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江戸の町々を支配した幕府の役職。他都市の町奉行の場合には都市名を冠したが(大坂町奉行、伏見(ふしみ)町奉行など)、江戸の場合のみ単に町奉行と称した。寺社・勘定両奉行とともに三奉行という。
[吉原健一郎]
1590年(天正18)の徳川家康関東入国以来、板倉勝重(いたくらかつしげ)・彦坂元正(ひこさかもとまさ)が町の「御代官」として町支配を担当していたが、彼らは同時に村方の支配も兼ねていた。1601年(慶長6)には徳川秀忠(ひでただ)の側近であった青山忠成(あおやまただしげ)・内藤清成(ないとうきよしげ)が町支配を担当したが、これも「関東総奉行」とよばれた広域行政官であった。町支配の専任行政官の最初は、1631年(寛永8)の加々爪忠澄(かがづめただすみ)・堀直之(ほりなおゆき)であるとする説、1638年の酒井忠知(さかいただとも)・神尾元勝(かみおもとかつ)(1640年とも)とする説の2説が有力である。
[吉原健一郎]
町奉行所は住居と役宅を兼ね、一般に「御番所」とよばれた。常盤橋(ときわばし)門内(千代田区大手町2丁目)にあった北番所は1707年(宝永4)に火災で類焼し、数寄屋橋(すきやばし)門内(中央区銀座4、5丁目)に移転したため、以後は幕末まで南番所と称された。常盤橋の南にあった呉服橋(ごふくばし)門内(千代田区大手町2丁目)の番所は当初は南番所であった。しかし、1698年(元禄11)に類焼し、鍛冶橋(かじばし)門内(千代田区丸の内1丁目)に移転した。さらに1702年に呉服橋門内の南側に新番所が建てられ、先の数寄屋橋門内の南番所が新設されたため、中番所(なかばんしょ)と称されたが、1719年(享保4)に廃止となる。上記の新番所は1717年に常盤橋門内へ移転、さらに1806年(文化3)に呉服橋門内に移転するが、数寄屋橋門内の南番所との位置関係は変わらず北番所とよばれた。
[吉原健一郎]
町奉行は老中のもとで町の支配に従事した。旗本のなかから人材が選ばれ、1666年(寛文6)に役料として米1000俵が支給されたが、1723年(享保8)には役高3000石となり、それ以下の者も在職中には差額が支給された。職務内容は江戸市中の町人地支配に関する全体的な業務である。町奉行のもとには、町人支配機構として町年寄以下の町役人、小伝馬町(こでんまちょう)牢屋敷(ろうやしき)の獄吏、本所奉行(ほんじょぶぎょう)(のち本所道役(みちやく))などがある。さらに、寺社奉行・勘定奉行とともに評定所(ひょうじょうしょ)(幕閣の最高合議機関)に参加し、政策決定に参与した。執務は月番交代制で行われ、非番の月には表門を閉ざしていたが、継続している訴訟などの業務や相互の協議(内寄合(ないよりあい))を行っている。業務は多忙であり、市中の治安維持をはじめ、裁判など民政全般にわたり、上水や新田開発業務に従事したこともある。大火にあたっては自身も出馬して現場の指揮にあたった。他の職に比して在職中の死亡率も高かった。
[吉原健一郎]
町奉行所の下僚である与力(よりき)・同心は、1719年(享保4)以降には南北奉行所に与力各25騎、同心各100名が配属された。幕末には同心の数が増加している。与力は禄高(ろくだか)200石以下で、上総(かずさ)・下総(しもうさ)(千葉県)でまとめて1万石の給地が与えられた。同心は30俵二人扶持(ぶち)が原則であった。与力・同心の分掌は享保(きょうほう)(1716~1736)以前には歳番(としばん)、牢屋見廻(みまわ)り、町廻りの3種であったが、享保の改革で7業務が加えられた。のちには同心のみの業務として三廻り(定町(じょうまち)廻り、隠密(おんみつ)廻り、臨時廻り)が確立した。時代が下るにつれて分掌は増加していく。
町奉行は市政の直接担当者であったから、町人の関心も強く、歴代の町奉行に対する風評も多い。なかでも大岡忠相(おおおかただすけ)や遠山景元(とおやまかげもと)には名奉行の伝説が生まれ、現在も継続している。彼らの実績とともに、江戸町人の町奉行に対する願望が、こうした伝説を生み出した。
