日本大百科全書(ニッポニカ) 「柳生兵庫助」の意味・わかりやすい解説
柳生兵庫助
やぎゅうひょうごのすけ
(1579―1650)
江戸初期の剣術家。尾張(おわり)柳生の祖。柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさいむねよし)の長子厳勝(としかつ)の二男として生まれ、幼名忠次郎、兵介(ひょうすけ)、のち茂左衛門(もざえもん)、伊予長慶(いよながよし)、兵庫助利厳(としとし)といい、晩年は如雲斎と号した。父の厳勝は1571年(元亀2)20歳のとき、大和辰市(やまとたついち)の合戦で重傷を負い、柳生谷に籠居(ろうきょ)する悲運にあったが、3人の男子に恵まれ、長男久三郎(きゅうざぶろう)を朝鮮蔚山(うるさん)の戦いで失ったが、二男忠次郎は後の兵庫助利厳、三男権右衛門(ごんえもん)はのちに仙台の伊達政宗(だてまさむね)に仕えた。利厳は幼少から祖父石舟斎の薫陶を受け、その性格も剣術の筋も祖父づくりといわれた。1602年(慶長7)加藤清正に招かれたが、わずか1年で熊本を去って柳生に帰り、さらに剣術修行を積み、06年石舟斎死去の直前に道統を継ぐことを許され、そのしるしに上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)から伝授された秘書全部と出雲守(いずものかみ)永則(ながのり)作の大太刀(たち)(刃長4尺7寸8分)を付与されたという。15年(元和1)37歳のとき駿府(すんぷ)に召し出されて、後の尾張藩主徳川義直(よしなお)に仕え、その兵法師範となって、同藩に新陰(しんかげ)流を定着させ、晩年、一代の剣の工夫(くふう)公案を68か条にまとめた『始終不捨書(しじゅうふしゃしょ)』を根本伝書とし、48年(慶安1)70歳で隠居することを許され、京都妙心寺の塔頭麟祥(りんしょう)院に柳庵(りゅうあん)と称する一草庵を結び、禅に徹して清閑自適の生活を送った。利厳の長男新左衛門清厳(きよとし)は島原で戦死し、二男茂左衛門利方(としかた)(如流斎)が家を継ぎ、三男の七郎兵衛厳包(としかね)(連也斎)が尾張柳生の道統を伝承した。
[渡邉一郎]