精選版 日本国語大辞典 「本町」の意味・読み・例文・類語
ほん‐ちょう‥チャウ【本町】
- [ 1 ] 都市の中心の町。最初にできた町。
- [初出の実例]「川原町よりつら役場、本町へおしまはし、見めぐり候」(出典:梅津政景日記‐慶長一七年(1612)三月二九日)
- [ 2 ] 東京都中央区日本橋の地名。江戸時代は現在の日本橋本町二・三丁目、日本橋本石町二・三丁目、日本橋室町二・三丁目の一帯を含めて呼ばれた。江戸屈指の目抜き通りで、金座・桝座のほか老舗・豪商が軒を並べていた。
沼津三町の一で、沼津本町ともいう(天保郷帳など)。沼津町の西部から南部を占め、南西は海(駿河湾)に面し、海浜に沿って松林(千本松原)が続いていた。町の東辺を南流する
酒田湊に沿って東西に連なる両側町で、東は
慶長五年(一六〇〇)の出羽合戦で酒田湊町は焼失し、焼跡を町割して一ノ丁小路は
貞享三年(一六八六)の家数は一丁目二一、二丁目二〇、三丁目三三、四丁目二〇、五丁目一九軒半、六丁目一七軒半、七丁目一五。この年から一―三丁目を上本町、四―七丁目を下本町と称した(「酒田御町三組古控」飽海郡誌)。天保一二年(一八四一)の家数一二八(「合浦珠」酒井家文書)。明治三年(一八七〇)の総家数並寺院畝数調(野附文書)では家数上本町六五・下本町九三、ほかに新庄役所一棟、米相場座一棟。
備中国奉行小堀作助支配時代の元和二年(一六一六)にできた町人町で、城下六町の一(「松山御城主暦代記」高梁市立図書館蔵)。北は
元禄(一六八八―一七〇四)初年改では町の長さ三町、家数八二、うち往来の東側四二・西側四〇(御家内之記「水谷史」芳賀家蔵)。藩主石川総慶時代には家数六七、うち間口一・五―二間が一五、同二・五―三間が一六、同三・五―五間が二一、同六―一〇間が一一、同一二間が一、同一八間が二、同二八間が一(「松山城下絵図」三重県亀山市立図書館蔵)。間口三間以下が三七パーセントを占めるが、これは新町の六九パーセント、下町の五一パーセント、鍛冶町の六六パーセントに比べるとかなり低率である。延享元年(一七四四)の宗門改では人数五三四、うち男二八四・女二五〇(前掲差出帳)。
五条通から南に向かう
明治維新前は大多数が下京巽組新シ町大仏組に属して洛中同様の町組を形成し、新正面町(現新五丁目)・新六町目・七町目の三町のみはこの町組に属さない。開町が遅れたとも察せられるが、寛永一四年(一六三七)洛中洛外惣町数人家数改日記(「半日閑話」所引)で所在が明らかである。総じて、各町は市街化が早期に完了したといえる。各町名は一部を除き、地誌では寛文五年(一六六五)刊「京雀」、地図では承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図にみえるのが早い。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」の伏見街道の項に各町の位置を記し、文政三年(一八二〇)の下京軒役分割帳(占出山町有文書)に軒役を記す。
須賀川宿を構成する四ヵ町の一で、最南端を占める。二階堂氏の時代にも町屋が並び、
城下町の中心をなす東西通で、西は南北の
福岡城下六丁筋の町。東西に延びる通りの両側町で、西は
蛇ノ崎橋から続く羽州街道を北へ折れた道路沿いの町。東は横手川から横手城二の丸北麓まで続く内堀と土塁を隔てて下根岸町、西は平行する
「梅津政景日記」元和四年(一六一八)一一月一八日条に、政景が金沢から横手に着いた時、「須濃州本町迄御出合被為合候」とあるが、寛文九年(一六六九)の横手絵図面(横手郷土史資料)には表町小路五九戸がみえ、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には表町二四八間余とある。町は通りに直交して東の下根岸町に通ずる道路南の上丁、同北の中丁、中丁北端から東の搦手口に通ずる道路北の下丁の三丁に分れるが、横手絵図面にも「六郡郡邑記」にも丁名はみえず、明治一四年(一八八一)の「郡区町村一覧」にも本町とだけある。