[吉原健一郎]
『所理喜夫・南和男著「町奉行」(西山松之助編『江戸町人の研究 第4巻』所収・1975・吉川弘文館)』
江戸幕府職制の一つ。江戸時代に単に町奉行といえば,江戸の町奉行のことをいうのが普通である。江戸のうちで武家地と寺社地を除いた町地(約20%)を支配し,町および町人に関する行政・司法・警察・消防などをつかさどった。老中支配に属して芙蓉間に列す。定員2名(時に増減した)。寺社奉行,勘定奉行とともに三奉行と総称され,評定所一座の構成員として中央官職の性質もあわせもった。激務のため,在職中の死亡率は他の役職にくらべて高い。旗本のなかから人材を登用し,役料は1666年(寛文6)1000俵であったが,1723年(享保8)より役高3000石,1867年(慶応3)より役金2500両と改めた。俊秀でないと務めにくい役職であったため,500石,1000石といった少禄のものから抜擢されることが少なくない。著名な根岸鎮衛,矢部定謙,遠山景元(金四郎)などはいずれも500石である。江戸町方の司法・警察・行政などの権限が町奉行に集中されていたため,諸問題を一元的に把握することが比較的容易であり,そこに大岡忠相などの名奉行物語や遠山金四郎などの人気や挿話が生じる素地があった。
町奉行は1ヵ月交替の月番制で訴訟や請願を受け付けた。月番の奉行は朝登城し午後2時ごろ退出してから町奉行所で執務した。内寄合といって,月番の役宅で月に3回ほど協議し連絡を密にした。町奉行所の所在地により南北の呼称があるが,南町奉行所が数寄屋橋,北町奉行所が呉服橋となったのは1806年(文化3)以降のようである。町奉行所の定式入用金は1812年(文化9)以後2741両(南1379両,北1362両)が定高となり,幕末まで変りなかった。不足が生じると臨時入用の名目で不足分が幕府より支給されたほか,闕所金,過料金などの収入があった。1795年(寛政7)より1811年(文化8)までの北町奉行所の1ヵ年支出平均は1991両余である。両町奉行配下の与力(200石,50騎),同心(30俵2人扶持,200人のち280人)はそれぞれ職務を分担し,18世紀以降は仕事が細分化したため,1人でいくつもの役掛を兼任した。例えば天保改革期のおもな役掛は年番,本所見廻,牢屋見廻,養生所見廻,火事場人足改,高積見廻,風烈廻,昼夜廻,吟味方,赦帳撰要方,例繰方,定橋掛,町会所掛,猿屋町会所見廻,古銅吹所見廻,市中取締掛などのほか,北町奉行所には米蔵酒宿掛,酒造調掛,町入用減少掛,十組跡調掛,南町奉行所には御肴掛,市中沽券同人別掛,諸書物編集掛などがあった。幕末にはさらに増加するなど時期により改廃増減した。これらのなかでもっとも重要視されたのは総務・会計・人事を扱った年番で,与力の古参者で力量のあるものがなった。次は裁判を担当した吟味方(詮議方)であった。同心のなかでは三廻(定廻,臨時廻,隠密廻)が上席で,他の大部分は掛与力の下役同心と呼ばれたように,各掛与力の下役であった。与力・同心は他の役職との交流はまれで,一代限りの抱席(かかえせき)(与力のなかには譜代もあった)であったが事実上世襲化していた。
江戸幕府は大坂,京都,駿府,日光,堺,大津,伏見,長崎,奈良,宇治山田などの幕府直轄地の主要都市に遠国奉行を1名ないし2名任命したが,江戸の町奉行と区別するため,それぞれの町奉行名には大坂町奉行,京都町奉行というように必ず地名を冠して呼んだ。しかし現地では略して単に町奉行と呼ぶことが多い。なお大坂町奉行は大坂三郷の行政,警察のほか和泉,河内,摂津,播磨の訴訟を受理し,京都町奉行も京都市中の行政,警察のほか山城,大和,近江,丹波の訴訟を受理した。各藩でも町奉行をおいて,町方の行政を担当させた。
執筆者:南 和男
