―南西方向の軸をもつ隆起部と沈降部が交互に並ぶ波状の地殻変動が加わって、瀬戸内地方の起伏の概形ができあがった。その一部は湖水や内海となっていたが、氷河時代に海面が低下したため、瀬戸内海全域が陸化し、備讃瀬戸(びさんせと)付近を分水界として紀淡川が東流し、豊後(ぶんご)川が西流していた。氷河時代最後のビュルム氷期以降海面が上昇し始め、紀伊水道や豊後水道から海水が浸入してきて、ほぼ現在の瀬戸内海が形成されたのは完新世(沖積世)の初め、いまから8000年前ごろとみなされている。その後も海進は続いて、約5000年前ごろの海面は現在より6~7メートル程度高かった。至る所で深く海が入り込んだ沈水海岸線をつくり、淡路(あわじ)島、小豆(しょうど)島、備讃諸島、芸予(げいよ)諸島、防予(ほうよ)諸島などの島嶼(とうしょ)群と、大阪湾、播磨灘(はりまなだ)、備後(びんご)灘、伊予灘、周防(すおう)灘のような広い水域とが交互に現れ、それまでの特異な地盤運動と地形構造を反映した複雑な海陸の配置をつくりだした。その後わずかに海面が低下して、2500年前ごろにほぼ現在の海陸の分布形態に落ち着いたのである。もちろん、その後各地で三角州平野の発達や人工の干拓地、埋立地の造成によって平野部が広がった所も多い。
瀬戸内海の潮汐(ちょうせき)は、東は紀伊水道、西は関門海峡・豊予海峡を通じて外洋水が出入りすることによって生ずるが、東西からの潮流の出合う塩飽諸島(しわくしょとう)付近での干満差は最大4メートルに達する。島嶼間の狭い瀬戸では強い潮流のため、航路上の難所をなす所も多く、とくに明石海峡や豊予海峡では最大5ノット、早鞆ノ瀬戸で8ノット、来島(くるしま)海峡や鳴門海峡では10ノット以上にも達する。瀬戸内海の水深は、灘の部分では20~40メートル程度であるが、急潮で知られる海峡では激しい潮流の侵食によって海底が削られ、海釜(かいふ)とよばれる深い窪地ができている。たとえば明石海峡では水深約100メートルの帯状の谷が掘り込まれており、備讃瀬戸の大槌(おおづち)島―小槌(こづち)島間には東側に水深89メートル、西側に79メートルの二つの海釜があり、豊予海峡では南側に水深360メートル、北側に460メートルにも達する内海最深の海釜の存在が知られている。
瀬戸内地方はとくに瀬戸内気候とよばれる日本でも特色ある少雨地帯である。夏は南東風が四国山地を越えて、冬は北西風が中国山地を越えて瀬戸内に入ったとき、いずれも下降気流となって晴天が多くなる。年降水量は1000~1500ミリメートルで、日照時間も年間2200時間以上の所が多い。しかし海が浅いので冬の海水温は低く、周防灘や備後灘では8℃前後のこともあって外洋の黒潮より10℃も低い。したがって沿岸の都市でもたとえば岡山の1月平均気温(3.4℃)は、山陰の鳥取(3.9℃)より寒い傾向がみられる。また、4月から6月に多い濃霧も、冬の低温が残る内海に、南から暖湿な気流が流入するため発生するもので、このころ周防灘や播磨灘では海上事故が起こりやすい。さらに夏の暑さの厳しい内海沿岸は海陸の温度差に起因する海陸風のよく発現する所で、海風と陸風の交替時の無風状態は朝凪(あさなぎ)・夕凪として知られる。
[三浦 肇]
瀬戸内海地方における人類居住の始まりは少なくとも旧石器時代にさかのぼり、内海中央の井島(いしま)、与島(よしま)、櫃石(ひついし)島や高松市国分台(こくぶだい)などでその遺跡が知られているが、そのころはまだ内海は広い陸地であった。岡山県の黄島(きじま)や香川県の小蔦(こつた)島には下層に淡水産の、上層に海水産の貝類を出土する縄文早期の貝塚遺跡が発見されているから、このころから内海時代の歴史が始まるのである。海面の高かった縄文時代は気候も温暖で、岡山平野周辺、松永湾岸、広島湾岸、山口県沿岸などには、縄文各期の狩猟や漁労生活を物語る遺跡が点々と分布し、坂出(さかいで)市金山(かなやま)のサヌカイトや大分県姫島の黒曜石(こくようせき)が石器材料として広く沿岸各地に運ばれ、内海水運を通じての文化圏の広がりを知ることができる。
紀元前3世紀ごろ、稲作を主とする弥生(やよい)文化が大陸からもたらされると、急速に北九州から瀬戸内を経て近畿、伊勢(いせ)湾岸に至る西日本一帯に伝播(でんぱ)、定着して、弥生前期に早くも北九州と畿内(きない)を中心とする二大文化圏が成立し、瀬戸内海はこの東西を結ぶ重要な回廊地帯となった。古墳時代にも、吉備(きび)や畿内の巨大古墳のなかには、その石棺材料として阿蘇(あそ)凝灰岩が北九州の産地から内海を経由して輸送されたものが数多くあることや、山口県熊毛(くまげ)半島の白鳥(しらとり)古墳、愛媛県高縄(たかなわ)半島の相ノ谷1号古墳、広島県松永湾岸の黒崎山古墳などその地域最大の前方後円墳が、内海航路の拠点に占地していることなどからみても、大和(やまと)政権による古代国家形成期に瀬戸内海が文化動脈として多彩な役割を果たしたことがうかがえる。古代の水運を担った人々は海人族(あまぞく)といわれ、これには宗像(むなかた)系と住吉(すみよし)系とあって、それぞれ北九州沿岸を本拠としてしだいに内海一帯に植民し、製塩、漁労、造船の技術に秀でていた。内海における製塩の歴史は古く、備讃諸島で発見された師楽(しらく)式土器を出土する古墳時代の製塩遺跡が有名で、同じような土器製塩は東は淡路島から西は山口県宇部沿岸に至るまで広く各地で行われていた。奈良時代に入って鉄釜(かま)製塩にかわり、塩浜の開発が進むと、弓削(ゆげ)島、塩飽島、因島(いんのしま)などのような中央の貴族・社寺による塩荘園(しょうえん)も現れてきた。