横手古今大番帳目録(横手郷土史資料)に、慶長八年(一六〇三)「本町給人指南は須田美濃守盛秀」とあって、須田氏の本町給人支配は三代続いた(同書)。
城の南側に位置し、
正保三年(一六四六)の津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)には、大部分が町屋として町割される。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)では鍛冶町と記され、七〇軒余の屋敷のうち鍛冶が五三軒余。また町内東側は
伊勢崎城の南側を東西に通り、南東方への江戸道、西方前橋道へつながる幹線筋沿いに形成された両側町。慶長六年(一六〇一)に入封した稲垣氏時代からの町。寛永一九年(一六四二)の検地帳および書継文書である屋敷寸間帳(いずれも伊勢崎市立図書館蔵)によれば、町の北側は大手門前小路に続いて一番屋敷が始まり、東六番屋敷の一角には牛頭天王屋敷がある。さらに東へ一七番屋敷弥次右衛門宅は伊勢崎町の本陣で、屋敷のなかに制札が建っていた。北側は二一番屋敷まで。一方南側は表門の先角の二二番屋敷から始まり、三三番屋敷の忠左衛門は酒井忠能の御用達を勤めた。四二番屋敷まであり、南・北ともに二三軒ずつの四六軒の家並である。宝暦一三年(一七六三)の書付(伊勢崎町新古日記)では道幅六間、長さ二一〇間、家数八六、うち店借二二。
大町三丁(一―三丁目)から南に本町四―六丁目と続く町並だが、大町と違い脇町であり、他町扱庄屋支配下にあった。本町四丁目家督の史料(羽生氏蔵)に、「慶長年中絹布・木綿切其外品々商売致来候所、元和年中夫々家督被定下候節、絹布、木綿切売、永久家督ニ被居下候、以来丁内難取保ニ付、元禄年中絹布、木綿、古着解分商売願申上候処、右品々願之通被仰付、連綿罷在候」とある。大町三丁と同様、本町三丁も慶長年間(一五九六―一六一五)の町割で、家督は大町三丁の絹・木綿布・古手類商売家督に「切売家督」として規制された。正徳元年(一七一一)九月、本町五丁目も木綿切売の家督を奉行所に願い出たが却下され、享保一九年(一七三四)に木綿切売年切りの家督を得た(大町三丁目記録 永代帳)。
小諸城の大手門の東北方にあり、門の近くが本町、
元和八年(一六二二)一二月の佐久郡高書上帳(柳沢文書)に「五百廿七石弐斗 本町」とみえる。大井伊賀守忠光が長享元年(一四八七)
慶長一五年(一六一〇)一〇月の「田野口組・畑村組・長右衛門組・望月組貫目御帳」(竹内文書)に「弐百八拾八貫文 小諸村、拾弐貫文 とうふ坂(うとう坂)同所」とみえる二村の旧地は、現本町の北方斜面にあり、
都城領主館の北、
松本城下町の中心町で、親町三町の一。中山道
「信府統記」に「本町 南北ノ町ナリ、長五町二十五間半、或ハ四町五拾七間半共、家数百二十七軒、南木戸際左右土手列樹松、柵アリ、堀切広サ三間、長九間余、町幅三間三尺、町番所三ケ所、内二ケ所ハ夜ル計リ番人居ル、光明院 南木戸外高札場西ニアリ、浄土宗ナリ、極楽寺 東側ニアリ、浄土真宗ナリ、寺家三軒アリ、元禄九丙子年本町ヘ大門明ク、裏門天神馬場喰違ノ土手の脇ヘ出ル、天神馬場小路 東側ニアリ長サ三三間、幅二間三尺、木戸アリ、鍋屋小路 東側ニアリ、長サ百四十六間、宮村町マデ幅二間半、堰共ニ町番所アリ、生安寺 西側ニアリ、浄土宗ナリ、寺家三軒、寺内ニ薬師堂アリ、大門ノ長二十三間半、幅三間、玄知小路 東側ニアリ、幅三間、堰共ニ、宮村町マデ百四十七間半、町同心番所伊勢ヘ入北ノ角ニアリ、町同心小路西側ニアリ、幅一間四尺、長二十三間、元禄九丙子年明ク、大手入口橋長十一間幅二間一尺」とある。
