日本歴史地名大系 「高山村」の解説
高山村
たかやまむら
佐治川中流部に位置し、東は
藩政期の拝領高三四五石余、本免五ツ六分。貞享元年(一六八四)の土免状(上田家文書)によると高三七七石余、物成一八五石余。寛政一一年(一七九九)の智頭郡下構村々高物成等覚(竹本家文書)では朱高三七七石余に対して今高四一六石余、物成二二三石余、柿役二石三斗余・漆役七升余が課されていた。「因幡志」による家数七一。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高四二〇石余、竈数七七、ほかに寺一。
高山村
たかやまむら
高山村
たかやまむら
- 群馬県:藤岡市
- 高山村
南境
永禄七年(一五六四)五月一七日の武田信玄書状写(「鎌原系図」所収)によると、信玄に従った鎌原重春が敵地で刈取った麦を籠め置いた地に「高山」があり、同九年、上州に出陣した上杉輝虎(謙信)は
高山村
たかやまむら
高山村
たかやまむら
- 三重県:上野市
- 高山村
弘安元年(一二七八)一一月の伊賀喰代厨申状(神宮文庫蔵)に、高元右馬入道らが悪党の張本として非難されているが、この高元右馬は当村の在地土豪と推定される。延文四年(一三五九)五月二五日付の雑掌陳状(東大寺文書)には、社官近広を殺害した高山十郎保光らの土地を没収して東大寺鎮守八幡宮に寄進することを、参議左中将朝臣より守護仁木義長に命じている。
高山村
たかやまむら
高山村
こうやまむら
東に
寛永備中国絵図に高山村とみえ、高五八〇石余、うち松山藩領一〇三石余・山崎家治先知分四七七石余で、松山藩分は高山市村にあたる。
高山村
たかやまむら
高山村
たかやまむら
高山村
たかやまむら
- 奈良県:生駒市
- 高山村
高山村
たかやまむら
- 静岡県:掛川市
- 高山村
高山村
たかやまむら
現豊能町では
高山村
たかやまむら
高山村
たかやまむら
高山村
たかやまむら
高山村
たかやまむら
高山村
たかやまむら
- 埼玉県:飯能市
- 高山村
高山村
たかやまむら
高山村
たかやまむら
高山村
たかやまむら
- 新潟県:五泉市
- 高山村
阿賀野川左岸の氾濫原にあり、南西は
高山村
たかやまむら
高山村
たかやまむら
- 新潟県:長岡市
- 高山村
長岡町の南方約一里半を隔てて、信濃川右岸に近い平野部にある。東は
高山村
たかやまむら
高山村
こうやまむら
- 愛媛県:北条市
- 高山村
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の
河野氏と盛衰をともにした地域で、南北朝時代には雌甲城に河野通盛、雄甲城にその子通遠がいた。
高山村
たかやまむら
高山村
たかやまむら
高山村
たかやまむら
高山村
たかやまむら
高山村
たかやまむら
- 愛媛県:大洲市
- 高山村
大洲盆地の西部の
永禄一〇年(一五六七)二月、村上通康が
高山村
たかやまむら
- 大分県:竹田市
- 高山村
高山村
たかやまむら
高山村
たかやまむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報