平安時代になると荘園の発達とともに内海水運による物資輸送が急増したが、やがて治安の乱れに乗じて海賊の出没する海となり、なかでも、東は摂津(せっつ)から西は大宰府(だざいふ)まで瀬戸内海全域を舞台とした藤原純友(すみとも)の反乱は中央政府に強い衝撃を与えた。平安末期、海賊の討伐に功のあった平氏は、しだいに内海各地の水軍を支配下に繰り入れ、その一門は畿内から九州に及ぶ西国一帯に知行(ちぎょう)国や多くの所領荘園を有して強大な勢力を培い、とくに武門出身最初の太政(だいじょう)大臣となった平清盛(きよもり)は、海外貿易を重視して大輪田泊(おおわだのとまり)を修築し、宋(そう)船の入港を図り、内海航路の整備を進め、海上交通の守護神である厳島(いつくしま)神社を厚く信仰した。しかし平氏一門の繁栄も長くはなく、源氏を中心とする東国武士団の追撃によって京都を追われ、瀬戸内海を舞台とする攻防戦を繰り返したが、熊野水軍や伊予河野(こうの)水軍の源氏への加担によって、1185年(文治1)長門(ながと)壇之浦において滅亡した。
鎌倉時代に入って承久(じょうきゅう)の乱や蒙古(もうこ)襲来のために西国の海路は一時社会的緊張を増したが、鎌倉幕府は西国地方の守護・地頭(じとう)に多く東国武士を任じて統制を強化したから、内海水運は荘園年貢や諸国物資の輸送によって活発となった。大量の宋銭や陶器類を出土した草戸(くさど)千軒町(広島県芦田(あしだ)川の河津)の遺跡が物語るように商品経済も発達して、兵庫、牛窓(うしまど)、鞆(とも)、尾道(おのみち)、柳井(やない)など港湾都市が栄えた。鎌倉末期から南北朝争乱の時代には、内海の土豪(どごう)武士たちの多くは南朝に属し、航路上の要所に築城して警固料(通行税)を取り立て、海賊衆ともよばれ、その一部は海外に出て倭寇(わこう)となった。室町幕府の足利義満(あしかがよしみつ)はこれら内海の海賊衆を制圧して日明(にちみん)間に勘合貿易を開いたが、讃岐(さぬき)の細川氏、播磨の赤松氏、周防の大内氏なども海外貿易に進出を試みた。とくに関門海峡を押さえる大内氏は室町末期から戦国時代にかけて村上水軍を警固衆として内海西半を制することにより日明貿易の主導権を握り、その城下山口は西の京都とよばれるほどの繁栄をみた。
1588年(天正16)豊臣(とよとみ)政権による厳しい刀狩令と海賊鎮圧令によってやがて内海海賊衆は姿を消し、封建体制下に組み込まれ、さらに江戸幕府は寛永(かんえい)の鎖国令によって海外渡航を禁じたが、各藩の産業開発の進展と相まって、画期的な内海水運時代を迎えるのである。山陽沿岸寄りの従来からの航路は「地乗り」と称して、公式の海駅として大坂に始まって兵庫、室津(むろつ)、牛窓、下津井(しもつい)、鞆、尾道、蒲刈(かまがり)、上関(かみのせき)、下関などには本陣、番所が設けられ、参勤交代の諸大名、朝鮮信使、琉球(りゅうきゅう)使節、長崎出島商人などがこの公路を利用した。一方、西廻航路(にしまわりこうろ)の開発によって、日本海沿岸の物資が下関を経由して大坂に集まるようになると、大型の北前船(きたまえぶね)の航行も盛んとなり、「沖乗り」航路に沿って、新しく木江(きのえ)や御手洗(みたらい)、鹿老渡(かろうと)など島嶼の港町が繁栄するようになった。また沿岸各地で次々と大規模な干拓地が造成されたが、とくに赤穂(あこう)地方に始まった入浜式塩田は急速に讃岐の坂出や周防の三田尻(みたじり)など各地方に伝播し、全国製塩の9割を占める瀬戸内十州塩田が成立した。これも、内海水運を中心とする西日本沿岸海運の発達によって、全国的市場の開発が進んだためである。
幕末・維新の変革期を経て、明治時代に入り、1901年(明治34)山陽鉄道が下関まで全通すると、内海水運の事情は大きく変貌(へんぼう)する。帆船は機帆船や大型汽船にかわり、風待ちや潮待ちの小港町は衰退して、下関や神戸、大阪が貿易港として発展し、国際航路もここに集まってきた。一方、産業の近代化が進み、阪神工業地帯の成長に伴い、倉敷や広島など各地に紡績業が始まり、呉(くれ)に海軍工廠(こうしょう)、神戸、玉野、因島に造船所、新居浜(にいはま)には銅精錬と化学工業、宇部には石炭産業と化学工業がおこり、北九州の製鉄業や筑豊(ちくほう)炭田の開発と相まって、瀬戸内海は西日本における産業運河としての機能をますます強めてきた。
[三浦 肇]
