野坂参三(読み)ノサカサンゾウ

デジタル大辞泉 「野坂参三」の意味・読み・例文・類語

のさか‐さんぞう〔‐サンザウ〕【野坂参三】

[1892~1993]社会運動家・政治家。山口の生まれ。衆議院議員参議院議員共産党中央委員会議長。大正11年(1922)日本共産党創立時に入党。昭和6年(1931)第三インターナショナルへ派遣され、ソ連・中国などで活動。第二次大戦後に帰国し、党中央委員会議長を経て名誉議長となるが、平成4年(1992)党を除名された。

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精選版 日本国語大辞典 「野坂参三」の意味・読み・例文・類語

のさか‐さんぞう【野坂参三】

  1. 政治家。山口県の生まれ。労働運動に加わり、大正一一年(一九二二)日本共産党創立に参加。昭和六年(一九三一)日本を脱出して旧ソ連に入国。第二次大戦中は対日反戦工作に従事。敗戦後の同二一年帰国。日本共産党に所属し、衆議院議員、参議院議員を務める。共産党中央委員会議長となったが、平成五年(一九九三)戦前の党規違反を理由に除名。明治二五~平成五年(一八九二‐一九九三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「野坂参三」の意味・わかりやすい解説

野坂参三
のさかさんぞう
(1892―1993)

政治家。共産主義者。山口県萩(はぎ)市出身。慶応義塾大学在学中に友愛会(日本労働総同盟の前身)に入会し、卒業後はその本部書記となる。1919年(大正8)イギリスに渡航し、翌1920年イギリス共産党に入党したが、1921年国外退去を命ぜられ、モスクワのプロフィンテルン本部に赴く。1922年に帰国し、総同盟本部に勤務しながら総同盟内に左派グループをつくり、同年7月日本共産党の創立に参加した。1923年第一次共産党事件で検挙され、1924年産業労働調査所の設立とともにその所長となる。1928年(昭和3)三・一五事件で検挙投獄されたが、眼疾治療のために仮出獄したのを機に、1931年日本を脱出してソ連に入国した。1935年コミンテルン執行委員となり、人民戦線路線にたつ新しい日本の運動方針を作成し、アメリカに渡って『国際通信』を発行するなど対日工作を行った。

 1940年延安(えんあん/イエンアン)に赴き、日本人捕虜による日本人反戦同盟を組織する。戦争中から天皇問題に対し柔軟な方針を発表し、敗戦後の1946年(昭和21)1月帰国して民主戦線の結成を訴えた。同年衆議院議員に当選し、アメリカ占領軍下での平和革命実現を唱えたが、1950年1月この方針はコミンフォルムから野坂理論として名指しで批判され、日本共産党の分裂後は主流派に属した。同年6月占領軍により追放され、以後5年間地下活動を行う。1955年日本共産党第一書記となり、1958~1982年中央委員会議長、辞任後は名誉議長となる。1956~1977年参議院議員。1993年、戦前の党規違反を理由に除名された。

[赤澤史朗]

『野坂参三資料編纂委員会編『野坂参三のあゆんだ道』(1964・新日本出版社)』『野坂参三著『風雪のあゆみ』1~8(1971~1989・新日本出版社)』『和田春樹著『歴史としての野坂参三』(1996・平凡社)』

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「野坂参三」の解説

野坂 参三
ノサカ サンゾウ*


肩書
元・日本共産党議長,元・参院議員,元・衆院議員

旧名・旧姓
旧姓=小野

別名
変名=岡野 進

生年月日
明治25年3月30日

出生地
山口県萩市

学歴
慶応義塾大学理財科〔大正6年〕卒

経歴
神戸商時代大逆事件に遭遇し影響を受ける。大卒後友愛会書記となり、機関誌「労働及産業」を編集。大正8年渡欧し、9年イギリス共産党入党。帰国後、日本労働総同盟顧問を経て、11年日本共産党の創立に参画。12年第1次共産党弾圧事件で検挙。出獄後、産業労働調査所を設立し所長。昭和3年3.15事件で再び検挙。6年同党中央委員となりコミンテルン日本代表として非合法裏にソ連に渡り、“’32年テーゼ”の作成に携わる。8年同執行委員会幹部会員。10年第7回大会に日本代表として出席、15年までモスクワのコミンテルンで活動した。同年中国で日本人反戦同盟を組織。戦後、21年帰国、衆院議員に当選するが、25年マッカーサーにより公職追放となる。地下活動を経て、30年六全協で第一書記、33年党中央委員会議長。31年から衆・参両院議員を通算25年つとめた。57年議長を宮本顕治に譲って名誉議長となるが、平成4年戦前の同志密告事件が発覚して除名された。著書に「亡命十六年」「野坂参三選集」(全2巻)、自伝「風雪のあゆみ」(全8巻)など。

