本町(読み)ほんちょう

精選版 日本国語大辞典 「本町」の意味・読み・例文・類語

ほん‐ちょう‥チャウ【本町】

  1. [ 1 ] 都市の中心の町。最初にできた町。
    1. [初出の実例]「川原町よりつら役場、本町へおしまはし、見めぐり候」(出典:梅津政景日記‐慶長一七年(1612)三月二九日)
  2. [ 2 ] 東京都中央区日本橋の地名。江戸時代は現在の日本橋本町二・三丁目、日本橋本石町二・三丁目、日本橋室町二・三丁目の一帯を含めて呼ばれた。江戸屈指の目抜き通りで、金座・桝座のほか老舗・豪商が軒を並べていた。

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日本歴史地名大系 「本町」の解説

本町
ほんちよう

[現在地名]沼津市本町・下本町しもほんちようくまたかちよう新町しんちよう大門町だいもんちよう東宮後町ひがしみやうしろちよう浅間町せんげんちよう通横町とおりよこちよう魚町うおちよう仲町なかちよう八幡町はちまんちよう末広町すえひろちよう幸町さいわいちよう旭町あさひちよう下河原町しもがわらちよう蛇松町じやまつちよう千本緑町せんぼんみどりちよう一―三丁目・千本常盤町せんぼんときわちよう常盤町ときわちよう一―三丁目・千本西町せんぼんにしちよう千本中町せんぼんなかちよう千本東町せんぼんひがしちよう千本港町せんぼんみなとまち春日町かすがちよう蓼原町たではらちよう・本・市道町いちみちちよう真砂町まさごちよう錦町にしきちよう白銀町しろがねちよう双葉町ふたばちよう本田町ほんたまち高沢町たかざわちよう

沼津三町の一で、沼津本町ともいう(天保郷帳など)。沼津町の西部から南部を占め、南西は海(駿河湾)に面し、海浜に沿って松林(千本松原)が続いていた。町の東辺を南流する狩野かの川は河口近くで流れを西に転じ、当町と我入道がにゆうどう村の境で海に入る。北東は上土あげつち町、北は沼津城の城地、西は東間門ひがしまかど村で、北西部から南西部にかけては耕地が広がっていた。「駿河志料」などによれば、町内は出口でぐち(出口町)・浅間町、本町(下本町・上本町)・横町(通横町)五反田ごたんだ(市道)・新町、中町(仲町)・魚町・宮町・町・立町、みやうしろ(東宮ノ後・西宮ノ後)・大門(大門町)新裏しんうら町・八幡町、下河原(下河原町)下小路したこうじ七反田しちたんだの各町・字地で構成される。上土町から南下してきた東海道の往還は、通横町の東端で西に折れ、同町の西端でまた南進に転じ、上本町・下本町と下ると再び西に折れ、浅間町・出口町を経て東間門村に抜けた。


本町
ほんちよう

[現在地名]酒田市本町一―三丁目・二番町にばんちよう中町なかまち一―三丁目

酒田湊に沿って東西に連なる両側町で、東はかめさき城下東禅寺とうぜんじ分、西は秋田あきた町。一丁目から七丁目まであり、当町の北に並行する鍛冶かじ町・桶屋おけや町・大工だいく町・中町との間を南北に結ぶ七つの小路を含む。最上川河口左岸の向酒田むこうさかたの住民が、大永年間(一五二一―二八)以降右岸の当地に移転して町場を形成し、本町一丁目から七丁目までを町割して酒田湊の問丸仲間酒田三十六人衆の居住地とした(「松田氏家伝」松田文書)。三十六人衆は自ら長人と称して湊町の町政を担当した。町政に対する権限は、庄内藩の酒田町奉行と大庄屋という行政機構に圧倒されていくが、三十六人衆の町人身分上の名目的な格式は明治維新まで継続した(「三十六人御用帳」本間文書)

慶長五年(一六〇〇)の出羽合戦で酒田湊町は焼失し、焼跡を町割して一ノ丁小路は堀端ほりのはた、二ノ丁小路は林昌寺りんしようじ小路、三ノ丁小路は浄福寺じようふくじ小路、四ノ丁小路は上林かんばやし小路、五ノ丁小路は地蔵院じぞういん小路、六ノ丁小路は持地院じちいん小路、七ノ丁小路は粕谷かすや小路とした(「庄内昔聞書」飽海郡誌)。明暦二年(一六五六)の酒田町絵図(大泉叢誌)に道幅八間とあり、町の長さと屋敷数は一丁目五一間余・二一軒、二丁目四五間余・二〇軒、三丁目五六間余・二三軒、四丁目五六間余・二〇軒、五丁目四八間余・一九軒半、六丁目四五間・一七軒半、七丁目三六間余・一五軒。天和三年(一六八三)の酒田町割家数人数書上(鶏肋編)によれば本町分として家数一三七・人数一千二五六、一ノ丁と四ノ丁に横町がある。

貞享三年(一六八六)の家数は一丁目二一、二丁目二〇、三丁目三三、四丁目二〇、五丁目一九軒半、六丁目一七軒半、七丁目一五。この年から一―三丁目を上本町、四―七丁目を下本町と称した(「酒田御町三組古控」飽海郡誌)。天保一二年(一八四一)の家数一二八(「合浦珠」酒井家文書)。明治三年(一八七〇)の総家数並寺院畝数調(野附文書)では家数上本町六五・下本町九三、ほかに新庄役所一棟、米相場座一棟。


本町
ほんまち

[現在地名]高梁市本町

備中国奉行小堀作助支配時代の元和二年(一六一六)にできた町人町で、城下六町の一(「松山御城主暦代記」高梁市立図書館蔵)。北は上谷かみだに(現小高下谷川)に架かる橋で本丁・川端かわばた丁、南は下谷しもだに(現紺屋町川)に架かる橋でしも町に続く。長さ南北三町。道幅三間の備前往来に沿って町家が並んでおり、東は横丁五通りによってしん町に続き、西には松山川(現高梁川)の河岸があり、対岸の近似ちかのり村へ渡る渡船の発着場もあった。新町・下町・鍛冶かじ町およびみなみ町の大半とともに、地子のほか村継送り荷物や御用人足などの公役も免除されていた(延享元年「松山六ヶ町差出帳」高梁市立図書館蔵)

元禄(一六八八―一七〇四)初年改では町の長さ三町、家数八二、うち往来の東側四二・西側四〇(御家内之記「水谷史」芳賀家蔵)。藩主石川総慶時代には家数六七、うち間口一・五―二間が一五、同二・五―三間が一六、同三・五―五間が二一、同六―一〇間が一一、同一二間が一、同一八間が二、同二八間が一(「松山城下絵図」三重県亀山市立図書館蔵)。間口三間以下が三七パーセントを占めるが、これは新町の六九パーセント、下町の五一パーセント、鍛冶町の六六パーセントに比べるとかなり低率である。延享元年(一七四四)の宗門改では人数五三四、うち男二八四・女二五〇(前掲差出帳)


本町
ほんまち

[現在地名]本町〈一丁目―四丁目・新五丁目・五丁目・新六丁目・六丁目―十丁目〉

五条通から南に向かう伏見ふしみ街道(本町ほんまち通)の両側に位置する一二町。各町は北から一町ごとに町数をもって町名とする独立した町で、近世には「丁」ではなく「町」の字を用いた。なお十丁目以南は近世の東福寺門前、さらに新熊野いまぐまの村の諸町が連なり、町名を異にしていたが、現在は本町二十二丁目までの町名が付されている。

明治維新前は大多数が下京巽組新シ町大仏組に属して洛中同様の町組を形成し、新正面町(現新五丁目)・新六町目・七町目の三町のみはこの町組に属さない。開町が遅れたとも察せられるが、寛永一四年(一六三七)洛中洛外惣町数人家数改日記(「半日閑話」所引)で所在が明らかである。総じて、各町は市街化が早期に完了したといえる。各町名は一部を除き、地誌では寛文五年(一六六五)刊「京雀」、地図では承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図にみえるのが早い。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」の伏見街道の項に各町の位置を記し、文政三年(一八二〇)の下京軒役分割帳(占出山町有文書)に軒役を記す。


本町
ほんまち

[現在地名]日南市飫肥おび一―二丁目・同五―八丁目

大手おおての南に位置する町人町で、後町うしろまち馬場の南を走る東西路、本町通(現国道二二二号)に沿う両側町。町の長さは東西五町二三間、南北は一町に満たなかった(日向地誌)。本町通の西端には通りを挟んで北側に浄土宗空也くうや寺、南側に時宗光照こうしよう寺があった。承応元年(一六五二)から万治二年(一六五九)のものと推定される城下絵図(日南市蔵)では本町通の東西の入口に門が置かれている。町役人として別当一名・町宿老二名が配置され(文化七年「書上」日向国史)、町宿老は小別当ともいった南日誌)。前掲城下絵図でも町の中ほど北側、現在は条約改正に尽力したことで知られる明治期の外務官僚小村寿太郎の生誕碑が建つ辺りに別当屋敷と記され、黒木五右衛門が別当に任じられている。その後は寿太郎の先祖が代々別当を勤めていたようで、江戸後期に別当を勤めた小村善右衛門は歩行格、一八石取で(文政一三年「飫肥藩分限帳写」日南市立図書館蔵)、文化七年(一八一〇)に測量のため当地を訪れた伊能忠敬一行も、藩命により善右衛門方に止宿している(伊能忠敬測量日記)


本町
もとまち

[現在地名]須賀川市本町・大町おおまち千日堂せんにちどう並木町なみきまち南町みなみまち馬町うままち大黒町だいこくちよう八幡町はちまんまち八幡山はちまんやま稲荷町いなりまち岩作いわさく一里坦いちりだん五月雨さみだれ広表ひろおもて高久田境たかくださかい堀底町ほりそこまち卸町おろしまち