開発が古く、人口密度も高い瀬戸内地方は平地に乏しく、島嶼も多いので、狭い農地を集約的、多角的に利用してきた。近世以来、米、麦、サツマイモのほか、讃岐のサトウキビ、備前(びぜん)の綿、備中(びっちゅう)の菜種(なたね)、備後の藺草(いぐさ)など多種類の商品作物がつくられた。現在も、雨の少ない讃岐平野や岡山平野では溜池(ためいけ)や農業用水路網が整備され、良質の讃岐米・備前米の産地となり、岡山平野北部の丘陵地一帯は白桃やマスカットの全国的な果樹地域を形成しているし、また島嶼農業も多彩であり、淡路島、真鍋(まなべ)島、向(むかい)島、能美(のうみ)島は花卉(かき)栽培、生口(いくち)島、因島、大崎上(おおさきかみ)島、大崎下(しも)島、倉橋(くらはし)島、周防大島はミカンやネーブルなどの柑橘(かんきつ)栽培に特色がある。また淡路島は和牛飼育、酪農の先進地として知られる。
内海の水産業は、海面は狭いが、灘や瀬戸の配置、複雑な海岸地形、潮流などの海況によって魚種が多く、漁法も多様である。漁獲量も少なくはないが、沿岸や島嶼には早くから漁村が発達し、漁家1戸当りの漁獲は全国平均の4分の1程度で、小規模な零細沿岸漁業が主となっている。漁法では小型底引網、一本釣り、刺網(さしあみ)、延縄(はえなわ)、船引網、たこ壺(つぼ)などが盛んで、エビ、イワシ、アジ、タイ、カレイ、ナマコ、タコの漁獲が多い。全国総漁獲量のなかに占める割合は4%程度である。とくに近年は埋立地の造成によって、魚類の産卵場である内湾が各地で失われ、乱獲や工場・都市排水の影響による海水汚染や赤潮の発生のために魚類は減少傾向にあり、養殖・栽培漁業への転換が図られつつある。すでに江戸時代から知られた広島湾の養殖カキは全国一の生産をあげており、香川県東かがわ市のハマチ養殖、山口県秋穂(あいお)湾のクルマエビの養殖などが知られている。
瀬戸内では江戸時代から山陽沿岸の綿作地帯を控えて、農村工業ともいうべき綿織物の生産が盛んであったが、明治時代に入って早くも岡山、倉敷、福山、広島などに紡績工場の設置をみた。大正時代以降、宇部の海底炭田や別子(べっし)銅山など鉱産開発に伴って、宇部、小野田や新居浜に機械・化学工業がおこり、製塩地に近い徳山や宇部に原料(塩)指向型のソーダ工業、三原、松山、岩国、防府(ほうふ)には用水型の化学繊維工業が立地し、玉野、因島、尾道には造船工業が進出して、各地に分散的に工業都市が成立したが、まだまとまった瀬戸内工業地域として展開をみるまでには至らなかった。第二次世界大戦後は、旧軍用地の転用や大規模な埋立地造成によって、各地で先進的な鉄鋼、石油化学を中心に臨海型の重化学工業化が急速に進展した。主要なものは水島、岩国、徳山、小野田、松山の石油化学コンビナート、広畑、水島、福山、呉の鉄鋼業、広島、防府や水島の自動車工業などで、瀬戸内工業地域の生産は全国の約10%を占めるが、全国的にみても、大規模で高能率の工場が多いことが特色である。
[三浦 肇]
古代から大陸、北九州と畿内を結んで、頻繁に文物の往来した瀬戸内地方は、歴史的な古俗を伝える伝統行事や習俗が多く残され、文化財の宝庫であるともいわれている。
古代海人族の習俗を伝える「家船(えぶね)」は現在はほとんど姿を消したが、近年までは家族が乗り込んで漁船を住居とし、内海各地を漂泊しながら漁労し、一本釣り、延縄、打瀬(うたせ)網などの漁獲物をその妻女が売って歩いた。その親村は広島県三原瀬戸の能地(のうじ)や吉和(よしわ)、二窓(ふたまど)で、各地に定着して枝(えだ)村をつくり、東は小豆島や牛窓から西は山口県宇部までの間に100漁村にも及ぶという。家船の妻女が寄港した町々では、魚を「はんぼう」という桶(おけ)で頭上運搬して行商した姿が第二次世界大戦前までみられた。この頭上運搬の習俗はイタダキともカベリともいい、傾斜地の多い島嶼でもみられ、備讃諸島の男木(おぎ)島、女木(めぎ)島、佐柳(さなぎ)島、高見島などにも残っている。
人口密度の高い内海の島では、すでに江戸時代後期から出稼ぎが行われ、広島県の田島や山口県の祝(いわい)島、長島では九州五島(ごとう)まで出かけて鯨組舸子(くじらぐみかこ)として出稼ぎ、塩飽諸島や因島の船大工、愛媛県越智(おち)郡の石工、伊予大島や祝島の酒造杜氏(とうじ)、愛媛県野忽那(のぐつな)島や睦月(むづき)島では行商人が本土各地に出かけており、島民の移動性と開放性に富む生活には注目すべきものがある。島の若い女性が阪神地方の都市へ出て女中奉公する風習も、東は小豆島から西は山口県上関付近の島々まで広く第二次世界大戦前まで続いていた。また海外移民も多く、山口県周防大島は明治以降ハワイやアメリカ移民の母村として有名である。