受賞
ベトナム金星勲章〔昭和62年〕

没年月日
平成5年11月14日

家族
妻=野坂 龍(日本共産党名誉中央委員)

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20世紀日本人名事典 「野坂参三」の解説

野坂 参三
ノサカ サンゾウ

大正・昭和期の政治家 元・日本共産党議長;元・参院議員;元・衆院議員。



生年
明治25(1892)年3月30日

没年
平成5(1993)年11月14日

出生地
山口県萩市

旧姓(旧名)
小野

別名
変名=岡野 進

学歴〔年〕
慶応義塾大学理財科〔大正6年〕卒

主な受賞名〔年〕
ベトナム金星勲章〔昭和62年〕

経歴
神戸商時代大逆事件に遭遇し影響を受ける。大卒後友愛会書記となり、機関誌「労働及産業」を編集。大正8年渡欧し、9年イギリス共産党入党。帰国後、日本労働総同盟顧問を経て、11年日本共産党の創立に参画。12年第1次共産党弾圧事件で検挙。出獄後、産業労働調査所を設立し所長。昭和3年3.15事件で再び検挙。6年同党中央委員となりコミンテルン日本代表として非合法裏にソ連に渡り、“’32年テーゼ”の作成に携わる。8年同執行委員会幹部会員。10年第7回大会に日本代表として出席、15年までモスクワのコミンテルンで活動した。同年中国で日本人反戦同盟を組織。戦後、21年帰国、衆院議員に当選するが、25年マッカーサーにより公職追放となる。地下活動を経て、30年六全協で第一書記、33年党中央委員会議長。31年から衆・参両院議員を通算25年つとめた。57年議長を宮本顕治に譲って名誉議長となるが、平成4年戦前の同志密告事件が発覚して除名された。著書に「亡命十六年」「野坂参三選集」(全2巻)、自伝「風雪のあゆみ」(全8巻)など。

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改訂新版 世界大百科事典 「野坂参三」の意味・わかりやすい解説

野坂参三 (のさかさんぞう)
生没年:1892-93(明治25-平成5)

大正・昭和期の社会運動家,政治家。山口県生れ。1913年慶応大学在学中に友愛会に入り,卒業後,常任書記となり,機関紙《労働及産業》に野坂鉄の筆名で執筆した。19年友愛会派遣で渡英,翌年イギリス共産党創立とともに入党。22年帰国し総同盟顧問となる。同年日本共産党入党。翌年第1次共産党事件で検挙。24年産業労働調査所創設。28年三・一五事件で検挙・投獄されたが,30年病気のため仮出獄する。31年党中央委員に選ばれ,コミンテルン日本代表として入ソ,40年まで活動した。同年中国の延安に赴き,岡野進の名で日本人民解放連盟などで活動した。敗戦後の46年に15年ぶりに帰国,帰国歓迎大会で民主戦線の結成を提唱した。共産党中央委員に選出され,同年衆院議員,50年の占領軍による公職追放まで3期連続当選。非合法活動を経て55年六全協で党第一書記。58年第7回大会で議長。この間参院議員4期当選。82年名誉議長就任。戦前に山本懸蔵をスパイとしてコミンテルンに告発していたことが判明,92年除名された。
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百科事典マイペディア 「野坂参三」の意味・わかりやすい解説

野坂参三【のさかさんぞう】

政治家。山口県出身。慶大卒。1919年友愛会からイギリスに派遣され,1920年イギリス共産党入党。1922年に帰国し,日本共産党に入党,1931年ソ連に亡命,コミンテルン執行委員会幹部会員となり,第2次大戦中は中国の延安にあって中国共産党と協力,日本人反戦同盟を組織し反戦運動に従事。1946年帰国して〈愛される共産党〉を唱え,平和革命論を主導した。衆・参議院議員。1958年党中央委員会議長,1982年名誉議長。1992年,公開されたソ連文書を根拠にモスクワ時代の〈裏切り〉などの理由で党より除名。
→関連項目日本人民解放連盟無産者新聞労学会