須賀川宿を構成する四ヵ町の一で、最南端を占める。二階堂氏の時代にも町屋が並び、ふる町と称していたが、天正一七年(一五八九)須賀川城攻めの際、町民が戦火を避けて離散し狐兎の場となった。のち安積あさか大槻おおつき(現郡山市)の館主相楽三河守三男孫右衛門包純が町を再建し、本町としたという(白河風土記)。しかし野川本「藤葉栄衰記」は、本宿もとじゆくの町家を移して再建したとする。二階堂氏時代、本宿・中宿なかじゆく牛袋うしぶくろ村一帯が市廛であったとされる。慶長三年(一五九八)願出て当町に問屋場が置かれ、毎月上旬一〇日間を担当、市は三・八の二日開かれた(「定条々」福島県史)


本町
ほんまち

[現在地名]前橋市本町二丁目

城下町の中心をなす東西通で、西は南北の連雀れんじやく町に丁字形にぶつかり、ここが札の辻で、その西は城内である。城内への大手門は連雀町を少し南へ下ったところにある。東は片貝かたかい町の通りへつながる。用水を越えて北側は紺屋こんや町・えのき町、南側に連雀町の八幡宮と相生あいおい町がある。貞享元年(一六八四)の「前橋風土記」に「富商聚り居る。毎月四九の日を以て市を為す。常に貨店を設け厨品の店を披き、常用に備うるなり。伝駅邸館及び寅賓館の在る所なり」と記される。町年寄のほかに有力な商人がおり、沼田藩の参勤交代路にあたるため、本陣・問屋など宿駅の機能も本町に集中していた。松平氏入封後は嶋田新兵衛家が本陣を勤め、幕末には松井喜兵衛家が世襲している。享保一七年(一七三二)の検地帳(市史保管文書)の表紙に「天河原分 上州群馬郡前橋本町水帳」とあり、また本町年寄とともに天川原あまがわら村名主の署名があるので、町成立時からの所属村があり、この時期にもなんらかのかたちで出身村との関連があったと思われる。町の面積合計四町五反余、屋敷割七九筆、名請人七三人、表口は最高一六間四尺余から最低二間四尺余まであり、五間から一〇間が半数以上を占めている。


本町
ほんまち

[現在地名]中央区赤坂あかさか一丁目・舞鶴まいづる三丁目

福岡城下六丁筋の町。東西に延びる通りの両側町で、西は大工だいく町、南は大名だいみよう町、東は呉服ごふく町、北ははまノ町(以上、福岡博多近隣古図など)。呉服町との境の南北の東横町は黒茶くろちや町、西横町は八百屋やおや町、その間の横町は新道と称された(続風土記拾遺)。元禄三年(一六九〇)の家数九四(続風土記)。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数一〇〇(うち酒家二・麹家一)となっている(別本「続風土記附録」)。前掲古図では家数九〇・人数四五〇、間数三二六間余。享保一〇年(一七二五)一一月一八日の荒戸あらと四番町から出火した火災では九〇軒(一八〇竈)が類焼(長野日記)。寛永一六年(一六三九)当町の万細工屋八右衛門は筥崎宮遷宮に際し、御輿の飾付けを行った(「筥崎八幡宮遷宮記録」日高家文書)


本町
もとまち

[現在地名]横手市本町・蛇の崎じやのさき町・城西しろにし町・さいわい

蛇ノ崎橋から続く羽州街道を北へ折れた道路沿いの町。東は横手川から横手城二の丸北麓まで続く内堀と土塁を隔てて下根岸町、西は平行するうら町で、通称下内しもうち町の一部。

梅津政景日記」元和四年(一六一八)一一月一八日条に、政景が金沢から横手に着いた時、「須濃州本町迄御出合被為合候」とあるが、寛文九年(一六六九)横手絵図面(横手郷土史資料)には表町小路五九戸がみえ、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には表町二四八間余とある。町は通りに直交して東の下根岸町に通ずる道路南の上丁、同北の中丁、中丁北端から東の搦手口に通ずる道路北の下丁の三丁に分れるが、横手絵図面にも「六郡郡邑記」にも丁名はみえず、明治一四年(一八八一)の「郡区町村一覧」にも本町とだけある。

横手古今大番帳目録(横手郷土史資料)に、慶長八年(一六〇三)「本町給人指南は須田美濃守盛秀」とあって、須田氏の本町給人支配は三代続いた(同書)


本町
ほんちよう

[現在地名]弘前市本町

城の南側に位置し、鍛冶かじ町からもり町に至る東西の道筋の町並。一丁目から五丁目まである。北は塩分しわく町・元大工もとだいく町・元長もとなが町・親方おやかた町、南は在府ざいふ町・相良さがら町・桶屋おけや町と接する。

正保三年(一六四六)津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)には、大部分が町屋として町割される。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)では鍛冶町と記され、七〇軒余の屋敷のうち鍛冶が五三軒余。また町内東側は銅屋どうや(現桶屋町付近)とあり、銅屋が並ぶ。寛文一三年(一六七三)弘前中惣屋敷絵図(同館蔵)には、同じく鍛冶町として七三軒。延宝五年(一六七七)弘前惣御絵図(同館蔵)では、横鍛冶よこかじ町・長鍛冶ながかじ町・同二丁目とある。しかし国日記によれば、翌六年に「卯下刻本町一丁目火事」とあり、この時期から本町を称することがあった。


本町
もとまち

[現在地名]猪苗代町 本町・カキ町尻まちじり寺東てらひがしオヒデ川おひでかわ上ザル田かみざるた裏町うらまち城南しろみなみ津金沢つがねざわ横マクリよこまくり梨木西なしのきにしなど

猪苗代城の外堀(現在の猿川)を境に同城三の丸(現在の古城町)の東側に位置する。南北に走る二本松街道に沿う両側町で、北はあら町に続き、町の中ほどから城の大手に続く道が西へ延びる。二本松街道は当町南端で東に折れ、同所で堤崎つつみざき村・島田しまだ村に通じる道が分岐した。なお東に折れた二本松街道に沿う名古屋なごや(名小屋町)、分岐路沿いの四ッ谷よつや地区、東側を並行して走る南北路沿いの裏町(通称旭町)なども当町の内であった。


本町
ほんまち

[現在地名]伊勢崎市本町

伊勢崎城の南側を東西に通り、南東方への江戸道、西方前橋道へつながる幹線筋沿いに形成された両側町。慶長六年(一六〇一)に入封した稲垣氏時代からの町。寛永一九年(一六四二)の検地帳および書継文書である屋敷寸間帳(いずれも伊勢崎市立図書館蔵)によれば、町の北側は大手門前小路に続いて一番屋敷が始まり、東六番屋敷の一角には牛頭天王屋敷がある。さらに東へ一七番屋敷弥次右衛門宅は伊勢崎町の本陣で、屋敷のなかに制札が建っていた。北側は二一番屋敷まで。一方南側は表門の先角の二二番屋敷から始まり、三三番屋敷の忠左衛門は酒井忠能の御用達を勤めた。四二番屋敷まであり、南・北ともに二三軒ずつの四六軒の家並である。宝暦一三年(一七六三)の書付(伊勢崎町新古日記)では道幅六間、長さ二一〇間、家数八六、うち店借二二。


本町
ほんまち

[現在地名]八幡町本町

小駄良こだら川東岸にある。殿との町の西、鍛冶屋かじや町の通り筋南側に位置し、南のさかな町の通りと直角に交わる。慶長五年(一六〇〇)の八幡城合戦を描いた合戦図(延宝二年写、大分県臼杵市立図書館蔵)では当町の位置に「コダラ町」とあり、南に町口惣門が記される。承応元年(一六五二)よこ町からの火事で全焼した(「荘厳講記録」長滝寺蔵)。寛文年間(一六六一―七三)の町絵図に本丁とみえる。宝暦(一七五一―六四)頃の「美濃国古蹟考」は岩本町とする。前掲町絵図には仲上善六の屋敷が記されるほか家並の発達がみられる。


本町
ほんちよう

[現在地名]秋田市おお町四―六丁目の各一部

大町三丁(一―三丁目)から南に本町四―六丁目と続く町並だが、大町と違い脇町であり、他町扱庄屋支配下にあった。本町四丁目家督の史料(羽生氏蔵)に、「慶長年中絹布・木綿切其外品々商売致来候所、元和年中夫々家督被定下候節、絹布、木綿切売、永久家督ニ被居下候、以来丁内難取保ニ付、元禄年中絹布、木綿、古着解分商売願申上候処、右品々願之通被仰付、連綿罷在候」とある。大町三丁と同様、本町三丁も慶長年間(一五九六―一六一五)の町割で、家督は大町三丁の絹・木綿布・古手類商売家督に「切売家督」として規制された。正徳元年(一七一一)九月、本町五丁目も木綿切売の家督を奉行所に願い出たが却下され、享保一九年(一七三四)に木綿切売年切りの家督を得た(大町三丁目記録 永代帳)


本町
ほんまち

[現在地名]小諸市小諸こもろ おつ 本町・田町たまち六供ろつく

小諸城の大手門の東北方にあり、門の近くが本町、中沢なかざわ川の北岸が田町で、その上流に六供がある。往還に沿って東南はあら町、西はいち町に続く。

元和八年(一六二二)一二月の佐久郡高書上帳(柳沢文書)に「五百廿七石弐斗 本町」とみえる。大井伊賀守忠光が長享元年(一四八七)鍋蓋なべぶた城を築いて居を構えた地で、以来、小諸村・宇当坂うとうざか村の民家が徐々に移り、慶長期末頃までに町並を形成したという(長野県町村誌)

