高瀬町(読み)たかせまち

日本歴史地名大系 「高瀬町」の解説

高瀬町
たかせまち

[現在地名]玉名市高瀬

東境を菊池川(高瀬川)が南流し、西側に沿って流れるうら(裏)川を南東部で合する。西境を繁根木はねぎ川が南流し、東は秋丸あきまる村・向津留むこうづる村、西は繁根木村、南は永徳寺えいとくじ村、北は岩崎いわさき村と接する。五ヵ町の一つ。三河川の中洲に位置するために、一説では「高洲」が「高瀬」に転訛したという。嘉永七年(一八五四)の高瀬町図(県立図書館蔵)によると、浦川(堀)が秋丸村から東部の丘陵部をまわり北に達し、さらに繁根木川に合流しており、浦川と繁根木川に囲まれた環濠的小都市の形態を示し、三池みいけ往還・せき町道・山鹿やまが往還に沿って市街地が開けている。古代以降、津を中心に繁栄した。元亨元年(一三二一)三月三日の阿蘇社進納物注文写(阿蘇家文書)の初米進納所々注文に権大宮司請取分として「たかせ」があり、田作祭料に充てられている。建武二年(一三三五)三月一八日の阿蘇山衆徒等連署状写(同文書)に「菊池七郎武吉高瀬十二町田地寄進状、同坪付已上二通進上」とあり、同年四月三日の菊池武吉寄進状写(同文書)には「大野別符内中村田地拾二町」が記され、高瀬となか村が同義に使われている。この寄進状に添えられた坪付注文には下池尻・橋爪・兵庫町・奈木町など一八ヵ所の地名が記される。なお「吾妻鏡」文治二年(一一八六)一月一一日条に「高瀬庄」がみえるが、当地とすることには疑問がある。

弘治三年(一五五七)三月吉日の紀宗善大野家由緒書上(清源寺文書)によると、建久四年(一一九三)大野おおの二五〇町を賜り下向した紀国隆は男子三人に五五町ずつを分け与え、嫡子中村太郎時隆は「高瀬中村五十五町」を譲られたという。隣村の繁根木村には国隆の勧請と伝える繁根木八幡宮があり、同宮の門前町、また大野別符の年貢積出津としてしだいに開発が進んだと思われる。一一世紀頃からは菊池氏の勢力が及び、菊池則隆の勧請と伝える神社が高瀬八幡宮をはじめ隣村の村々に多数みられる。前掲建武二年の菊池武吉寄進状の坪付には兵庫町・奈木町がみえ、また貞和五年(一三四九)二月八日に壱岐守輔重が清源せいげん寺に寄進した敷地の四至は、東が「火神木堀長福寺」、西は「堀底」、南は「大道」、北は「田之岸」であり、この頃には環濠の町場として発展していたと推定される。「大道」は裏川に沿って東西に走る道で、江戸時代のかみ町・魚屋うおや町筋の南関なんかん・山鹿往還と推定される。また一説に観応二年(一三五一)に再興(「一統志」は開基とする)されたといわれる高瀬談議所宝成就ほうじようじゆ寺北側には「古道」が通っていて、応永二〇年(一四一三)四月二日に東は「通町」、西は繁根木川を限る地を大神惟清が寄進している(「大神惟清寄進状案」宝成就寺文書)


高瀬町
たかせちよう

面積:五六・二九平方キロ

三豊郡の最東部に位置する。東北部は大麻おおさ山塊の山々によって善通寺市・仲多度なかたど琴平ことひら町、東は同郡仲南ちゆうなん町、南は山本やまもと町、西南は豊中とよなか町、西は仁尾にお町、西北は三野みの町に接する。北東部は山々が連なり、東から南にかけては小山が群がる丘陵地が続き、西は平坦地が多い。平野部中央を上麻かみあさを源流地とする高瀬川が流れる。同川は三野町・詫間たくま町を経て瀬戸内海三野津みのつ湾に注ぐ二級河川で、指定総延長四八・七五七キロ、延長一五・四三四キロ、流域面積六四・三平方キロ、乙田おつた川など支流一一がある。


高瀬町
たかせまち

[現在地名]高砂市高砂町高瀬町

藍屋あいや町の南にあり、高砂町方二八町の一つ。元禄期(一六八八―一七〇四)の高砂町図(船津家蔵)によると、北堀きたほり川の南岸沿いに東の高砂川から西の北本きたほん町までの東西に連なる町並。安永二年(一七七三)の棟数二〇・竈数三七・店借二四、人数一七一、うち田地持八(「高砂町方明細帳写」船津家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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