日本歴史地名大系 「高間町」の解説 高間町たかまちよう 大阪府:大阪市南区高間町[現在地名]南区鰻谷中之(うなぎだになかの)町鰻谷二丁目の西にあり、鰻谷通に面する北向きの片側町。三休橋(さんきゆうばし)筋・丼池(どぶいけ)筋を越えて半町の合計二町半。明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図では中橋(なかばし)筋から心斎橋(しんさいばし)筋の間の三町は「七丁目東丁」とある。明暦元年の町名は鰻谷七丁目で、元禄七年(一六九四)に高間町となった(南区志)。大坂三郷南組に属し、同一三年三郷水帳寄帳では屋敷数二三・役数二六役で、うち年寄分一役が無役。年寄は山伏宝学院。延享版「難波丸綱目」には古手屋仲買のうち仲買組一が載り、同書安永版には丸散煉煎薬三臓丹として吉野屋五運がみえる。吉野家は代々五運を名乗ったが、天保飢饉の際米一〇石余を施行し(天保仁風便覧)、また歌川国松の「摂陽奇観」「許多脚色帖」の成立に多大な役割を果した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by