〈京都・山城寺院神社大事典〉
応永二二年(一四一五)日隆が
この頃日隆は本勝迹劣の宗義を説き本門法華宗を興して、北陸・畿内・瀬戸内一帯を伝道し、
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京都市中京区にある法華宗(本門流)の本山。妙顕寺から分かれた日隆が1415年(応永22)油小路高辻と五条坊門の間(現,下京区)に開創,29年(永享1)内野(うちの)に再建。当初〈本応寺〉と書き,のち本能寺に改めた。以後幾度かの災厄にあったが,京都町衆を基盤に洛中で寺基を転々としながら中世後期には京都二十一ヵ本山の一つに発展した。1536年(天文5)天文法華の乱で叡山衆徒に焼打ちされたが,乱後,伏見宮家の出身だった当寺中興の日承(にちじよう)が大伽藍を造営,黄金期を迎えた。開山の日隆以来,尼崎本興寺とともに山号なく両山一貫主(かんじゆ)の制をしいたが,その後歴代貫主が地方に布教し,日承の時代に末寺は畿内・北陸・瀬戸内沿岸諸国,さらに種子島まで分布し,当寺を頂点とする門流教団が成立した。だが1582年(天正10)当寺に宿泊していた織田信長は明智光秀に攻められて自刃し(本能寺の変),伽藍は烏有に帰した。当時の寺地は四条坊門西洞院の4町4面の地で,四周に堀と土塁,内に伽藍のほか厩屋(うまや)まである城構えになっていた。変後,信長の子の信孝が焼跡で燼骨(じんこつ)を集めて建立した供養塔が,移転されて現寺地に残る。近世の寺領40石。秀吉の命で天正年間(1573-92)の後半に現寺地に移転して再建したが,その後2回炎上し,現堂宇は昭和期の建築。なお〈本能寺未生流〉の流祖で有名な大住院日甫(につぽ)は,当寺塔頭(たつちゆう)の僧で17世紀に活躍し,立華(りつか)の名手として聞こえた。寺宝中に伝藤原行成筆書巻(国宝)がある。
執筆者:藤井 学
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京都市中京(なかぎょう)区下本能寺町にある法華(ほっけ)宗本門流の大本山。1415年(応永22)日隆の創立で、当初は五条坊門にあって本応寺と号したが、33年(永享5)六角大宮に移転して本能寺と改めた。天文(てんぶん)の乱(1536)により全焼し、1545年(天文14)四条西洞院(にしのとういん)に方四町の寺域を賜り、子院30余坊を構える大殿堂を復興して前後7回再建中最大の規模を誇った。しかし1582年(天正10)織田信長宿泊中に明智光秀(あけちみつひで)の襲撃にあって焼失、再建の途中、豊臣(とよとみ)秀吉の区画整理にあい、89年に現在地に移転した。1864年(元治1)の蛤御門(はまぐりごもん)の変でまた全焼したため仮本堂を建立、1928年(昭和3)に現本堂を落慶。日隆の遺戒を守り、当寺は布教の道場、兵庫県尼崎(あまがさき)市の本興寺は教学の道場として、ともに山号を用いず、両寺一貫首制であったが、108世以後、別置された。境内に信長公本廟(ほんびょう)がある。寺宝に花園(はなぞの)天皇宸翰(しんかん)、伝藤原行成(ゆきなり)筆古詩残巻などの国宝がある。
[浅井円道]
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…父は桃井尚儀。幼時郷里の遠成寺に入り,18歳のとき上洛して妙本寺(現,妙顕寺)の日霽(につさい)に師事,師の没後,後住月明の摂受(しようじゆ)的立場に反対して妙本寺を離れ,宗学の研鑽につとめ,1420年(応永27)尼崎本興寺,29年(永享1)京都本能寺を創建し,本迹勝劣の法要を掲げて一派を起こした。その後,強信と折伏(しやくぶく)で諸国を巡錫し,越中元成寺,敦賀本勝寺,色ヶ浜本隆寺,一乗谷正法寺,河内三井本厳寺,堺顕本(けんぽん)寺,淡路の妙勝寺と妙暁寺(現,妙京寺),兵庫久遠寺,牛窓本蓮寺,備中高松本隆寺,尾道妙宣寺,宇多津本妙寺などを創建あるいは中興し,本能寺教団の基礎を築くとともに,法華宗の教線を北陸・瀬戸内諸国に大きくのばした。…
※「本能寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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