清水宗治(読み)シミズムネハル

日本大百科全書(ニッポニカ) 「清水宗治」の意味・わかりやすい解説

清水宗治
しみずむねはる
(1537―1582)

戦国・安土(あづち)桃山時代の武将。通称長左衛門。初め備中(びっちゅう)国(岡山県)高松城主石川久孝の家臣であったが、主家の内紛に乗じて自ら城主となり、小早川隆景(こばやかわたかかげ)に属し毛利(もうり)氏の備中平定を助けた。1582年(天正10)織田氏の将羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉から、信長方に属して中国征討の先鋒(せんぽう)たらば備中・備後(びんご)(広島県東部)を与えるとの信長の書を受けたが、宗治はこれを退けた。よって秀吉の来攻にあい、高松城水攻めのなかでよく抵抗し、毛利勢の支援を受けた。たまたま織田信長の死の急報に接した秀吉は、これを秘してただちに毛利氏講和したが、6月4日、その条件に従って宗治は兄の月清(げっせい)入道とともに自決し、城中の軍兵(ぐんぴょう)をことごとく救った。

[福尾猛市郎]

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改訂新版 世界大百科事典 「清水宗治」の意味・わかりやすい解説

清水宗治 (しみずむねはる)
生没年:1537-82(天文6-天正10)

戦国時代の武将。豊臣秀吉の水攻めで自刃した備中高松城(岡山市)の城主。小早川隆景に属して戦功をたてた。秀吉の中国征伐がはじまる1577年(天正5)以後,秀吉は宗治に織田信長への荷担を再三勧めたが応じなかった。82年岡山に軍を進めた秀吉のもとへ本能寺の変が報じられるや秀吉は,宗治を自刃させることにより毛利氏と講和を結ぼうとした。宗治は同年6月4日(日時に異説あり)兄月清入道らとともに自刃した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「清水宗治」の意味・わかりやすい解説

清水宗治
しみずむねはる

[生]天文6(1537)
[没]天正10(1582).6.4. 備中,高松
戦国時代の武将。出自は未詳。字は長左衛門。初め備中清水城主であったが,長谷川掃部を殺して同国高松城主となり,小早川隆景に属した。天正5 (1577) 年豊臣秀吉の中国征伐が始り,同 10年岡山まで進攻した秀吉から織田方につくようすすめられたが応じなかったため,秀吉得意の戦法である水攻めにあった。同年6月本能寺の変の報に接した秀吉が毛利氏と親しい安国寺恵瓊をつかわし,宗治の自害を条件に毛利氏との講和を進めたため,兄月清入道とともに自刃した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「清水宗治」の解説

清水宗治 しみず-むねはる

1537-1582 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)6年生まれ。備中(びっちゅう)(岡山県)高松城主石川久孝の娘と結婚。高松城主となり,小早川隆景(たかかげ)に属す。羽柴(豊臣)秀吉の中国攻めで,帰順の誘いに応じず水攻めにあう。城兵の助命を条件に天正(てんしょう)10年6月4日自刃(じじん)。46歳。通称は長左衛門。
【格言など】浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して(辞世)

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