年中行事の祭礼、神事のなかにも内海らしい特色のあるものが多い。下関市長府(ちょうふ)の忌宮(いみのみや)神社の夏祭「数方庭(すほうでい)」、長門一宮(いちのみや)住吉神社の旧暦元旦(がんたん)の秘事「和布刈祭(めかりさい)」、防府市周防一宮玉祖(たまのおや)神社の呪術(じゅじゅつ)的儀礼「占手(うらての)神事」(占手相撲(ずもう))、愛媛県今治(いまばり)市大三島大山祇(おおやまづみ)神社のお田植祭に田の神を相手に行う「一人相撲」、岡山県吉備津(きびつ)神社の「釜鳴(かまなり)神事」などは、古代にさかのぼる民族の古俗を伝えるものとして貴重である。
華やかな海の祭典としては、日本三景の一つ安芸(あき)の宮島厳島神社の管絃祭(かんげんさい)が有名で、船上に鳳輦(ほうれん)を載せ、雅楽を奏しながら数多くの供船(ともぶね)を従えて、対岸の地御前(じごぜん)神社まで海峡を往復するもので、王朝絵巻の再現といってよい。同じ平家ゆかりの下関市の安徳(あんとく)天皇を祀(まつ)る赤間神宮の先帝祭(せんていさい)は、壇ノ浦の戦いの旧暦4月23日の忌日に行われ、上﨟(じょうろう)参拝のある異色の祭礼である。
伊予水軍にちなむ愛媛県松山市の鹿島(かしま)祭の船踊り「カイネリ(櫂練り)」は「カイデンマ(櫂伝馬)」ともいう。同じような伝馬船競漕(てんませんきょうそう)は因島箱崎、大崎上島、蒲刈島などでもみられる。海上守護神として知られる讃岐の金刀比羅宮(ことひらぐう)はお伊勢参りと並んで、江戸時代に全国的な信仰を集めた。金毘羅(こんぴら)街道に沿って「こんぴら道」の道標や灯籠(とうろう)が残り、現在でも年間400万の観光客が参詣(さんけい)する。また、岡山県西大(さいだい)寺観音(かんのん)院の「会陽(えよう)」は、2本の神木を奪い合う裸祭として知られる春の祭礼であるが、厳島神社の玉取祭も、海中で若衆が宝珠を奪い合う夏の裸祭である。四国八十八か所を巡る遍路の旅は聖地巡礼の民間信仰で、これを略式化した島四国八十八か所が各地にあり、淡路島、小豆島、伊予大島、周防大島、山口県秋穂半島などそれぞれ特色があり、瀬戸内の春らしい信仰行事である。
なお、瀬戸内地方は新しい交通革命に対応して、本州四国連絡橋が3ルート計画され、1988年には児島―坂出(さかいで)ルートが、1998年(平成10)に神戸―鳴門ルート、1999年に尾道―今治ルートが全通した。
[三浦 肇]
『中国新聞社編・刊『瀬戸内海』上下(1960)』▽『福尾猛一郎編『内海産業と水運の史的研究』(1966・吉川弘文館)』▽『谷口澄夫他著『瀬戸内の風土と歴史』(1978・山川出版社)』▽『岩波書店編集部編『瀬戸内海――空からみた』(1990・岩波書店)』▽『緑川洋一・岡谷公二・古茂田不二著『とんぼの本 瀬戸内海 島めぐり』(1991・新潮社)』▽『宮本常一著『瀬戸内海の研究 島嶼の開発とその社会形成――海人の定住を中心に』(1992・未来社)』▽『森田敏隆写真『瀬戸内海国立公園』(1993・毎日新聞社)』▽『須磨海浜水族園編『せとうち百魚百話――瀬戸内海のゆかいな魚達』(1994・神戸新聞総合出版センター)』▽『進藤松司著『瀬戸内海西部の漁と暮らし』(1994・平凡社)』▽『松原弘宣編『瀬戸内海地域における交流の展開』(1995・名著出版)』▽『松原弘宣著『古代国家と瀬戸内海交通』(2004・吉川弘文館)』▽『石野博信編『古代の『海の道』――古代瀬戸内海の国際交流』(1996・学生社)』▽『岡市友利・小森星児・中西弘編『瀬戸内海の生物資源と環境――その将来のために』(1996・恒星社厚生閣)』▽『中国新聞「瀬戸内海を歩く」取材班著『瀬戸内海を歩く』上下(1998・中国新聞社)』▽『柳哲雄編著、合田健監修『瀬戸内海の自然と環境』(1998・神戸新聞総合出版センター)』▽『山内譲著『中世瀬戸内海地域史の研究』(1998・法政大学出版局)』▽『白幡洋三郎編著、合田健監修、瀬戸内海環境保全協会企画・編集『瀬戸内海の文化と環境』(1999・神戸新聞総合出版センター)』▽『室山敏昭・藤原与一編『瀬戸内海圏 環境言語学』(1999・武蔵野書院)』▽『環瀬戸内海会議編『住民がみた瀬戸内海――海をわれらの手に』(2000・技術と人間)』▽『地方史研究協議会編『海と風土――瀬戸内海地域の生活と交流』(2002・雄山閣)』▽『大林宣彦著『ぼくの瀬戸内海案内』(2002・岩波ジュニア新書)』▽『西田正憲著『瀬戸内海の発見――意味の風景から視覚の風景へ』(中公新書)』
本州,四国,九州に囲まれた日本最大の内海。北部一帯の中国山地,中国高原,冠山山地,西部の九州火山地域および九州山地,南部の四国山地,南東部の紀伊山地に囲まれた西日本内帯に属する陥没地帯である。一般的には友ヶ島水道(紀淡海峡),鳴門海峡,豊予海峡,関門海峡の4海峡(瀬戸)によって外海と隔てられた内海を指し,この範囲での島(満潮時の周囲0.1km以上)の数は約700(うち有人島は約150)である。瀬戸内海環境保全特別措置法では,南は和歌山県日ノ御埼(ひのみさき)~徳島県蒲生田(かもだ)岬を結ぶ線,愛媛県高茂岬(こうもざき)~大分県鶴御崎(つるみさき)を結ぶ線,北は山口県火ノ山下灯台~福岡県門司崎灯台を結ぶ線と陸地とによって囲まれた,紀伊水道,大阪湾,播磨灘,備讃瀬戸,備後灘,燧(ひうち)灘,芸予海峡,安芸灘,広島湾,伊予灘,周防灘,別府湾,豊後(ぶんご)水道の水域および外海の響(ひびき)灘の一部を含めている。東西の長さは大阪湾~関門海峡間で450km,南北の幅は20~55km。面積約2万km2はオンタリオ湖(北アメリカ)やバルハシ湖(中央アジア)に近似する。
