日本歴史地名大系 「鰺ヶ沢御仮屋跡」の解説
鰺ヶ沢御仮屋跡
あじがさわおかりやあと
貞享四年(一六八七)の検地帳に御屋敷とあり、四〇間に二〇間、三反八畝二〇歩で、うち御仮屋の建物は五間に七間で東向きであったという(鰺ヶ沢町史)。主な部屋の数は九、台所二、風呂場二があり、町会所・町奉行居間などもある(「鰺ケ沢御仮屋御建坪之図」市立弘前図書館蔵)。藩主巡行の際の休憩所・宿泊所であり、普段は町奉行役所として用いられていた。国日記天和二年(一六八二)九月一五日条に「明日鰺箇沢ヘ御下可被遊之仰出、九月廿一日未中刻御機嫌能鰺箇沢御帰城」とある。「平山日記」寛政八年(一七九六)八月二三日に「屋形様 西浜江御下浜鰺ケ沢ニ御泊り、夫より深浦大間越ニ御出被遊候而亦鰺ケ沢江御帰り御逗留可被遊候処、松前蝦夷地ニ而異国船相見得候由、同所より申来、間もなく御帰城被遊候 △此節鰺ケ沢之御仮屋御修覆御手入被仰付候而、同所ニ御逗留為遊候よし、御供は町宿也」ともある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報