尻高村(読み)しつたかむら

日本歴史地名大系 「尻高村」の解説

尻高村
しつたかむら

[現在地名]高山村尻高

中山なかやま村の西にあり、中央を名久田なくた川がほぼ西流する。永禄八年(一五六五)二月、信州諏訪上社に捧げた武田信玄願文(山宮文書)に上州攻略の目標の一として「尻高」がみえる。天正一〇年(一五八二)一〇月一九日真田氏から「尻高領横尾之内」一七貫が折田軍兵衛に宛行われており(「真田昌幸宛行状」折田文書)、同一八年には「尻高」などで火急の時に人馬を供出することが命じられている(同年一〇月一四日付「真田信幸定書写」渡文書)。慶長一九年(一六一四)一〇月と考えられる真田信幸触口(同文書)にも火急時の人馬供用を命じた一所に「尻高」がみえる。

寛文郷帳では幕府領で、上尻高村高四一〇石(田方一三三石余・畑方二七六石余)、下尻高村高五〇四石(田方一六七石余・畑方三三六石余)に分れて載る。元禄郷帳では尻高村とみえ九二一石余が幕府領、二〇石が泉龍せんりゆう寺領。


尻高村
しだかむら

[現在地名]新吉富村尻高

安雲あくも村の南西に位置し、くろ川上流域の山地および丘陵地に立地する。承元三年(一二〇九)一二月六日の関東御教書案(到津文書/鎌倉遺文三)によると、宇佐宮前大宮司の安心院公定が「上毛郡尻高浦」に扶持人を遣わして藤原右馬允秀忠を夜討殺害したと、宇都宮信房が鎌倉幕府に訴えている。文明一〇年(一四七八)正月一一日の大炊入道祐泉訴状(黒水文書/福岡県史資料一〇)によれば、大内氏被官の祐泉は在陣の功として宛行われた「尻高十五町」を五年にわたって知行してきた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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