内海には備讃,芸予,防予(ほうよ)の各諸島などの島嶼(とうしよ)が主として北部に多く分布し,島嶼群の間には灘とよばれるやや広い海域があり,良い漁場をなす。島は狭小な面積に比較して標高200~300mの山岳性をなすが,山頂近くまでミカン畑として耕されているところが多く,香川県側に溶岩台地がみられるほかは主として花コウ岩からなり,小豆(しようど)島,倉橋島などで石材として切り出されている。最高峰は小豆島の星ヶ城山で817m。
気候は瀬戸内式気候を示して,年降水量は1000~1600mmと日本では少なく,とくに北四国では水不足に悩み,古くから満濃(まんのう)池など溜池利用が盛んである。内海では水運と産業が深くかかわり,山陽地方,北四国地方はともに早くから産業・文化が発達した先進地域であった。水運の最盛期であった近世以降,沿岸平野部では自然条件に適したイグサ,ワタ,サトウキビなどの商品作物およびその加工産業が発達した。明治以降,ワタ,サトウキビは輸入品に押されてしだいに衰えたが,イグサはその後も岡山県で発展し,最盛期(1964)には全国の生産高の半分を占めた。ほかに広島県でミカン,岡山県でモモ,ブドウ,小豆島でオリーブ,淡路島で花卉,タマネギなどの作物の栽培が盛んとなり,それぞれ特産地をなしてきた。また岡山県南部,児島湾の干拓新田である藤田村,興除(こうじよ)村(ともに現,岡山市)は,第2次大戦前から機械化による先進的農業経営が行われてきたところとして知られる。高度経済成長期以降,多くの資金や労働力を必要とする果樹やイグサの栽培は,より安価な山梨,福島(モモ)や熊本(イグサ)などへと主産地が移動する傾向がある。一方,雨の少ないことに加えて干満の差が2~4mと大きく,干潟ができやすいため,近世には播州赤穂(あこう)をはじめとして入浜式の塩田が発達し,藩の奨励,水運の便のよさもあって日本最大の塩の産地となった。塩田は明治以降も続けられていたが,1970年代に製塩法がイオン交換膜法に転換されて姿を消し,工場用地などとなった。
瀬戸内海は明治以降も,九州から阪神工業地帯などへの石炭,および沿岸や島々の産物の輸送に頻繁に利用され,産業運河的性格が強まった。近代工業は,岡山・広島両県などで近世からの綿工業をうけつぐ紡績業,広島県で海軍工厰設立を契機とする造船および機械工業,山口県などでセメント,化学工業などがおこった。第2次大戦後,とくに高度経済成長期には石油化学工業など重化学工業が急成長して瀬戸内工業地域に発展した。沿岸には特定重要港湾が7港(大阪,堺泉北,神戸,姫路,徳山下松(くだまつ),下関,北九州)と重要港湾が28港(水島,高松,福山,広島,呉,松山,大分,苅田など)あり,年間約4万隻(1982)の外航商船が入港し,全国の4割以上を占めている。北部の複雑な海域を避けて,主として単調な南部に外航商船など大型船の推薦航路があるが,全国旅客船航路の6割が内海に集中するほか,備讃瀬戸一帯でも5000隻の出漁船があり,本土~島,島~島の連絡船,各種内航貨物船,阪神~四国・九州の大型フェリーなどで錯綜している。春先から初夏にかけては,濃霧が多いことも海上交通事故の原因となっている。1960年代から本州四国連絡橋の計画が本格化し,明石~鳴門,児島~坂出,尾道~今治(いまばり)の3ルートのうち,児島~坂出ルート(瀬戸大橋)が88年,明石~鳴門ルートが98年,尾道~今治ルートが99年に開通した。
瀬戸内海では17世紀半ばに西廻海運が整えられるまでは,山陽沿岸を通る地乗り航路が中心で,物資の交易,潮待ち,風待ちのため下関,尾道,鞆(とも),笠岡,下津井,牛窓などの港町が栄えた。それ以降は島嶼部を縫う沖乗り航路が主となり,木江(きのえ)(大崎上島),御手洗(みたらい)(大崎下島),鹿老渡(かろうと)(倉橋島)などの港町が発達した。明治以降は鉄道の発達によって沿岸航路が廃止されたところもあり,大型の汽船が普及してからは小規模な港町の多くは衰退した。第2次大戦前までは沿岸独特の習俗として,家族が単位となって船上で生活のいっさいをまかなう家船(えぶね)が,現在の広島県尾道市因島土生町箱崎区,三原市能地(のうじ)などを根拠地として内海各地で多くみられた。また大陸伝来のものと考えられる独特の石ぶろ(蒸ぶろの一種)が,古くから沿岸西部,とくに山口県で多くつくられ,住民の医療目的を兼ねたいこいの場となっていたと思われる。家船や石ぶろの習俗は,戦後,生活様式の変化などによってほとんど見られなくなった。