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江戸幕府の職名。江戸の町奉行をさし,大坂・京都など他の主要直轄地の町奉行はその地名を冠してよんだ。町奉行制の成立の時期については諸説があるが,1631年(寛永8)説が有力。職掌は江戸府内の町方に関する行政・司法・警察のすべてをつかさどった。寺社奉行・勘定奉行とともに三奉行の一つで,幕府の行政審議や司法の最高機関である評定所一座の構成員でもあった。定員2人(一時3人)。月番制で南北の奉行所で執務したが,非番の月は書類整理にあたった。老中支配で,芙蓉間(ふようのま)席。役高は,1723年(享保8)以降3000石で中級旗本の昇進の頂点とされた。大岡忠相(ただすけ)・遠山景元らが名奉行として知られる。下僚に与力・同心以下があり,町名主をも監督した。1868年(明治元)廃止。
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…すなわち1700年に養父の遺跡1920石を継ぎ,02年書院番,04年(宝永1)徒頭,07年使番,08年目付を経て12年(正徳2)山田奉行となり,従五位下能登守となる。16年(享保1)普請奉行に転じ,17年2月3日町奉行に昇進,越前守と改める。22年関東地方御用掛を命じられ,45年(延享2)までこの職を兼務する。…
…広義には編年体の史書・伝記,類別編纂記録,覚書などの文書をも含む。 幕府の記録の主体は右筆や御用部屋の《江戸幕府日記》であるが,国立国会図書館所蔵の旧幕府引継書は江戸の町奉行所書類を中核とし,《撰要類集》《市中取締類集》《町会所一件留》《諸問屋再興調》《町方書上》《寺社書上》などの記録がある。幕府法令を例にとれば,《御触書集成》をはじめ《御当家令条》《武家厳制録》《庁政談》《律令要略》《享保度法律類寄》《元文律》《享保通鑑(つがん)》《大成令》《憲教類典》などが編纂され,《正宝事録》《撰要類集》は町奉行所法令・先例であり,《御仕置裁許帳》《元禄御法式》は町奉行所,《御仕置例類集》《裁許留》は評定所撰集の刑事先例集で,記録の性格が強い。…
…以後は奉行自身ではなく,下吟味の結果に基づきつつ下役が実質的に吟味する。町奉行所では吟味方与力が白洲とは別の場所で取り調べた。審理は被疑者の自白(白状)を得ることを目的とし,その犯罪事実は役人が書式に従って口書(くちがき)に録取した。…
… 寺社奉行の支配統轄下にあったのは,全国の寺社領農民や門前町人,および散在する寺院僧侶,修験者,神社神職,陰陽師,虚無僧,勧進比丘尼などの宗教者や,紅葉山坊主,楽人,碁将棊,連歌師,古筆見,大神楽など諸職種のものたちであった。寺社門前地のうち江戸府内に限り,1745年(延享2)以降町奉行支配にふりかえられた。江戸町の治安を一括して町奉行が統轄するためであった。…
…与力や同心はこのほか,郡代,奉行などの役職に対してもつけられたのであって,江戸時代の与力,同心はその後身である。江戸幕府では,町奉行,遠国奉行,先手頭などに与力とともに同心が付され,主として警察的職務を担当していた。このうち最も著名な江戸の町奉行配下の同心(町同心)について述べれば,定員は中期で南北各100名(幕末には各140名),身分は御家人で,形式上は一代抱えであるが,事実上世襲の職であった。…
…評定所一座の勤務時間は朝卯半刻(午前7時ごろ)から夕申刻(午後4時ごろ)までであった。評定所で取り扱う事件は,公事出入(民事)では原告,被告の支配が異なる事件で,寺社および寺社領,関八州以外の私領からの出訴は月番の寺社奉行が目安裏判をして評定所へ送り,江戸町中からの目安には町奉行が,関八州の幕領,私領および関八州外の幕領からの出訴は勘定奉行が目安裏判をすることになっていた。詮議事(刑事)では,とくに重要な事件や複雑な事件,あるいは上級武士にかかわる事件を取り扱った。…
…このほか郡代,奉行などの役職にも,与力,同心が付属せしめられ,これが江戸時代の与力,同心の前身であったとされている。江戸時代の与力は同心とともに一つの職名であって,町奉行,遠国(おんごく)奉行,先手頭(さきてがしら)などに付属した職であった。 町奉行所付属の与力(町与力)は,町奉行配下の中核的職員であり,同心を指揮して職務を遂行した。…
※「町奉行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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