麻生氏(読み)あそううじ

改訂新版 世界大百科事典 「麻生氏」の意味・わかりやすい解説

麻生氏 (あそううじ)

数流あるが最も著名なのは鎌倉・室町時代に北部九州で活躍した武家。鎌倉初期に下野の豪族宇都宮氏の一族が,平家方で筑前遠賀川流域に勢力のあった山鹿秀遠の遺領に入ったのが始まり。1249年(建長1)北条氏被官資時が〈山鹿荘内麻生荘〉(現,北九州市八幡東区)の地頭代に任ぜられて麻生氏の祖となった。南北朝時代,宗光のとき武家方として活動し,本家筋にあたる山鹿氏の勢力を凌駕し本拠も花尾城に移った。その所領は遠賀川流域から洞海湾をとり囲むように広がり,朝鮮貿易に従事するものも出た。室町期には北部九州に威を及ぼした大内氏の推挙により幕府奉公衆となる。応仁・文明の乱では西軍の大内氏についた弘家に対し庶子家延が反旗をかかげて花尾城に立てこもった。1555年(弘治1)大内氏滅亡後,隆実は毛利氏の支援のもと大名化の勢いを示したが,その子家氏は九州に覇をとなえようとする島津氏に対抗して豊臣秀吉に従った。95年(文禄4)筑後に転封。子孫黒田藩に仕えた。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の麻生氏の言及

【筑前国】より

…大内教弘は守護代として仁保(にほ)盛安を派遣し,寺社の掌握,軍事力の強化,家臣への知行宛行,段銭賦課,博多の掌握を行い,領国制を整備していった。また当国には幕府奉公衆麻生氏がおり,幕府権力の地方的基盤となっていたが,しだいに大内氏と結びつきを深め,戦国期には大内氏の被官化する。
[戦国時代]
 1467年(応仁1)応仁・文明の乱がおこると,対馬宗氏のもとにいた少弐教頼は東軍に応じ,宗盛直とともに筑前に攻め入ったが,大内氏のために敗死した。…

【山鹿氏】より

…そして平家都落ちに従い,壇ノ浦の戦(1185)では平家方1000余艘中500余艘を率いて先陣をつとめ,〈九国一番の勢兵〉と呼ばれたが,平氏の滅亡とともに没落した。筑前麻生氏の同族山鹿氏は宇都宮氏の末流と称し,山鹿秀遠跡の山鹿荘を知行したと伝えている。南北朝期になると終始北朝方についた麻生氏に対抗して,南朝方として活躍した。…

※「麻生氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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