慶長一五年(一六一〇)一〇月の「田野口組・畑村組・長右衛門組・望月組貫目御帳」(竹内文書)に「弐百八拾八貫文 小諸村、拾弐貫文 とうふ坂(うとう坂)同所」とみえる二村の旧地は、現本町の北方斜面にあり、古宿ふるじゆく御所ごしよ村などの地字名を残す。


本町
もとまち

[現在地名]都城市上町かんまち

都城領主館の北、ひろ小路の北にあり、薩摩街道に沿って南北に町並が連なる。もとは都城の西方にあった本之原もとのばい三町の一町で、元和元年(一六一五)の一国一城令以後北郷氏(都城島津氏)により新しく造営された領主館の北に移されて町立てされた。寛永一四年(一六三七)の惣高目録(都城島津家文書)では町高七石余、屋敷三二ヵ所。文政(一八一八―三〇)頃には無役で町高一三石余。寛文三年(一六六三)三月二一日の火事では町は全焼、元禄八年(一六九五)八月二日夜の火事では町および諸士屋敷一〇ヵ所が焼失した。町役は、町中取(武士役)の下に本町別当・小別当が置かれ、そのほかに横目二・用聞七・定月行司二・町同心三・旅人問屋一・毛付博労二・下山見廻一・御薬園方二が任命されて、町奉行の支配を受けていた。


本町
ほんまち

[現在地名]姫路市本町

姫路城南の外曲輪にあって中堀のすぐ南に位置する町人町。山陽道を挟んだ東西の町筋。姫路城の大手にあたるなかの門前で城下の中心になっていた。慶長六年(一六〇一)の町割で成立。同一八年こぬか屋四郎兵衛の家倉を銀子一貫目でふるてや了慶に売渡した本町沽券連判状(前川家蔵那波文書)がある。寛文七年―天和二年(一六六七―八二)の姫路城下図には当町の東端が現在の小溝おみぞ筋までとなっているのは誤りか。姫路町書上帳、元文五年(一七四〇)の姫路町飾万津町地子銀控によると家数六一・地子銀二貫余。


本町
ほんまち

[現在地名]大村市本町・東本町ひがしほんまち西本町にしほんまち

かた町の北、内田うちだ川の北岸に立地する。本町筋の本町で、枝町として河岸端かしばた通・伊勢いせ丁・波戸はと丁・波戸浜はとはま丁・波戸横はとよこ丁があり、「大村郷村記」によれば、町並は草場くさば川板橋(現鶴亀橋)から水主かこ町境石橋までの長さ四町五五間一尺余、幅は板橋際が四間二尺余で水主町石橋際が二間三尺余。町内に本陣・脇本陣・火番所(二ヵ所)・石橋口番所などが設けられたほか、酒・油・雑貨を扱った大村藩最大の御用達商人喜屋、捕鯨で富豪になった深沢組三代目松島屋などが屋敷を構えた。正保国絵図にたわら坂境(現東彼杵町)から「大村城下本町」まで五里二八町と記される。


本町
ほんまち

[現在地名]松本市中央ちゆうおう二丁目

松本城下町の中心町で、親町三町の一。中山道洗馬せば宿(現塩尻市)から分れて北上する北国西脇往還が、出川町いでがわまち村からすすき川を渡り、城下町に入って松本城内に入る大手橋の手前までをいう。大手橋(現千歳せんざい橋)の手前から南へ一丁目、二丁目、三丁目、四丁目、五丁目と続き、馬喰ばくろう町に続く。本町は大手橋の手前で東に折れてなか町をつくり、一丁目の西角から西に折れて伊勢いせ町をつくる。問屋(倉科家)・使者宿(今井家)・飛脚問屋(近藤家)がある。

「信府統記」に「本町 南北ノ町ナリ、長五町二十五間半、或ハ四町五拾七間半共、家数百二十七軒、南木戸際左右土手列樹松、柵アリ、堀切広サ三間、長九間余、町幅三間三尺、町番所三ケ所、内二ケ所ハ夜ル計リ番人居ル、光明院 南木戸外高札場西ニアリ、浄土宗ナリ、極楽寺 東側ニアリ、浄土真宗ナリ、寺家三軒アリ、元禄九丙子年本町ヘ大門明ク、裏門天神馬場喰違ノ土手の脇ヘ出ル、天神馬場小路 東側ニアリ長サ三三間、幅二間三尺、木戸アリ、鍋屋小路 東側ニアリ、長サ百四十六間、宮村町マデ幅二間半、堰共ニ町番所アリ、生安寺 西側ニアリ、浄土宗ナリ、寺家三軒、寺内ニ薬師堂アリ、大門ノ長二十三間半、幅三間、玄知小路 東側ニアリ、幅三間、堰共ニ、宮村町マデ百四十七間半、町同心番所伊勢ヘ入北ノ角ニアリ、町同心小路西側ニアリ、幅一間四尺、長二十三間、元禄九丙子年明ク、大手入口橋長十一間幅二間一尺」とある。


本町
もとまち

[現在地名]佐倉市本町

弥勒みろく町の東に続き、東西に延びる両側町。元町とも記された。成田道の間の宿で、佐倉六町の一(佐倉風土記)。戦国期には鹿島かしま宿と称され、人馬の継立場であったという(「印旛郡誌」など)。「寛文朱印留」に本町村、大久保忠朝時代の佐倉絵図(小田原市立図書館蔵)に本町とみえる。元禄郷帳では本町として高付され、高一四九石余。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚でも同高で、うち昌柏しようはく寺屋敷六石。町役を勤めたため村方役御免とされている。


本町
ほんちよう

[現在地名]平戸市みやちよう 本町

平戸城の西、平戸浦の西岸に位置する。北は宮之みやの町、南は安富やすとみ町。本町通六ヵ町の一つ宮之町に属する。慶長年間(一五九六―一六一五)には「本町」が成立しており(「御判物拝領之者書出」松浦史料博物館蔵)、平戸城域の亀岡かめおかに近く、また町名からして平戸城下の町割の基点になったものであろう。寛永(一六二四―四四)初年に小川島(現佐賀県呼子町)や壱岐国印通寺いんどうじ(現石田町)に鯨組を立て、また平戸の鯨本組を興した吉村五兵衛が当町に居住していた。その一門にのち新組を興した宮之町の吉村庄左衛門がいる(「鯨記」「西海鯢鯨記」、「平戸年鑑」松浦史料博物館蔵)


本町
ほんまち

[現在地名]津和野町後田うしろだ

殿との町の北端に設けられた惣門に連なる南北道(本町通)の両側の町人町。じよう山東麓で最も古く開け、本市もといちと称したが、のち改称。そう町の中心地で南からかみノ町(上本町)・中ノ町(中本町)・下ノ町(下市)と並び本町組を形成。慶長七年(一六〇二)の津和野中領御縄町屋敷帳(津和野町郷土館蔵)に、本市として町屋敷九九軒・四千六九三坪が検地されている。このうち道官・春古・そとく・乙鶴・大黒・ひろ中などは、特殊技術をもつ武具職人かそれに類する工・商を兼ねた町人と考えられている。

元禄期城下侍屋敷等絵図(同館蔵)によれば惣門前高札場のある札の辻に接する上ノ町は町の長さ七八間一尺、米屋・袋屋・布屋・鍵屋・分銅屋・桶屋など商種を推量させる屋号をもつものや、出自が推量される山口屋・福島屋・因幡屋などの屋号をもつ有力商人が居住。


本町
ほんちよう

[現在地名]高知市かみ町一―五丁目・本丁筋ほんちようすじ

北奉公人きたほうこうにん町の南側にあり、東西に長い両側町。町中を通る本町筋は東で外堀を越え郭中升形かちゆうますがたを経て郭中本町へ通ずる。江戸時代中期の「高知風土記」によると東西五〇〇間、南北四〇間、家数一一二。上町のうちで最初に開かれた町であることにちなんで名付けられたというが、寛文九年(一六六九)の城下町絵図には「升形町」とみえる。また町の西部四丁目・五丁目辺りは武家屋敷となっており、牧野・西川・今北・橋本などの名がみえる。しかし延享四年(一七四七)商家は軒を連ねないと郷村からの客が少なくなり、繁盛しないと訴え、許されて四・五丁目にも店構えできるようになった(高知市沿革略志)


本町
ほんまち

[現在地名]川越市元町もとまち

川越城西大手の正面から西に延びる道の両側町。町人町で、城下一〇ヵ町のうち高沢たかざわ町・喜多きた町・江戸えど町・みなみ町と当町の五ヵ町を上五ヵ町とも称した。両端の札の辻ふだのつじは西の高沢町、北の喜多町、南の南町との交点で、城下町の中心地として高札場となっていた。札の辻はまた御判塚ともよばれ、城下から四方へ至る行程を測る起点であった(武蔵三芳野名勝図会)。一七世紀後半頃の川越城図には「ホンシュク」とみえる。前掲名勝図会に昔は本宿といったが、川越藩城下となって以降、しだいに繁栄して本町と称するようになったとある。元禄七年(一六九四)の川越図写(川越市立図書館蔵)では南北両側とも町屋となっており、加茂下与右衛門・榎本弥左衛門など一七軒が記されている。


