高松城跡(読み)たかまつじようあと

日本歴史地名大系 「高松城跡」の解説

高松城跡
たかまつじようあと

[現在地名]高松市玉藻町

高松市街地北端に位置する生駒氏四代、松平氏一一代の居城跡。国指定史跡。香東こうとう川下流は一七世紀まで東は現在の御坊ごぼう川筋、西は石清尾いわせお山東麓から西浜にしはまにかけた地域を乱流していたといわれ、その三角洲上にあった八輪やわ島を中心に築城された。城は北の瀬戸内海を背に、高松平野を望む南を大手とし、海水を導入した濠を三重にめぐらした特色のある水際城(水城・海城)である。

天正一五年(一五八七)豊臣秀吉の臣生駒親正が尾藤知宣のあと讃岐国一五万石の領主に封じられて入国、初め東讃の引田ひけた(現大川郡引田町)に、次いで仙石秀久の居城であった西讃の聖通寺しようつうじ(現綾歌郡宇多津町)に拠った。しかし「南海通記」によると「国中あり来る所の城々は皆乱世の要害にて治平の時の居城にあらず、平陸の地を設けて居住すべしとて、その地を求めらるるに香河郡笶原郷に究竟の地あり、往古より河水の流れ久しく海中に入て地より八町沖に白砂集り、須賀を生じ野原の庄に相続き、西浜・東浜とて漁村あり、また郡中に山ありて南北に横たはる」ということで、香東郡笑原のはら(野原)郷を城地に選んで天正一六年から同一八年にかけて築城した。そして屋島の近くにあって源平合戦などでもよく知られていた山田やまだ郡高松郷の地名をとって高松城と名付け、もとの高松は古高松ふるたかまつといわれるようになった。またこの城は「玉藻よし讃岐の国は国柄か見れどもあかぬ神柄か」(「万葉集」巻二、柿本人麿)と歌われた讃岐の海浜にあることから玉藻たまも城ともよばれた。縄張りについては細川忠興説(生駒記)、黒田孝高(如水)(南海通記)など諸説ある。黒田孝高は築城の名手で、天正一三年の四国征討の際に高松郷喜岡きおか城を攻めたこともあり、「南海通記」によると天正一六年、生駒親正は大坂在勤中、藤堂高虎の勧めにより孝高の意見を求めたところ、八輪島の地は「富貴繁昌共に備わり、要害よく、諸方の船路便を得て、国主の居城に相合たる地形」と、交通・政治・経済の拠点としてふさわしい地と褒めたという。北は深い海であり、東は広い干潟で川も流れ込み、西は味方千騎の強さともいうべき山が南北に横たわっており、ただ南の防備さえすればよいという自然の地形に恵まれた軍事上の要害の地であった。最近では親正自身の縄張りとの説も出ている。


高松城跡
たかまつじようあと

[現在地名]岡山市高松

北に龍王りゆうおう(二八六・九メートル)、東は名越なごし山など標高二〇〇メートル前後の峰々、西は足守あしもり川に囲まれた地に位置し、備前・備中国境近くにあった。戦国時代の平城。国指定史跡。羽柴秀吉による水攻めで知られる。三村氏の武将で備中南部を支配した石川氏が築城。清水氏先祖書(萩藩閥閲録)によると石川久孝に実子がなく、備中奥郡を支配する須々木氏の末子筑前守を養子にしたところ、筑前守も嗣子のないまま早世。このため永禄八年(一五六五)諸将が城中に集まったとき清水宗治が対抗馬の長谷川某を誅殺し、自ら城主を宣言し、以後備中南部の旗頭となったという。天正六年(一五七八)の毛利氏の上月こうづき(現兵庫県佐用郡上月町)攻めに従った直後、清水宗治は備中奥郡をも配下におさめ、以後当城は織田方と対決する毛利氏の重要な拠点になった。


高松城跡
たかまつじようあと

[現在地名]皆野町下日野沢 道三

下日野沢しもひのざわの北東部にある。城の南麓を流れる日野沢川が急崖を形成し、東は金沢かねざわ川が南流、両川の合流点より北東方約五〇〇メートル、城峯じようみね山塊の南東端にあたる。通称りゆう山とよばれる山の山頂を占める。背後山の神やまのかみ山が控える天然の要害である。標高二六二メートル。鉢形はちがた(現寄居町)支城で、「風土記稿」は城主を北条氏邦家臣逸見若狭守とする。城の下を通り出牛じうし峠を越えて北上する街道は高松筋といわれ、上野方面からの上杉氏・武田氏の侵入経路の一つであった。


高松城跡
たかまつじようあと

[現在地名]高松町内高松

内高松うちたかまつの集落南西端、標高約二〇メートルの高台、通称「サンジャヤシキアト」にある。「三州志」は暦応元年(一三三八)七月、南朝方の越後の軍勢が加賀を南下したとき、富樫高家の一族額用家が高松浜で迎撃し那谷なた(現小松市)へ敗走したとする説や(太平記)、康暦二年(一三八〇)反足利方の越中の桃井氏が西の固めとして高松城を奪って配下の大窪忠実を居城させたという説を採用して、一四世紀に当城が存在したとするが、地理的に疑問視される(高松町史)


高松城跡
たかまつじようあと

[現在地名]安佐北区可部町下町屋

根谷ねのたに川東岸の高松山(三三九メートル)山頂付近にあり、中世、三入みいり庄地頭であった熊谷氏の居城跡。県指定史跡「熊谷氏の遺跡」の一部に含まれる。「芸藩通志」には「二階堂是藤高松城に居る、熊谷直時に攻られ城を出」るとあるから、熊谷氏入城前にすでに城としての役割を有していたと考えられる。熊谷氏が当城を拠点とする時期については説が分れるが、熊谷氏系図(熊谷家文書)の信直の所に「生得家城ハ、三入之塩カ坪ニて有ツレトモ、信直代ニ、三入之高松家城ニス」と記される。三入庄の南端に進出し、峻険なこの城へ入城するのは熊谷氏歴代のうちでも力の充実した室町末期の信直の頃とするのが妥当であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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