元禄期城下侍屋敷等絵図(同館蔵)によれば惣門前高札場のある札の辻に接する上ノ町は町の長さ七八間一尺、米屋・袋屋・布屋・鍵屋・分銅屋・桶屋など商種を推量させる屋号をもつものや、出自が推量される山口屋・福島屋・因幡屋などの屋号をもつ有力商人が居住。
川越城西大手の正面から西に延びる道の両側町。町人町で、城下一〇ヵ町のうち
城郭の北に東西に延びる中山道の両側町。中山道にしたがって南に短折して
山崎城下一一ヵ町の一つ。山崎郭内の藩邸・家中屋敷と城下町とを区切る外堀の北側に位置する。元和元年(一六一五)池田輝澄の屋形が出来てから城下の整備が進み、それ以前の山崎村の一部が本町となった。城下の中心的な町で、中央部に
和歌山城三の丸の
六幹町の一つで(→宮津城下)、幹町としての本町分には
元禄一六年(一七〇三)の城下絵図(前田家本)に「本町西東町ノ長サ二百八間一尺五寸、道幅二間四尺五寸、表行十三間也、(中略)川水幅一尺八寸」とある。「川水幅」とは道の北側端を通っている水道(小川)のことか。
なお同絵図には家数七三軒とあるが、幹町としての本町分には、このほかに波路町五三軒、波路町散田二軒を含む。
刈谷城の町口門を出て
松山城下町西部の
本町・志津川町は、慶長年間(一五九六―一六一五)松山城下町の設置とともにつくられたと伝えられ、寛永一二年(一六三五)の松山城下町図(伊予史談会蔵)に町名が明記されている。
とある。本町と改称の時期は不明であるが、
町の長さ三町五間五尺、元禄一一年(一六九八)の飯山城下町屋鋪検地帳(深堀竜吉氏蔵)によれば屋鋪四七、四一軒役。庄屋の伊勢屋清左衛門の間口二一間三尺を最大とし、屋号から磨屋二、塩屋三、油・炭・糸・塗師各一がある。東側広小路から
江戸時代初期頃の新宮古図(新宮木材協同組合蔵)では速玉神社鳥居から
明治六年(一八七三)から同三三年六月までの室蘭郡の町。
延宝年間(一六七三―八一)の衣下町の図によると、北は
「七州城沿革小史」によれば寛延二年(一七四九)には、家数は九六軒と増加し、高は八三〇石余である。この時挙母藩の用達人として苗字帯刀を許された挙母九人衆のうち四人が本町の者で、このうち、木川屋犬塚権兵衛は、肥料商を営み、矢作川堤防改修・悪水路井堰、他町と離れていた
通称本町。野辺地村の町方のほぼ中央に位置する。奥州街道に沿って南北に長く延び、北は
雑書の延宝九年(一六八一)二月晦日条に「野辺地本町与治兵衛」とあり、当町の野坂与治兵衛が金沢町の小左衛門とともに野辺地檜山の運上を年三〇両で請負っている。野辺地村の町方の中心地で高札場が置かれ、天和二年(一六八二)に切支丹禁制ならびに忠孝奨励・毒薬売買禁止など、貞享五年(一六八八)に捨馬禁止、元禄一二年(一六九九)に人身売買に関する高札が立てられた(御領分高札集)。
城域と町家を画して南北に走る堀端の西に位置する。追手門の西に直線的に道が走り、町家が道の両側に立ち並ぶ。
天正一八年(一五九〇)小田原城攻めの功績により毛利秀頼が再び飯田城主として居住した際に本町一丁目・二丁目をつくったといわれる。更に翌年に二丁目の続きにあった
飯田商業の中心地で問屋街であった。享保一〇年(一七二五)の地子は一〇五俵余で、その代金は三〇両一分余であった(町方役用記録)。
「飯田商業史」によると、慶長六年与惣兵衛(本町二丁目)が惣町問屋に任ぜられ、翌七年には問屋を設置した。
町の中ほどには土井氏の頃から、他藩の公式来訪者や幕府の役人などが泊まる御使者屋があり、小笠原氏の頃からは町会所兼郷公所としても使われ、町人の宗門改人別もここで行った。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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