本町
もとまち

[現在地名]高崎市本町

城郭の北に東西に延びる中山道の両側町。中山道にしたがって南に短折して九蔵くぞう町に接し、西は赤坂あかさか町。同町の境界より北に短折して三国街道となり、東は椿つばき町、北の町裏は遠堀。町の長さ四八間、問屋年寄名主梶山与惣右衛門(高崎寿奈子)。慶長三年(一五九八)井伊直政が箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)から移った際、和田氏時代の伝馬宿であった金井かない宿・馬上ばじよう宿を当地に移し、根本の町として本町と称したという(高崎志)町・あら町とともに高崎宿の伝馬役を勤めるため慶長七年から地子免で(文化年間「高崎藩町方式」西尾市立図書館蔵)、免許地は二町八反余であった(嘉永五年「宿明細帳」安中市教育委員会蔵)


本町
ほんまち

[現在地名]北上市本通り二―三丁目

慶長九年(一六〇四)八月奥州街道が北上川の右岸沿いに新設されるにあたり、街道両側に設けられた宿町。黒沢尻くろさわじりの大萱原を切開き七四軒の町屋敷を割って成立した町で、初代検断に小沢五郎三郎が任命され、子孫が長く同役を勤めた(「本町検断諸用留帳」小沢文書)。街道の東は黒沢尻村里分さとぶん、西は同町分まちぶん。延宝六年(一六七八)から伝馬五疋・歩行夫一〇人が備えられた。元禄一〇年(一六九七)には南隣しん町とともで毎日伝馬一〇疋・歩行夫一〇人が置かれ、当町が月のうち一日から二〇日まで、二一日から晦日までは新町が勤めた。


本町
ほんまち

[現在地名]松阪市本町

近世松坂町の商業機能を代表する町の一で、明治一六年(一八八三)の「飯高郡松坂地誌」(松阪市立図書館蔵)に「元標ノ在地ニシテ人家稠密ノ所ニアリ、西ハ字魚町ニ連リ、南ハ字中町ニ接シ、東ハ本郡鎌田村ニ隣リシ、北ハ坂内川ニ沿フテ界ヲ限ル、東西弐百弐拾間、南北百六十間、但シ旧工屋町・紺屋町・大手町・博労町・城坊小路合シテ本称ニ改ム」とみえる。

まつしま城下にすでに本町があったことは、明暦三年(一六五七)二月二一日付の松ケ島村検地帳写(田中満生氏蔵)の地字名でわかる。


本町
ほんまち

[現在地名]大垣市本町

大垣城の大手おおて口・小橋こばし口両門の東に位置し、南西の竹島たけじま町に続く町家地域。西は外堀に接する。美濃路の両側町で、寛永城下絵図に本町通とみえる。享和元年(一八〇一)の往還の長さ四町一九間余(大垣市史)。天文年間(一五三二―五五)以前からあったとされる古来町の一つで、大垣宿の中心街を形成。町の南部は旅籠屋が多く、俗に旅籠町ともいった。明暦三年(一六五七)の無役家数は年寄五・町代一・帳付二・問屋一・馬持二・飛脚宿二・畳屋一・円覚えんがく(縁覚寺)一・わたわけ一・竹屋一・薬屋一・その他二・不明一(「大垣町無役家数覚」林文書)


本町
ほんまち

[現在地名]山崎町山崎

山崎城下一一ヵ町の一つ。山崎郭内の藩邸・家中屋敷と城下町とを区切る外堀の北側に位置する。元和元年(一六一五)池田輝澄の屋形が出来てから城下の整備が進み、それ以前の山崎村の一部が本町となった。城下の中心的な町で、中央部になか(大手口)、東境には熊鷹くまたか(角鷹門)があり、両門には番所が置かれていた(文化一四年「山崎町町屋配置図」山崎町史)。地子米は慶安三年(一六五〇)・寛文一二年(一六七二)とも二三石余、享保一五年(一七三〇)二五石余と城下では最も多い(山崎町史)。貞享五年(一六八八)の惣町中地詰帳(阿波屋文書)によると、熊鷹門から大手中門までの通りの南側に二〇軒、北側に一四軒の町屋があり、屋敷面積一町二反余、地子米一二石余、大手中門より西の通り南側に一七軒、北側に二八軒の町屋があり、屋敷面積一町三反余、地子米一三石余。



もとうつぼちよう

[現在地名]東区伏見ふしみ町一丁目

高麗橋こうらいばし通の南にある伏見町ふしみまち通北側の片側町で、一丁目筋やや西より八百屋町やおやまち筋を経てさかい筋まで。裏行は七間から一四間余の間で出入りがあり、奥行のあまりない町であった(享保元年「水帳」大阪市立博物館蔵)。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図に「本うつぼ町」とみえる。もとは靭町といったが、元和八年(一六二二)同町と西隣天満てんま町の塩魚商人が淀屋个庵・鳥羽屋彦七を代表者にして村の畑葭島を開発し、同地に移住して新靭しんうつぼ町・新天満しんてんま町・海部堀川かいふぼりがわ(現西区)を建設し、靭町は本靭町と改称した(大阪市史)


本町
もとまち

[現在地名]二本松市本町

二本松城下六町の一つで、松岡まつおか町の東に続く。慶安二年(一六四九)以降、それまで観音かんのん丘陵の北にあった町屋が移されてできたもので、町名は侍屋敷のあった本町谷からとられたといわれている。延享二年(一七四五)の郷村高辻帳(二本松市史)に町名がみえ、四〇〇石余の高付がなされている。杉田組郷高帳(同書)には古高二八八石余、宝永二年(一七〇五)の検地高本田一七六石余・新田二二石余とある。


本町
ほんまち

[現在地名]和歌山市本町一―九丁目

和歌山城三の丸の京橋きようばし御門の北にある京橋より真北に延びる大手筋に面した両側町で、和歌山城下の中心をなす。南端を一丁目とし、八丁目までが一直線、九丁目は東に折れて鉤形に続く。浅野氏時代は八丁目までで、北詰に城下の表門として八丁目惣門がつくられていた(「諸事覚書」浅野家蔵)。徳川氏入部後に九丁目が延長され、その東端に本町御門が設けられた。元禄一三年(一七〇〇)の和歌山城下町絵図には、本町御門に枡形の石垣がめぐらされ、櫓門の構が描かれ、御門南には「御厩」がある。天保七年(一八三六)の「御役順」(和歌山県立図書館蔵)によれば三〇〇石の門番頭と同心二組(三四人)の番士がこの門に詰めたとある。


本町
ほんちよう

[現在地名]盛岡市本町通ほんちようどおり一丁目

盛岡城内丸の大手門の北に広がる東西三町半ほどの商人町(盛岡砂子)。東西に延びる奥州街道の両側町で、西は八日ようか町につづき、北は大工だいく町、南を外堀が限る。京都出身者が多く住んだという由来をもち、寛永城下図にきよう町とある。一説には盛岡城築城の残木を払下げられ、京風の家作をしたため、京町と称せられたともいう。「雑書」寛永二一年(一六四四)四月二日条には本町次郎右衛門の名がみえるが、同年一〇月三〇日条に京町宿とある。


本町
もとまち

[現在地名]白石市 本町

白石宿の南入口から北に連なる六町の一で、最も早く開かれた。北になか町。東は安永年間(一七七二―八一)に開かれたというやなぎ町で、生酒横丁いけざきよこちよう妙見寺みようけんじ横丁をもって通じる。南端の当信とうしん寺から西に折れる通りは田町たまち。西の東小路ひがしこうじは「白石本郷安永風土記」に古本ふるもと町と称された一部で侍屋敷であり、天神てんじん横丁・ねずみ横丁をもって通じる。寛文一〇年(一六七〇)の書上(「白石市史」所収)では町の長さ一七〇間で奥州街道の東側五二軒、西側四〇軒、検断屋敷一軒。元禄一三年(一七〇〇)の当町の大火は一七二戸を焼失(同書)


本町
ほんまち

[現在地名]高松市本町・鶴屋町つるやまち玉藻町たまもちよう丸の内まるのうち

高松城外曲輪東部、たくみ町の北に位置する町人町。うち町五町の中心であったので本町とよばれた。東西約六〇間の通りに面した両側町(天保一五年城下図)。生駒氏時代屋敷割図によると、内曲輪南大手門(古太鼓御門)から中堀沿いに東へ、内町武家屋敷を抜けると当町に至る。松平頼重時代に南大手門が廃されて内曲輪東側にあさひ御門(太鼓御門)ができたため、門前の大下馬、その南東端の番所を出るとすぐ当町に通ずるようになった。


本町
ほんまち

[現在地名]今治市本町一―四丁目

慶長八年(一六〇三)藤堂高虎の町割によってつくられた今治町の中心。今治八町の一つ。四丁目まであり、長さ六〇間、奥行三〇間。四丁目は寺院が多くててら町と通称され、通りは北新きたじん町から波止浜はしはま道に通じている。延宝八年(一六八〇)の「鈴木永頼見聞録」(今治史談会蔵)によると、人口は八町最多の六五三人である。二丁目東側に今治町大年寄を勤めた別宮喜兵衛の国田屋があった。


本町
ほんまち

[現在地名]三田市三田町

三田町の中核の町人町。丹波への街道に沿う両側町。東は湯山ゆのや町、西端にはくろ門があり、さくら馬場に続く。天正年間(一五七三―九二)荒木平太夫によって町割された三筋の町の一つという。安政二年(一八五五)模写の寛文(一六六一―七三)初期の古図(児玉家蔵)に本町とみえ、本町・湯山町を含めた町の長さ二七七間半。札の辻ふだのつじを通る南北道のほか、二筋の南北道がきた町・みなみ町につながる。


