日本大百科全書(ニッポニカ) 「小林陽之助」の意味・わかりやすい解説
小林陽之助
こばやしようのすけ
(1908―1942)
戦前の日本共産党員。明治41年7月6日、アメリカ合衆国ワイオミング州に生まれる。4歳のとき父千代の郷里栃木県安蘇(あそ)郡犬伏(いぬぶし)町(佐野市)に帰った。第二高等学校在学中は社会科学研究会の活動に加わり、1926年、3年生のとき検挙、放校処分を受けた。29年(昭和4)ヒトラー支配下のドイツに留学、翌30年ベルリン工科大学に入学した。31年ドイツ共産党に入党し、地下活動に従事したが、二度にわたる検挙のすえ国外追放となる。その後モスクワに行き35年東洋勤労者共産主義大学(クートベ)を卒業。同年開催されたコミンテルン第7回大会に日本青年代表として野坂参三(さんぞう)、山本懸蔵(けんぞう)とともに出席した。36年7月、野坂らの指示で秘密裏に帰国、岡部隆司(たかし)、長谷川博(はせがわひろし)ら党員・活動家とともに、東京、大阪、京都に組織をつくるなど、共産主義者の結集と反ファシズム人民戦線運動の推進に努めたが、37年12月に検挙された。懲役5年の刑で千葉刑務所に服役中、昭和17年2月25日34歳で獄死した。
[佐瀬昭二郎]
『松本三益「党の旗をまもってたおれた小林陽之助同志をおもう」(『前衛』200号所収・1962.8・日本共産党中央委員会)』▽『日本共産党中央委員会宣伝教育部編『党をきずいた人々』(1962・日本共産党中央委員会)』