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「野坂参三」の意味・わかりやすい解説

野坂参三
のさかさんぞう

[生]1892.3.30. 山口
[没]1993.11.14. 東京
社会主義者。日本共産党幹部。本名参弐。党員名岡野進。幸徳秋水大逆事件に影響され社会主義の道へ入った。 1922年日本共産党結成の年に同党へ入党,28年3月 15日の一斉弾圧で投獄されたが,出獄後,31年党の指令でソ連に脱出,コミンテルン執行委員となり,「日本共産主義者への手紙」などを執筆した。 40年,中国入りし,毛沢東の率いる中国共産党と行動をともにするなど,おもに海外で活動を続けた。 46年1月,16年ぶりに日本に帰り,再出発した日本共産党の指導部の一員として,「愛される共産党」「民主人民戦線」など,新たな方向性をもたらした。 55年の第6回全国協議会 (→六全協 ) による党内闘争の収拾以降は,一貫して党の最高指導者の地位にあった。 68年中央委員会議長,82年名誉議長となったが,92年ソ連時代の同志密告事件により除名された。また 56年以降 77年の退任まで参議院議員に4回当選。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「野坂参三」の解説

野坂参三 のさか-さんぞう

1892-1993 大正-昭和時代の社会運動家,政治家。
明治25年3月30日生まれ。大正11年共産党に入党。昭和6年密出国,コミンテルン日本代表としてソ連にわたり,15年から中国延安で反戦活動。21年帰国し,衆議院議員(当選3回)。25年公職追放となり北京に密航。30年帰国,31年参議院議員(当選4回)。33年党議長。戦前山本懸蔵を官憲に密告していたことなどが発覚,平成4年党を除名された。平成5年11月14日死去。101歳。山口県出身。慶応義塾卒。著作に「風雪のあゆみ」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「野坂参三」の解説

野坂参三
のさかさんぞう

1892.3.30~1993.11.14

昭和期の社会運動家・政治家。山口県出身。慶大在学中から労働運動に参加。1922年(大正11)日本共産党に入党。日中戦争中の40年ソ連から延安に入り,中国共産党とともに日本軍兵士の反戦運動を組織。戦後,共産党幹部,中央委員会議長を務めた。92年(平成4)戦前に同志をスパイ容疑でコミンテルンに告発したことが明るみに出て党を除名される。

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367日誕生日大事典 「野坂参三」の解説

野坂 参三 (のさか さんぞう)

生年月日:1892年3月30日
大正時代;昭和時代の政治家;社会運動家。日本共産党議長;衆議院議員
1993年没

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世界大百科事典(旧版)内の野坂参三の言及

【日本共産党】より

… 創立後,党は《前衛》7・8月号掲載の山川の〈無産階級運動の方向転換〉を指針として労働者や知識人に影響を拡大するとともに,1923年2月の第2回大会で,コミンテルン第4回大会のとき片山の参加で起草された〈君主制の廃止〉をはじめとする民主主義革命を骨子とする〈日本共産党綱領草案〉を審議したが,採択には至らなかった。同年5月の早稲田軍教事件をきっかけに当局は共産党の存在を知り,堺,山川,徳田,市川正一野坂参三ら党員を逮捕し29名を治安警察法違反で起訴した。この第1次共産党事件に続く関東大震災時の社会主義者の虐殺を含む弾圧のなかで赤松克麿らの解党論が台頭し,24年2月に荒畑寒村の反対はあったが解党を決議した。…

【日本人民解放連盟】より

…1939年11月山西省で八路軍の指導・援助の下に日本兵士覚醒連盟が組織され,同じころ鹿地亘によって国民党地区の重慶に本部をおく在華日本人民反戦同盟が結成された。40年5月延安にも反戦同盟延安支部がつくられ,以後八路軍の援助と野坂参三(岡野進)の指導で華北の日本人反戦組織は拡大し,42年8月覚醒連盟と反戦同盟は合流して反戦同盟華北連合会となり,また新四軍地区にも支部が生まれた。日本の敗北必至となった44年4月,反戦同盟は反戦とともに軍部打倒・日本民主化をめざすより広い政治綱領をもった日本人民解放連盟に発展的に改組され,このころ華北・華中の連盟員は二百数十名を数えた。…

※「野坂参三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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