本町
ほんちよう

[現在地名]中区本町一―六丁目

北仲通きたなかどおりと南仲通の間の町。安政六年(一八五九)横浜開港に際して設置され、道幅一〇間、横浜のメーンストリートであった。当初は一―五丁目まであり、一丁目は五町の各二丁目の西側にほぼ南北につけられ、その中央を西から東に二―五丁目が置かれるT字形の町であった(「横浜町割図」保土ヶ谷宿本陣記録文書)。一丁目の通りはのちに馬車道ばしやみちに改変された。明治四年(一八七一)海辺通かいへんどおり・北仲通・南仲通・弁天通べんてんどおりの四町とともに東から西へ一―五丁目が数えられるように変更された(横浜沿革誌)


本町
ほんまち

[現在地名]宮津市字本町

大手おおて橋より西へまっすぐに延びる本町筋の両側を占め、北は魚屋町うおやまち、南は万町よろずまち、西は白柏町しらかせまちと接する。

六幹町の一つで(→宮津城下、幹町としての本町分には波路町はじまちを含んだ(前田家本元禄一六年城下絵図)。「京極丹後守様御上地町地子並ニ家別」(「宮津事跡記」所引)に反別一町六反三畝七歩五分、地子米一九石三斗四升三合九勺、家数一二六軒とある。

元禄一六年(一七〇三)の城下絵図(前田家本)に「本町西東町ノ長サ二百八間一尺五寸、道幅二間四尺五寸、表行十三間也、(中略)川水幅一尺八寸」とある。「川水幅」とは道の北側端を通っている水道(小川)のことか。

なお同絵図には家数七三軒とあるが、幹町としての本町分には、このほかに波路町五三軒、波路町散田二軒を含む。


本町
ほんまち

[現在地名]むつ市本町、柳町一丁目の一部

田名部たなぶ町の中央に位置し、東に明神みようじん町、北にやなぎ町、西に小川こがわ町、南に田名部川を隔ててしん町がある。野辺地のへじ(現上北郡野辺地町)方面より大畑おおはた(現下北郡大畑町)方面へ通じる街道筋にあたり、西へおそれ山参道が延びる。

藩政初期の頃からみえる田名部五町の一。雑書の寛文七年(一六六七)四月六日条に「同所(田名部)本町 宇右衛門」とあり、宇右衛門は佐井さい(現下北郡佐井村)清兵衛とともに田名部一帯の檜山などを四千三〇〇両で請負っている。


本町
ほんまち

[現在地名]臼杵市臼杵 本町

城下の南東部にあり、北はしん町。東の臼杵城大手口付近のつじから当町を経て南西の畳屋たたみや町へと貫く通りの長さ二町一〇間余に両側町を形成し、辻からの入口と仁王座におうざ村の侍町へ通じる小路との二ヵ所に木戸が設けられた(幕末頃「臼杵城下絵図」臼杵図書館蔵)。当町はもと横浜よこはま町と菊屋きくや町の一部とが合わさって慶長二年(一五九七)には成立していた(臼杵藩旧貫史)


本町
ほんまち

[現在地名]彦根市本町一―三丁目

京橋下片原きようばししもかたはら町の南にあり、京橋通の東に上本町、西に下本町と分れ、いずれも両側町(天保城下絵図)。彦根城下の町割は慶長九年(一六〇四)当町から進められた。城下内町の四手組の筆頭である本町手の中心で、内町四町の一。上本町辺りはもと彦根村の地であったと伝え、彦根町地割事(長谷川文書)によれば油屋弥次兵衛・慶山は城下建設前からの住人という。元禄八年大洞弁天寄進帳に町名がみえ、軒数二二六のうち借家一七二、男五三六・女四五一(下人一七九)、代官の若林又左衛門・山中彦左衛門・上田弥助・中村市右衛門といった藩役人の屋敷があったことが知られ、町年寄は酒屋青根孫左衛門、町横目は板屋角田弥右衛門が勤めていた。


本町
ほんまち

[現在地名]刈谷市銀座ぎんざ

刈谷城の町口門を出てした町と分れ、さかな町と並行して東に続く。東の端に札の辻ふだのつじがあり、その先はなか町。また南横みなみよこ町・寺横てらよこ町がここから分れる。西の下町と分れるところは坂になっていて、荷車を通すのに苦労するところで、ここを本町坂下ほんまちさかしたとよんだ。坂を少し上ったところの南側に正覚しようかく寺があったが、宝永七年(一七一〇)寺横町に移った。北側に元禄以来の大商人である太田平右衛門の店があった。太田店は東店と西店に分れ、よろず物を扱った。また八百屋と旅籠屋米清があった。刈谷町では、市場が天明八年(一七八八)本町坂下の正覚寺門前で始まり、一時中絶したが、天保八年(一八三七)に復活し六斎市が開かれた。


本町
ほんまち

[現在地名]近江八幡市本町

宮内みやうち町の南に位置する。碁盤目状に区画された八幡町の東から数えて九筋目の南北路(本町通)に沿う両側町で、北ははま通、南は上筋かみすじ通を限る。北から順に本町元ほんまちもと(一丁目にあたる)、本町二丁目と続き、南端本町五丁目までの五町に割られ、「輿地志略」にも本町五町とある。東はたま町・庄神しようがみ町・小幡おばた町、西は池田いけだ町。元禄町絵図では浜通の北、八幡堀に宮内町とを結ぶ本町橋が描かれる。


本町
ほんまち

[現在地名]松山市本町三―六丁目

松山城下町西部の古町こまち地域を南北に貫通する幹線道路(現在の国道一九六号)に沿う。この町筋は、古くは南から檜物屋ひものや(檜物町とも。東側が城堀に面する片町)・本町・志津川しつかわ町・本町筋今ほんまちすじいま町と称し、今町の北端で東西に通る三津みつ道に突き当たり、行止りになっていた。紙屋かみや(東西の道)と交差する地点、城堀の北東角はふだつじとよばれ、松山藩の布達・制札がここに張り出された。また松山から諸地方への道程は札ノ辻を起点とした。

本町・志津川町は、慶長年間(一五九六―一六一五)松山城下町の設置とともにつくられたと伝えられ、寛永一二年(一六三五)の松山城下町図(伊予史談会蔵)に町名が明記されている。


本町
ほんちよう

[現在地名]根室市本町・梅ヶ枝町うめがえちよう

明治八年(一八七五)から同三三年までの根室郡の町。明治七年市街区画改正の議により根室村のうちが縦六〇間・横二八間に区画され、この一区画を二〇戸(各八四坪)に分割、翌八年に根室港沿いの東西道に沿った両側町を本町と命名した。花咲はなさき町・梅ヶ枝町とともに根室で最初に成立した(「事業報告」第一編)。根室市街地の中心部、根室港にやや突き出た地に位置し、正面北部海上に弁天べんてん島がある。しかし市街地の発展に伴う拡張の際に当町の飛地ができたので、他町と一部錯綜していた。


本町
ほんちよう

[現在地名]小田原市本町一丁目・同三丁目

宮前みやまえ町の西、中宿なかじゆく町の東、東海道沿いの通町。宮前町とともに小田原城下町の中心をなす。天正一九年(一五九一)の板倉勝重・加加爪政尚連署状(相州古文書)で「せいこの御つほ進上申候ものあし川右近、伝馬屋敷壱ケ所、只今罷有候屋敷壱ケ所」の年貢五〇〇文および諸役などが赦免され、さらに翌年の加加爪政尚書状(同文書)でも「蘆河屋敷之儀、代官小路九間廿間、此年貢弐百五十文、通小路六間十五間、此年貢弐百文」の赦免が再確認された蘆河あしかわ屋敷が当町にあり、戦国時代には通小路とおりこうじとよばれていた。


本町
ほんまち

[現在地名]飯山市大字飯山

福寿ふくじゆ町(広小路ひろこうじ)の西を南北に通じる町筋。飯山城下のうち最初にできた町人町の一つで、初めはした町と称した。慶長一九年(一六一四)一〇月城主堀直寄が高橋新兵衛ら四人にあてた書状(丸山史料)

<資料は省略されています>

とある。本町と改称の時期は不明であるが、愛宕あたご町・伊勢いせ町ができた頃(元禄以前)と推定される。

町の長さ三町五間五尺、元禄一一年(一六九八)の飯山城下町屋鋪検地帳(深堀竜吉氏蔵)によれば屋鋪四七、四一軒役。庄屋の伊勢屋清左衛門の間口二一間三尺を最大とし、屋号から磨屋二、塩屋三、油・炭・糸・塗師各一がある。東側広小路から御馬出おうまだし二ヵ所。ともに枡形あり。


本町
ほんまち

[現在地名]新宮市上本かみほん町一―二丁目・下本しもほん町一―二丁目・大橋おおはし通一―二丁目

速玉はやたま神社の鳥居前から丹鶴たんかく(新宮城)の大手門に至る東西の通りを挟む両側町。西から順に上中下の三町に分れ、町名は速玉神社の正面本通りの町であることによるという。

江戸時代初期頃の新宮古図(新宮木材協同組合蔵)では速玉神社鳥居から横町よこまち通までが「上ノ丁」、横町通から雑賀町さいかまち筋までが「本町中ノ丁」、その東が「本町下ノ丁」とあり、東西の長さはかみちようが六八間、中ノ丁が五九間半、下ノ丁が二四間であった。上本町付近は町家が多く、ほかに社人が住していた。中本町付近も町家で占められ、下本町付近は丹鶴城に近接することから町家のほかに侍屋敷が並んでいた。延宝九年(一六八一)七月二日付の材木問屋覚(新宮木材協同組合蔵)には当町の三人の材木問屋の名がみえる。


