小人町(読み)こびとまち

日本歴史地名大系 「小人町」の解説

小人町
こびとまち

[現在地名]出石町小人

やなぎ町の南、出石川の右岸、同川とはす池・しろ山の間を占める町人町。端町で庄屋は川原かわら町庄屋が兼帯し、武家も混住していた。出石封内明細帳、文化七年(一八一〇)の城下絵図などによると、竪町は柳町南端のしん橋の構口から南下して山椒畑さんしようばたに至る南北路の両側町で、道の長さ二町四六間・幅平均七尺。西側には武家屋敷、東側には町家が多い。この道を出石川に沿ってさらに南下すると日野辺ひのべ村に通じた。


小人町
こびとちよう

[現在地名]弘前市小人町

城の東北に位置し、若党わかどう町の北側にあって座頭ざとう(現小人町)に隣接する。

正保三年(一六四六)津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)には、現在の若党町・小人町・笹森ささもり町もすべて小人町とされるが、これは身分上の町割で、町名ではない。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)では、若党町(当時は御徒町)の一部を含めて小人町を形成し、かつ八幡町下町御小人はちまんまちしものまちおこびと(現笹森町)座頭町下町御小人ざとうまちしものまちおこびと(現長坂町)・くろうず町下町御小人まちしものまちおこびと(現蔵主町)があり、小人が城の東北地域へ集住していた。


小人町
こびとまち

[現在地名]丸岡町ほん

丸岡城の北西、外堀外を南北に走る丸岡街道沿いの町。通り北端で東に屈折した通りに面してあら町がある。慶長一八年(一六一三)丸岡城下図に「小人町」とみえ、寛永年間(一六二四―四四)と推定される丸岡町絵図(佐久見家文書)には「御小人町」と記され、家数四三。元禄九年(一六九六)以前の円陵輿地略図によると、町の南に鉄砲場があった。また天保七年(一八三六)八月の同略図では家数五三で、町の西の外れに東得とうとく寺を記す。明治五年(一八七二)調査によると家数は五三で、卒族三、魚商五、木綿糸挽商三、菓子果物商三、荒物商二、古道具商二などがあった。


小人町
こびとちよう

[現在地名]盛岡市神明町しんめいちようなか橋通はしどおり一丁目など

葺手ふくで町の東にあたり、遠曲輪の堀を隔てた南北一町半ほどの東の片側町(「盛岡砂子」など)。東は志家しけ村の田地を隔てて山王さんのう山に対し、南詰に生姜しようが町の自光じこう屋敷と神明社があり、北は遠曲輪東際の道に接する。かつては御柄道具おえどうぐ丁と称し、一説には元文五年(一七四〇)三月に御柄道具間の者の新規召抱えがあったという(同書)。元文城下図には、自光坊の屋敷の北に「柄道具間の者」として一二軒の屋敷が記される。宝暦一四年(一七六四)三月には、柄道具(得道具)間の者の新規召抱えについての布達が御得道具頭の坂牛新五左衛門に出されている(御家被仰出)


小人町
こびとまち

[現在地名]角館町小人町

内町の一つで、南は火除け、東は勝楽かつらく町、西は檜木内ひのきない川から取水したうち川、北は歩行かち町とおもて町の屋敷に突き当る。歩行衆や仲間が多く住み、のちに侍屋敷もできた。享保年間(一七一六―三六)の角館町町割図(角館町立図書館蔵)には御小人おこびと町とあり、通称した町で、家数三一軒、うち二軒の空屋敷があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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