1934年多島海域が日本唯一の内海式海岸風景を代表するところとして瀬戸内海国立公園に指定され,現在その範囲は大阪府を除く沿岸10県に及んでいる。しかし瀬戸内工業地域の発展に伴って人工海岸化が著しく,赤潮や油などの公害,漁業不振などの問題が起こってきた。1973年に瀬戸内海環境保全特別措置法が公布されて排水規制や自然海浜の保護などが行われ,地域住民による環境浄化や入浜権要求の運動なども高まっている。
執筆者:東 皓傳
海岸線が現在のように定まったのは,近々2500年前のことで,まず中新世中期の初め(約1500万年前)の大海進により,現在の西日本に古瀬戸内が出現した。その後海進と海退を繰り返し,約8000年前に,四国と九州が本州から切り離されて,現在の瀬戸内海の原型が誕生した(図)。約5000年前の縄文海進のときには海面は現在よりも約6m高かった。約600の河川から1日当り,年平均値として約2500万tの淡水が流入しているために,太平洋などとくらべて海水の塩分量が低く,28.5~33.5‰の範囲にあり,とくに降雨期に最低となる。表面水温は,2月には約7.5℃まで低下するが,夏には28℃まで上昇し,環境変動が比較的大きい。潮流は,おもに豊後水道と紀伊水道から進入し,双方から進入した潮流は備讃瀬戸西部で会合する。瀬戸内海と外洋とをへだてる各海峡を通過する最大流量の百分率は,豊後水道83.7%,友ヶ島水道12.2%,鳴門海峡3.3%,関門海峡0.8%で,豊後水道からの流量が最も大きい。瀬戸内海の海水の90%が外洋水に交換するのは約2年を要するとされているが,豊後水道から紀伊水道へ抜けるような一つの恒流の存在は測定されておらず,隣接した海域と海水を交換しながら,灘や瀬戸がそれぞれに特有な恒流を有している。
動物種約3000種,植物種約5000種が生息しており,魚介類は600種以上が見いだされ,そのうち約100種が漁業の対象になっている。年間の漁獲高は40万t前後で,そのうち20%またはそれ以上がカタクチイワシである。イカナゴ,アサリがそれぞれ5~6%で,スズキ,サワラ,タイなどの漁獲は1%以下である。内海固有種としてはイカナゴ,コノシロ,カレイ類,クロダイ,マダイ,スズキなどの魚類やコウイカ,ガザミ,エビ類などがある。栽培漁業も盛んで,カキ養殖は広島湾を中心に全国生産高の65%を,ブリ(ハマチ)養殖は愛媛県,香川県などで全国生産高の1/3を占めている。このほか,ノリ養殖は兵庫県で,クルマエビ養殖は山口県で活発に行われている。このような漁業・養殖業が発展する一方,沿岸の工業開発,住宅地化による海の富栄養化が進行して,赤潮が頻発するようになり,1972年には,シャトネラ・アンティーカChattonella antiquaの赤潮が播磨灘一帯で発生し,1400万尾の養殖ブリが死亡し,71億円の被害を生じた。80年ごろから赤潮はやや減少し,年間約200件程度の発生に落ち着いている。
執筆者:岡市 友利
瀬戸内海は縄文・弥生時代において北九州と畿内を結ぶ政治・文化の交通に重要な役割を果たしていたと思われるが,大和政権が国内を統一し,対外交渉を行っていく4世紀段階になると,さらにその重要性を増した。内海地域の政治勢力の中心の一つは吉備(きび)であり,その勢力は備前,備中,備後,美作(みまさか)や小豆島をはじめとする内海の島々におよび,海上交通の拠点を押さえていた。吉備は大和政権に早くから服属し,積極的に朝鮮経営に参加した。吉備海部直は,友ヶ島水道を中心とした紀氏とともに,水軍を率いて朝鮮半島に派遣された。古代の漁労,塩生産,海上交通にたずさわった海人(あま)は大和政権によって海部(あまべ)として編成されたが,この海部が内海地域にも分布していた。6世紀後半になると,児島屯倉(みやけ)(現,岡山市)など沿岸の拠点に大和政権の直接支配のくさびが打ち込まれ,また6世紀以降の外国使節送迎の公式のルートとして内海地域の整備が行われるようになった。律令制下,北九州の大宰府と京とを結ぶ陸路の山陽道が全国唯一の大路(駅ごとに20匹の駅馬を置く)とされたが,難波津から海路での遣唐使・遣新羅使の派遣なども行われた。播磨以東には河尻,大輪田,魚住,韓,檉生(むろう)の五泊とよばれる1日行程の停泊地が設けられた。9世紀になると,山陽道諸国の新任国司まで海路での赴任が定められ,また官米などの物資の輸送にも海路のほうが安価なため,海上交通の重要度が増した。荘園制の発展とともに荘園の年貢を輸送するための港湾施設が発達し,京への物資の集積地として難波津や大輪田泊(おおわだのとまり)などに多くの荘園の倉庫が設けられ,梶取などの海上輸送業者が現れた。
平安時代初期から官米輸送船を襲う海賊が横行するようになり,さらに10世紀中ごろには藤原純友を首領とし,内海沿岸の地方豪族に率いられた海賊の反乱(藤原純友の乱)が起こっている。伊予国の日振(ひぶり)島を本拠とし,純友麾下(きか)の海賊船は1500艘といわれた。純友は朝廷派遣の追捕使(ついぶし)によって鎮圧されたが,実際に活躍したのは内海の地方豪族であり,彼らは海上を統制する力をもつ西国武士へと成長していった。
執筆者:大沢 正敏