本町
ほんまち

[現在地名]加賀市大聖寺本町だいしようじほんまち

大聖寺町のほぼ中央部、八間道はちけんみちの算用場の東に東西に延びる北陸街道に面した町人町。寛永年間(一六二四―四四)の大聖寺町家図(伊東家蔵)、天明(一七八一―八九)以前の大聖寺図(金沢市立図書館蔵)には「はたご町」と記し、前者には町役は本役とある。また東端に「恩栄寺屋敷」を記すが、恩栄おんねい寺はのちに山中やまなか(現山中町)に移転。天明六年の大聖寺絵図によると町の南を熊坂くまさか川が流れ、算用場の東に接した地にも町家があり、南のうお町に出る小路沿いをいずみ小路、北のきよう町に出る道沿いを青草あおくさ町といった。


本町
ほんまち

[現在地名]出石町本町

八木やぎ町の北に位置する町人町。本町六ヵ町の一。出石封内明細帳、文化七年(一八一〇)の城下絵図などによると、竪町は八木町竪町の北側に並行する長さ二町八間三尺・幅三間五尺五寸の東西路の両側町で、道の中央を幅三尺の川溝が流れ、東は谷山たにやま川を境に魚屋うおや町、西は田結庄たいのしよう町に続いていた。南北路の横町は東西二筋あり、東側の上横かみよこ町は長さ三一間半・幅三間五寸の道の両側町で、道筋の中央を小溝が流れ、南は八木町の横町、北は宵田よいだ町の上横町に続いた。


本町
もとまち

[現在地名]宮古市本町・新町あらまち

山口やまぐち川の川岸から、北方山手の横町よこまち通まで、ほぼ南北に延びた町。小本家記録(小笠原文書)によれば、元和元年(一六一五)盛岡藩主南部利直が巡国の際に初めて町割がなされた。当初はたて山の山麓沿いにできた片側町であったが、その後黒田くろた村の百姓持地一五石余を屋敷地に編入、新たな町づくりが行われた(同記録)。寛永二一年(一六四四)の火災報告には「宮古本町屋敷二十六軒焼亡」(雑書)とある。なお同書に「此外御仮屋弐つ同時焼失」とあって、江戸時代初期には北閉伊きたへい代官所(のちの宮古通代官所)が近辺にあったことが知れる。元禄五年(一六九二)の町屋鋪表口改帳(伊香文書)によると道幅二間四尺、町の長さ一一一間九寸(ただし一間は六尺五寸)、屋敷数は三九。


本町
ほんちよう

[現在地名]室蘭市本町一―二丁目・幸町さいわいちよう栄町さかえちよう一―二丁目・舟見町ふなみちよう一―二丁目・山手町やまてちよう一―三丁目

明治六年(一八七三)から同三三年六月までの室蘭郡の町。絵鞆えとも半島の中央に位置する。ほぼ南北に走る札幌通さつぽろどおりは札幌通五丁目から同六丁目付近で東に大きく湾曲し、本町は札幌通六丁目西詰の橋手前から南に入る通り一帯で、札幌通を挟んで北は新堀しんぼり町・なか町、西は常盤ときわ(明治一五年「室蘭港市街図」北海道志巻二など)。町名由来は開拓使が将来の室蘭の中心地として位置付けたことによる(新室蘭市史)。明治六年一二月新室蘭の町名区域が決定し、「本町」は札幌通六丁目の「本町壱弐三丁目迄・弐拾六番屋敷横町」とされ(「室蘭郡各区並町名之義ニ付伺奉候書付」同書)、室蘭湾に対して外海側にあった。


本町
ほんまち

[現在地名]福江市福江町

福江城の北西に位置する。本町通をたて町とも称したとされる。寛永一一年(一六三四)の福江直りに伴って町割が行われた武家屋敷町の一つで、同年の屋敷数一一(五島編年史)。福江藩の上級家臣である青方氏・田尾氏・貞方氏・太田氏などの屋敷があった。寛文九年(一六六九)の盆念仏では例年どおり七日に仲間なかま町踊、八日に本町踊、九日に竪町踊などと定められている(「江戸御留守中覚書」同書)。文化六年(一八〇九)吉例の流鏑馬は本町・よこ町の競馬で行ってきたが差止めとなり、三尾野みおの大荒おおあらなどの花馬で行うことになった(「要書」同書)


本町
ほんまち

[現在地名]田辺市本町

上片かみかた町の北側を東西に通る熊野街道沿いおよび同街道に直交する大手筋沿いに形成された両側町。浅野氏による田辺城下経営時からの町。享和元年(一八〇一)の調べでは、熊野街道沿いの南側の町の長さ一一一間(万屋長衛前より大工清衛借家角まで、片町との境目に水道幅三尺)、北側の長さ一〇四間(一ノ瀬伝右衛門角より納屋嘉右衛門角まで)、大手筋沿いの西側の長さ六四間(小川南叔角より茶屋久左衛門角まで)、東側の長さ六九間(吉田周蔵角より谷屋惣衛角まで、上片町・袋町・下長町境目水道幅三尺)、以上間口計三四八間、ただし五三間半役(「田辺藩古記録」宇井文書)


本町
ほんまち

延宝年間(一六七三―八一)の衣下町の図によると、北はきた町、東は採養院さいよういん川の板橋でひがし町、南は大手おおて町、西は鳥山とりやま御屋敷(陣屋)に接する。陣屋に通ずる御蔵道があり、町の東側には子守こもり明神があり、採養院川が南流している。同図による家数六七軒、うち萱屋四四軒・板屋二三軒で、このうち座敷持の家が一軒ある。

「七州城沿革小史」によれば寛延二年(一七四九)には、家数は九六軒と増加し、高は八三〇石余である。この時挙母藩の用達人として苗字帯刀を許された挙母九人衆のうち四人が本町の者で、このうち、木川屋犬塚権兵衛は、肥料商を営み、矢作川堤防改修・悪水路井堰、他町と離れていた竹生たけお村と北村を町続きとした件で功があった。


本町
ほんまち

[現在地名]久居市本町

武家屋敷の東側に南北に細長く続く。町屋の中心で、商業店舗が軒を並べ、北から数えて一丁目から五丁目までに区別されるが、一丁目の旅籠はたご町へ曲がる辻が交通の要衝で、ここに高札場があった。文政一一年(一八二八)九月付の本町間口間数改帳(清水長夫氏蔵)によると、高札場のほかに、大手門の正面に間口七間四尺三寸の「御客屋」がある。このすぐ北隣に代々町名主を勤める信藤武左衛門の屋敷がある。本町一六四戸のうち間口七間以上の屋敷をもつ家は六戸で、信藤家のほか医師の小屋延庵らほとんどが姓をもち、なんらかの特権的な存在であったとみられる。


本町
ほんまち

[現在地名]桑名市本町

みや通の北にあり、南北の長さ一七〇間の町屋敷地。当町の中央に西へ向かう道があり、美濃街道に接続する。当町の南を上本かみほん町、中央を中本町、北を下本町と分称している。南西端に桑名宗社が鎮座しているが、明治一三年(一八八〇)に氏子総代が桑名の旧称である三崎みさきの旧名保存請願を行い、小字名として三崎と称するようになった。元禄家帳(「桑名市史」所収)には家数七二。家数も多く、かつ財政力もあるため、石取神事車は、上本町・中本町・下本町それぞれが一両ずつ出した。「当代記」には慶長一三年(一六〇八)「二月四日、伊勢国桑名本町家屋卅余焼亡、去々年午慶長十一年、十一月、遁火難町也」とあり、「慶長自記」(「桑名市史」補篇所収)では「本町下里忠兵衛ヨリ火出デ表家廿一焼ク」と記している。


本町
もとまち

[現在地名]福島市本町

なか町の北、奥州道中に沿って南北に延び、東に折れてうわ町に続く。南端付近の小路を東に入ると馬場ばば町となり木戸が設けられた。当町と上町の境は庭坂にわさか口と称された。延宝元年(一六七三)の福島町検地不納高反別帳写(福島市史)によれば、反別二町四反三畝余、高二四石三斗余。宝暦一一年(一七六一)の巡見使止宿ニ付諸事控帳(穀三文書)では、町の長さ二町三一間、家数一一〇。同年の福島惣町留帳(福島市史)によると竈数一一〇、寺一・山伏一、役馬一五。弘化四年(一八四七)の米屋数五(穀三文書)


本町
ほんまち

東横堀ひがしよこぼり川に架かる本町橋西詰より北御堂きたみどう(現本願寺津村別院)南端に通ずる本町通の両側町で、東から一―五丁目まである。本町一丁目の南裏の通り、本町橋西詰から八百屋町やおやまち筋の間をうなぎ小路(または絹張小路)といい、本町五丁目の西端の筋、南の北久太郎きたきゆうたろう町五丁目までの間をきつね小路といった(天保町鑑)。延享版「難波丸綱目」は本町の特色ある商売として糸屋・縫物師・縫物屋・呉服物を載せ、金銀粉梨子地薄所も多数ありと記す。「摂津名所図会大成」は「本街故衣行店」として、二丁目より四丁目にわたって古着の問屋が軒を並べるとする。大坂市中、近国近在の質流れを買集めて、諸国へ売出す問屋街であった。


本町
ほんまち

[現在地名]日野町村井むらい 本町上ほんまちかみ本町下ほんまちしも

日野村井ひのむらい町の東端に位置する。城下町割でも位置は同じで、本町通九ヵ町の東端にあたる。正徳五年(一七一五)の三町絵図では東隣の仁正寺にしようじ村との境を流れる堀に土橋が架かり、付近に「従是東仁正寺領」「従是西水口領」と刻された石碑がみえ、南側には滝之宮たきのみや神社が描かれる。江戸時代の家役銀は全戸本役(池内記録)、寛保三年(一七四三)には合薬屋三軒があった。文化五年(一八〇八)には木地屋一名がおり(君ヶ畑氏子狩帳)、紀州徳川家・武蔵川越藩主松平家や仁正寺藩などの御用達として藩財政に携わった辻宗兵衛をはじめ、文久元年(一八六一)には西田善右衛門・角屋又七・糸屋重平・角屋喜兵衛・彦根屋長兵衛などが大当番仲間に加入。


