高松城跡〈岡山県〉(読み)たかまつじょうあと

国指定史跡ガイド 「高松城跡〈岡山県〉」の解説

たかまつじょうあと【高松城跡〈岡山県〉】


岡山県岡山市北区高松にある城跡。指定名称は「高松城跡 附水攻築堤跡(つけたりみずぜめちくていあと)」。備中(びっちゅう)高松城ともいう。岡山平野の低湿地帯に位置し、この沼地が天然の堀を形成しており、石垣は築かれず土塁によって築城されていた。1582年(天正10)、羽柴秀吉は織田信長が指示する中国攻めの先がけとして高松城攻めにかかり、軍師黒田孝高(よしたか)(如水(じょすい))の提案にもとづき12日間の突貫工事で城を囲む堤防を完成させて足守(あしもり)川の水を引き入れ、清水宗治(むねはる)が守る城を水没させた(高松城水攻め)。その最中、明智光秀本能寺の変で織田信長を自刃させ、毛利軍への密使を送ったが、密使は秀吉軍に拘束され、秀吉は信長の死を秘密にして毛利方の安国寺恵瓊(えけい)を仲介役に和議を成立させ、宗治は城兵の命と引き替えに切腹した。現在は秀吉が築いた堰堤(えんてい)や、城の石積みがわずかに残るだけで痕跡はほとんど残っていない。城跡には宗治自刃の跡、宗治首塚・胴塚があり、堰堤跡は発掘調査によって土杭などが確認され、城跡と堰堤跡が1929年(昭和4)に国の史跡に指定された。JR吉備線備中高松駅から徒歩約12分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報