瀬戸内海に成長した在地勢力は平氏政権の基盤をなしたが,平清盛の熱烈な厳島神社信仰や内海への宋船導入により,瀬戸内海は歴史の表舞台に登場した。ここを主戦場とした源平争乱の末,1185年(文治1)壇ノ浦で平氏が滅亡すると,平氏与党の武士たちは所領を没収され,源頼朝は東国御家人を守護・地頭に任命して要衝を掌握し,伊予国を関東御分国とした。しかし東国御家人にとって,経済活動が活発で文化の進んだ西国の新しい環境に順応して支配を確立することは容易でなく,承久の乱(1221)において京方に参じた御家人は少なくなかった。もっとも承久の乱では,当地域の生え抜きの武士で旧勢挽回(ばんかい)を計って京方として没落した者が多く,当地域に消え難い傷跡を残した。
瀬戸内の水運は年貢輸送の上に,宋銭の流入による代銭納の成立に伴う商品輸送も加わり,各地に港町が発達し商業が活況をみせたため,商業,水運などの旺盛な営利活動を幅広く行う富裕な階層が台頭した。彼らは船持や水手(かこ)を従え航海術に長ずるとともに,自衛力をも備え,また荘園領主の求めに応じて年貢を先納して代りに現地年貢の徴収に当たったり,莫大な任料を納めて預所(あずかりどころ)代官として荘園の支配を行ったりした。彼らの間では相互の競争が激しく,競争相手の失脚をねらう行動はしばしば荘民を巻添えにした。このような者たちは悪党と呼ばれたが,瀬戸内では特に繁栄した港町を襲撃する悪党が多かった。この時期の海賊も悪党と近いが,その背後には海をおもな生活舞台とする海民があった。鎌倉期で海賊の動きが目立ってくるのは1240年代からで,幕府はその取締りを繰り返し命ずるが,本格的な対応策がとられるのはモンゴル襲来のころ,特に異国征伐の準備を進めた際である。ついで14世紀初めには山陽・南海道諸国の地頭御家人の海上警固が恒常化され,さらに1319年(元応1)にはこれらの国々に国ごとに警固役所を設けて地頭御家人らを結番警固にあて,国ごとに両使(2人の使い)をもって指揮に当たらせた。こうした取締り強化そのものが取締りの困難を物語るものであった。
元弘の乱(1331)で鎌倉幕府の瀬戸内海支配体制も瓦解した。この乱に際し伊予河野氏庶家の得能(とくのう)・土居両氏らは忽那(くつな)氏や大三島(おおみしま)の祝(はふり)氏らと結んで宮方の軍を起こし,来襲した長門探題北条時直を星ヶ岡(現,松山市)で破り,その没落を決定的にした。建武の新政府に背いた足利尊氏が西走ののち九州から海陸両道を攻め上った際には,鞆(とも)(現,福山市)で合流した四国の細川・河野両氏をはじめ,瀬戸内の目ぼしい諸豪族はこれに加わった。しかしこれに続く南北朝内乱の前半期には瀬戸内の各地に南朝方の勢力が盛んで,ことに海上勢力はむしろ南朝方が優勢であった。阿波の伊島や淡路の沼島に拠った安宅(あたぎ)/(あたか)氏,阿波の舞子島,野々島の四宮氏,小豆島の飽浦(あくら)氏,佐々木氏,塩飽(しわく)諸島の塩飽氏,伊予の能島(のしま),来島(くるしま)と備後因島(いんのしま)の三島村上氏,伊予の忽那七島の忽那氏などは南朝方海上勢力であった。なかでも征西将軍宮懐良(かねよし)親王の九州下向に当たり,忽那義範は1339年(延元4・暦応2)これを忽那本島の館に迎え,その3ヵ年の滞在中,伊予の南軍の勢いは大いに振るった。しかし,やがてまず四国東部は武家方の細川氏が制し,中国路においても63年(正平18・貞治2)ころから大内弘世や山名時氏が幕府方に降って南朝勢力は急速に衰え,最後まで細川氏に対抗した伊予の河野氏もやがて幕府に降り,瀬戸内の南北朝内乱は終りを告げた。将軍足利義満は89年(元中6・康応1)3月,厳島参詣の名目で諸大名を従えて西下し内海遊覧の旅を行ったが,これは瀬戸内の海上勢力が幕府に制圧されたことを象徴するできごとであった。
幕府による制圧にもかかわらず,海上勢力はその勢力を温存したままであった。彼らは室町幕府治下では,それぞれ一定の海域について海上警固権を保持し,その警固の反対給付として当該海域での警固料徴収権を行使した。その面から彼らは警固衆とも呼ばれた。彼らは航行船舶にその配下を乗りこませたり,要衝の地に関所を設けたりして警固料を徴収し,これに応じない場合は乱暴を働くので恐れられた。これら海上勢力と幕府との関係に注目すると,一部は守護体制の枠内でとらえられていたが,守護体制の枠外にあって将軍直参(じきさん)として公方(くぼう)奉公の形をとったものもあった。鎌倉後期から大陸沿岸を荒らした倭寇には瀬戸内の海上勢力も含まれていた。南北朝期に倭寇の禁圧と引きかえに貿易の利をおさめる政策がとられ,ついで義満の勘合貿易開始以後倭寇は減少したが,以後も瀬戸内住民の倭寇は跡を絶たなかった。しかし大勢は朝鮮との平和な貿易や,対明勘合貿易への参加の形となった。対明貿易への参加としては,渡航船の傭用・艤装(出船準備),船頭,水手,警固ないし客商,従商としての乗組み,進貢品の調達などその部面は少なくなかった。対朝鮮貿易者には内海各地の港湾の太守・代官や,海賊大将軍を名のった者が朝鮮側の記録に見える。対明貿易の二大根拠地堺と博多は,内海を二分する形で勢力を張り,勘合貿易の実権を争った細川氏と大内氏のそれぞれ配下にあった。