本町
ほんちよう

[現在地名]函館市本町など

昭和六年(一九三一)九月に設定された町で、千代ヶ岱ちよがたい町の北東に位置し、西は梁川やながわ町。それまで函館区大字亀田村かめだむらの字であった五稜郭通ごりようかくどおり湯川通ゆのかわどおりを中心に、字千代ヶ岱・字鍛冶村通かじむらどおりの一部を併せて町域とした(函館市字地番改正調書)。五稜郭築造の時、箱館湊からの資材運送のため、五稜郭から直線で湊に通ずる道(通称松川街道)が造られ、五稜郭本通と称した。


本町
ほんまち

[現在地名]武生市本町・もと町・天王てんのう町・神明しんめい

府中町の中央に位置する北陸街道沿いの町で、北は大黒だいこく町、南はきよう町に接する。正徳元年(一七一一)の府中惣絵図では道幅八間、また屋敷石盛も七・六石とあって府中町最大である。寛永二年(一六二五)の浅井永記録には当町を「上町五二軒」と記し(南条郡誌)、府中惣絵図以降現町名がみえる。安永三年(一七七四)の前田家文書では家数五六(武生市史)


本町
ほんまち

[現在地名]中区丸の内まるのうち二―三丁目

碁盤割の中央を貫き熱田に通じる本町筋の根元に位置し、城郭大手先にある。きよう町筋より南へすぎの町の間をいい、福井ふくい町に接する。幅員五間で、二間―三間の他の町より広い。慶長一六年(一六一一)開府と同時に清須きよす(現西春日井郡清洲町)の本町を移した。本町筋片端かたは角の東側(現愛知県産業貿易館辺り)に藩の評定所が、その西側に町奉行所が設けられた。藩主の参府帰国の行列や東照宮祭(四月一七日)の山車・神輿が通行し、送迎で賑った。


本町
ほんまち

[現在地名]野辺地町 野辺地

通称本町。野辺地村の町方のほぼ中央に位置する。奥州街道に沿って南北に長く延び、北は金沢かねざわ町、南はした町に接する。藩政期末の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図でみると、当町の西を南北に風呂ふろ小路が走り、南西には諸士町があって、野辺地代官所へ通じる。

雑書の延宝九年(一六八一)二月晦日条に「野辺地本町与治兵衛」とあり、当町の野坂与治兵衛が金沢町の小左衛門とともに野辺地檜山の運上を年三〇両で請負っている。野辺地村の町方の中心地で高札場が置かれ、天和二年(一六八二)に切支丹禁制ならびに忠孝奨励・毒薬売買禁止など、貞享五年(一六八八)に捨馬禁止、元禄一二年(一六九九)に人身売買に関する高札が立てられた(御領分高札集)


本町
ほんまち

[現在地名]清水市本町・清水町など

清水町八ヵ町の一で、かみ二丁目の南に続き、東はふくろ町。東縁はともえ川の河岸。元禄二年(一六八九)の湊役金割付帳(興津公民館蔵)によると役金負担軒数三六、うち一軒役二〇・半軒役一五、そのほか一四。寛延四年(一七五一)には諸問屋一六、うち諸色請払・同売買を兼ねる者一一、大廻船所有者四、材木・塩をおもに取扱う者九、魚取扱い一(重複を含む)、ほかに米屋一三・質屋三・酒造一があり、清水町の中心であったことがうかがえる(旧八木家文書)


本町
ほんまち

[現在地名]福山市城見しろみ町二丁目・えびす

府中ふちゆう町の北に続き、北は吉津よしづ川に至る。また府中町の西、本町ほんまち筋の北端部をも町域とする。福山城の東の町家として最初にできた町で、城下町形成当初には神辺街道を経て城下に至る入口として惣門が置かれていた。この頃には惣門からはま(入江)ほん橋に至る本町筋がいちばん繁華な町筋であったが、水野勝貞の頃に惣門が東方の橋南詰に移されたため、賑いは本通ほんどおりに移り、本町筋はしだいに衰えた。


本町
ほんまち

[現在地名]岐阜市本町

加和屋かわや町の西に位置する東西に延びる両側町。西は釜石かまいし町に至り、町東端付近南側から靭屋うつぼや町の町並が南に延びる。町西端を北に折れると布屋ぬのや町、南に折れると上竹屋かみたけや町。岐阜町四四町の一で、斎藤道三による城下町建設に際し成立したという。承応町絵図に「札木町」とみえ、享保年間(一七一六―三六)の成立と推定される町絵図(徳川林政史研究所蔵)には本町とみえる。岐阜由緒書(小林文書)では地子免許地反別六反五畝余。


本町
ほんまち

[現在地名]飯田市本町

城域と町家を画して南北に走る堀端の西に位置する。追手門の西に直線的に道が走り、町家が道の両側に立ち並ぶ。

天正一八年(一五九〇)小田原城攻めの功績により毛利秀頼が再び飯田城主として居住した際に本町一丁目・二丁目をつくったといわれる。更に翌年に二丁目の続きにあった十王じゆうおう堂を箕瀬羽場みのぜはばに移し十王堂町とした。慶長三年(一五九八)に十王堂町は本町三丁目となった。城下町の追手門に直面するため、本町と名付けられたといわれる。

飯田商業の中心地で問屋街であった。享保一〇年(一七二五)の地子は一〇五俵余で、その代金は三〇両一分余であった(町方役用記録)

「飯田商業史」によると、慶長六年与惣兵衛(本町二丁目)が惣町問屋に任ぜられ、翌七年には問屋を設置した。


本町
ほんちよう

[現在地名]沼田市 上之町かみのちよう中町なかまち下之町しものちよう

城の南を東西に走る通りで、西からふくろ町・下之町・中町・上之町の四町からなり、上之町の東端で南北に走る材木ざいもく町に当たる。本町通からは西から鍛冶かじ町・坊新田ぼうしんでん町・馬喰ばくろう町の三筋の通りが延びる。平姓沼田氏年譜(金子文書)によると、永禄三年(一五六〇)材木町・本町・鍛冶町の三町を城を囲むように割立て、根岸ねぎし(榛名村)の住人を移したのが沼田城の町場の始まりという。


本町
ほんまち

[現在地名]大畑町大畑 本町

大畑町のほぼ中央部に位置し、東はひがし町、北はしん町、南西はみなみ町と接する。南町と並ぶ大畑町の最初の町場で、文禄―慶長(一五九二―一六一五)の頃に開けたとされる(大畑町誌)。本来はもと町で、おお町とも称した。享和三年(一八〇三)の仮名付帳に大町とあり、家数は六九軒。文化元年(一八〇四)の陸奥国郡村仮名付帳(岩手県盛岡市中央公民館蔵)には本町とある。


本町
ほんちよう

[現在地名]鰺ヶ沢町本町

弁天べんてん崎から東の湾岸にあり、西はあら町、東は七ッ石ななっいし町に接し、一丁目と二丁目に分れる。町の中央南の台地上に御仮屋跡がある。

この地域で最も早く発達したと思われ、親町すなわち本町とよばれたという(鰺ヶ沢町史)。貞享四年(一六八七)の検地帳に本町とあり、家数一二九。元禄一六年(一七〇三)の鰺ヶ沢町の絵図(鰺ヶ沢町史)には一丁目に七〇軒、二丁目に八九軒ほどみえるという。嘉永三年(一八五〇)の「東奥沿海日誌」に「是より岬を内へ入て則家並愈宜しく成ける。


本町
ほんまち

[現在地名]吉田町本町

北は横堀よこぼり川によって家中町と分離され、東側はうら町、西方は魚棚うおだなに接する。現在も商店の立ち並ぶ市街地で、開藩以来続いている商家も多い。

南北に走る街路に面する細長い区域で、北から一丁目・二丁目・三丁目に区画される。宝暦一一年(一七六一)の御町中役家数元帳によると一丁目の家数一六軒、二丁目一九軒、三丁目一九軒となっている。一丁目には藩の出納事務あるいは古金銀の両替などを行い金融業も営んでいた御掛おかけ屋とよばれる商家がある。


本町
ほんまち

[現在地名]八代市本町一―四丁目・ふくろ

城の南西に位置する。東西に延びる道路に沿い、城下町のうちもっとも商家が多く、中心的な役割を果していた。北は金屋かなや丁・桶屋おけや町、南は紺屋こんや町・七日なのか町、東はまえ川の堤防に沿い、西は九日ここのか町と境する。町内には駅所・御客屋があり、賦木春日ふきかすが社、同社の社僧金立こんりゆう院などがある。


本町
ほんまち

[現在地名]宇和島市新町しんまち一丁目・中央ちゆうおう町一―二丁目・本町追手ほんまちおうて一―二丁目

宇和島城下の商人町の中心。一丁目から五丁目まであった。小字に辻井戸横丁つじいどよこちようよこヶ横丁・増原ますはら横丁(増原某の酒造所があった)奈良屋ならや横丁がある。奈良屋は、奈良屋饅頭や宇和島名産の唐饅頭の元祖であるという。

「町方」(伊達家史料)には、寛延四年(一七五一)に四丁目の茶屋惣兵衛、翌宝暦二年に二丁目の近江屋久左衛門、同八年に五丁目の松屋藤七、同九年に一丁目の来村屋文左衛門の名がみえる。


本町
ほんまち

[現在地名]唐津市本町

うち町の東部にあり、南北に通る町並で、唐津城築城時の町割でできた。住人は商人と職人が半ばし、藩の御用米問屋の米清中川家、日田御用達を勤めた鶴田屋谷崎家、料理屋お多福屋深見家、菱屋立花家、富永屋富永家、職人では屋根師棟梁の吉岡家、樋師棟梁の大西家、木挽棟梁の楠田家、御用仕立屋副田家があった。特異なものでは出雲講の宿があり、文政年中(一八一八―三〇)藩の武具方の皮座を勤めた楠田倉右衛門がいた。肥前国産物図考には本町の線香屋が記される。現在唐津神社に合祀する稲荷社も、この町にあった。

町の中ほどには土井氏の頃から、他藩の公式来訪者や幕府の役人などが泊まる御使者屋があり、小笠原氏の頃からは町会所兼郷公所としても使われ、町人の宗門改人別もここで行った。


本町
ほんちよう

[現在地名]石狩市本町

明治四年(一八七一)から同三五年までの町。石狩郡のうち近世末期に形成された石狩市街の一町で、石狩川河口近くの左岸から海岸に通ずる町域。「石狩国地誌提要」に「川西」として「本町」がみえる。石狩川に面し、東はなか町・よこ町、北は弁天べんてん町に接していたので、商店・貸座敷・料理屋・風呂屋・宿屋・写真屋が立並ぶ繁華な土地で、横町に接して法性ほうしよう寺があった(石狩町沿革史)


本町
ほんまち

[現在地名]亀岡市本町

大手門前の制札場から西の紺屋町こんやまちへ突き当る東西の町並。東端大手門前は南北に新町しんまちが続き、西端は南北の町並紺屋町に続く京街道筋である。

地内は荒塚あらつか村分内で、荒塚村の住民が築城の際移住させられ町並をつくった。長さ一二四間、天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」では戸数四三。


本町
ほんまち

[現在地名]大和郡山市本町

名称からみて天正一一年(一五八三)筒井順慶が城下町を取立てた頃に成立をみたものであろう。同一六年の郡山惣町分日記(春岳院文書)にも現れる内町(箱本)一三町のうち。


本町
ほんまち

[現在地名]福井市順化じゆんか二丁目・中央ちゆうおう三丁目

北はこめ町、南ははま町。福井城大手門のさくら御門前に発達したため本町とよび、きよう町・呉服ごふく町と並ぶ城下の中心街。慶長年間北庄四ツ割図では本町東組ひがしぐみ・同西組とみえ、ともに家数は二六。


本町
ほんまち

[現在地名]舞鶴市字本

田辺城大手門の西北に位置する東西に長い町。町の中央を東西に本町通、南北に平野屋ひらのや通が通り、町の西端は高野たかの川に接しておお橋が架かる。細川氏の田辺築城に際して町屋として最初に開かれた町で(旧語集)、田辺御城図(成立年代は不詳だが細川氏時代を描くとされる。「田辺旧記」所収)ではこの辺りを単に「御城下町」と記す。享保(一七一六―三六)頃写された丹後国田辺之図(杉本隆司家蔵)によれば東西一四八間、幅三間。


本町
ほんまち

[現在地名]西条市本町

寛永開町当時から続いた町。大町おおまち村の有力商人弥次右衛門が移って開いた町。西条陣屋町の北東部に位置し、東は大師だいし町、南はひがし町・神拝かんばい村に接し、西は明屋敷あきやしき分、北は神拝村飛地に連なる。


本町
ほんちよう

昭和三年(一九二八)一月に成立した現在の苫小牧市の町名。東はおお町。町名の由来は、苫小牧村役場などが置かれた行政の中心地であったことによる。同年に苫小牧町大字本町が誕生、現在の本幸ほんこう町の一部を含む(「町名設定地番改正調書」苫小牧市立中央図書館蔵)。同一九年の大字廃止字名改称により苫小牧町本町となった(「苫小牧町字地番整理調書」同館蔵)。同二三年市制施行により苫小牧市本町となり、同四五年の住居表示実施で一―二丁目を設定し、一部を本幸町一―二丁目に移す(住居表示新旧対照表)


本町
ほんまち

[現在地名]西尾市本町

須田すだ町から城下町の中心部に至る町。ほぼ直線の城下町の中枢部で、道幅二間。西側に間口二〇間に及ぶ富商・御用商人が軒を並べた。三浦城主時代の町人屋敷図ではすでに東側に二八、西側に二三戸を数える。薬屋広瀬九八は、「一延宝元癸(丑)五月開店、当代より十一代前広瀬九左衛門ヨリ連続専業仕り候」と系図に記し、寛文二年(一六六二)須田町から本町に移転、堺屋を屋号とし、薬王軒とも唱え、長崎の薬問屋とも取引し、たばこ・塩・木綿も扱ったという。


本町
ほんまち

[現在地名]土浦市中央ちゆうおう二丁目

土浦城の東に位置し、慶長九年(一六〇四)頃に整備された町屋。元文年間(一七三六―四一)の東崎町分戸別図(土浦市立図書館蔵)には、桜橋から水戸寄りに進んで左折するまでが四〇間四尺、左折してから中町なかまち橋までが六三間二尺とあり、桜橋には札場、左折するところに番所が描かれている。


本町
ほんまち

[現在地名]高知市本町一―五丁目・さかい

帯屋おびや町の南側、東は外堀、西は升形ますがたに至る東西八町二九間三尺(南路志)の侍屋敷町。寛文九年(一六六九)の城下町絵図に「本町筋」とみえる。町名は城下で最初に開かれたことにちなむという。天保一二年(一八四一)の城下町絵図に「本町八丁」とみえる。本町では毎年正月一一日に、町の大通りで馭初式が行われ、藩主は観覧櫓で閲兵した。


本町
ほんちよう

大正一一年(一九二二)四月に成立した現在の室蘭市の町名。絵鞆えとも半島の中央部に位置し、西は内浦湾の電信でんしん浜の一部。もとは室蘭区大字本町ほんちようの一部で、大正一一年四月に室蘭区本町となった(「大字廃止及町名番地改称の件」昭和一六年室蘭市史)。同年八月の市制施行により室蘭市本町となる。昭和四一年(一九六六)住居表示が実施され、一―二丁目を設定(第四次住居表示新旧対照表)


本町
ほんちよう

[現在地名]夕張市本町

夕張市の北西部、志幌加別しほろかべつ川とポンポロカベツ川の合流点にある行政の中心地。もとは夕張炭鉱の事業地に隣接し、行政施設のほか住宅や商店などが集中する地区。夕張炭鉱開鉱当時は北海道炭礦鉄道会社(北炭)の鉱業用地として宮内省御料局からの貸下げ地であったが、明治二五年(一八九二)北炭が市街地区域を返還、御料局が市街地一区から五区までに再区画し一般に貸下げを行った(夕張市史)。大正八年(一九一九)の字名設定時、五区までの市街地を再編して本町が成立した。


本町
ほんまち

[現在地名]和歌山市湊本みなとほん町一―三丁目

北の紺屋こんや町と並行する町人町で、東から一―三丁目に区分され、東のほり(伝法川)にかかる寄合よりあい橋で内町うちまち地区と通じていた。寄合橋は町方支配で、「紀伊名所図会」に「当津の眼目、街道の咽喉にして、金城の北辺にあり。


本町
ほんまち

[現在地名]豊橋市新本しんほん町・札木ふだぎ町・うお町・かや

上伝馬かみでんま町から東に折れた所に位置する表町。寛延三年(一七五〇)の吉田二十四町差出帳(橋良文庫蔵)によると、高二四石余、戸口は三六軒・二二〇人、うち男一三〇・女九〇である。


本町
もとまち

昭和二七年(一九五二)に設定された。北は山下やました町・美芳みよし町など、東は南仲みなみなか町、南は常盤ときわ町・とん田東でんひがし町。北境は石北せきほく大通(地下はJR石北本線)、南境を国道三九号、西境はとんでん(西三号)が通る。


本町
ほんまち

[現在地名]七戸町 七戸

通称よこ町の一部。七戸村の町方の中心に位置する。藩政期末の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図によれば奥州街道の西に東西に延び、北はうしろ小路、南はうら町、東は横町に接する。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に家数二七とあり、享和三年(一八〇三)の仮名付帳では二八、うち給人八。


本町
ほんまち

[現在地名]大洲市大洲 本町一―三丁目

大洲城下町の北端にあって、ひじ川の南に川筋と平行した東西の通り、長さ三町余。寛永二〇年(一六四三)の大津惣町中之絵図(大洲町役場旧蔵)によれば、町の北側に三八軒、南側に四二軒の町家があり、慶安四年(一六五一)の大洲町十人組帳(菅菊太郎氏蔵)によれば、十人組が一二組あり、一〇八人の町人が住んでいた。幕末期(一八六〇年頃と推定)の大洲町内図(滝正市氏蔵)によると、本町は西から東へ一丁目・二丁目・三丁目に分れていた。


本町
ほんちよう

昭和二四年(一九四九)大字留萌村の一部を区画して成立。大字留萌村の留萌通るもいどおり瀬越通せごしどおり南大通みなみおおどおり南山手通みなみやまてどおり市街しがいの一部で一丁目から四丁目まで設置。同二五年の戸口は四二二戸・二千一四四人(留萌市統計書)


本町
もとまち

[現在地名]旭川市本町

昭和四年(一九二九)四月に新設された町。明治三五年(一九〇二)三月までは鷹栖たかす村のうちで、同年四月旭川町に編入された旧鷹栖村字近文あざちかぶみに相当する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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