戦国時代,権力の集中が進行する中で海賊衆も去就を決せざるをえなくなり,1555年(弘治1)の厳島の戦に三島村上氏は毛利氏にみかたし,屋代島以下の島嶼を給与されて毛利氏水軍の色彩を強め,71年(元亀2)能島村上氏が毛利氏に背くと毛利氏は能島を攻撃してこれを破り,82年(天正10)来島氏が織田信長の誘いに応ずると,村上氏は毛利方の能島,因島と信長方の来島とに分裂した。塩飽海賊も三好氏が細川氏の実権を握るとその水軍に編成され,さらに信長の進出につれて,その水軍として軍用物資輸送などに活躍し,豊臣秀吉も塩飽島民を御用船方に任じ,塩飽全島を領知させてその功に報いた(人名(にんみよう)制)。統一政権下での海賊衆の末路はまちまちであるが,88年秀吉は海賊鎮圧令を発し,長く保持した固有の支配権は否定されていった。
執筆者:松岡 久人
近世の瀬戸内海は,〈天下の台所〉大坂と全国とを結ぶ大動脈の役割を果たした。そして海運の盛大化は内海沿岸・島嶼の経済活動に大きな刺激を与え,社会・経済・文化などの面で特色ある歴史が展開された。近世初期の内海航路は,中国沿岸よりのいわゆる地乗り航路が発達したが,1672年(寛文12)ころ西廻海運が整備されてから,北海道や日本海沿岸の物資を運ぶ千石船が出現し,航路も下関から大坂への最短距離の内海中央部をとるようになった。そのため,これまでの沿岸航路と違って沖乗り航路が発達し,この航路に当たる島々には,安芸国大崎下島の御手洗や倉橋島の鹿老渡など風待ち,潮待ちの港町が出現した。一方,沿岸平野部や諸河川の三角州地帯では,遠浅の海岸や内湾を利用して大規模な新田開発が大名権力や町人の力によって進められた。これらの新開地にはワタ,イグサ,ナタネ,アイ,サツマイモなどの商品作物が栽培され,木綿織,畳表,絞油業,製糖業などの農村工業の発展をもたらした。これら内海地域の諸商品は,海運によって他地方へ移出されたが,一方,肥料として干鰯(ほしか),油粕などがもたらされ,ワタなど商品作物の栽培が一段と進展した。また,海運の発展と商品流通の盛大化は,下関,尾道など中継的問屋商業を特色とする港町の繁栄をもたらした。
近世の内海を特色づけるものとして塩田の開発がある。17世紀の半ば播州赤穂にはじまる入浜式製塩技術は,瀬戸内十州全域に伝播し,最盛期にはいわゆる十州塩田で全国生産の90%を占めるにいたる。そして,18世紀の末からの塩田における石炭焚きの普及は,石炭産業の発展とともに,石炭輸送のための廻船業,さらに造船業の発達をうながした。漁業においても釣漁のほか各種の網が考案されて漁獲量は増大し,それらは干物として,あるいは生魚のまま大坂・堺方面にも送られた。広島湾の干潟では近世初期から篊(ひび)立てのカキの養殖が始められ,中期には大坂方面に市場が開拓されている。西廻海運の寄航地御手洗が,幕末期に芸薩交易の拠点となり,また1867年(慶応3)11月26日同所における長州・芸州間の倒幕の密約(御手洗条約)締結など,幕末・維新期の政治動向も,内海を舞台とする交易関係の進展と深くかかわっていたのである。
執筆者:渡辺 則文
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本州・四国・九州に囲まれた内海。古代から重要な水運・外交使節のルートとして,国内や東アジアの歴史の局面で重要な役割を担った。古代・中世にはおびただしい数の海民が盤踞(ばんきょ)し,水軍・海賊と称された彼らは瀬戸内海の海上権を握り,年貢輸送など荘園経済の死活を制した。同時に政治的にも,藤原純友の乱や源平の争乱,南北朝内乱期の足利尊氏の東上などにみられるように,歴史の局面をしばしば左右した。近世に入ると,複雑な地形・航路を克服する沖乗り航路が開発され,九州・日本海側と大坂市場を結ぶ大動脈となり,全国市場の形成に寄与した。また塩の生産地として,経済的に重要な役割をはたした。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
…海上交通の拠点となる沿岸島嶼に跋扈(ばつこ)し,荘園年貢などを輸送する船の警護役を務めて駄別料を取り立てたり,関所を設けて通行税を徴収したりするほか,ときには往来の船を襲って積荷を略奪するなど乱暴を働いた。瀬戸内海から九州地方にかけての海賊衆は,みずから朝鮮貿易に参加することもあり,また倭寇として朝鮮,中国沿岸を荒らし,人々から恐れられる存在であった。このような海賊衆は漁業経営とも密着した在地性の強い集団で,その配下として多数の漁民を従え,彼らにも武装させていた。…
※「瀬戸内海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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