延岡城下(読み)のべおかじようか

日本歴史地名大系 「延岡城下」の解説

延岡城下
のべおかじようか

[現在地名]延岡市本小路ほんこうじ東本小路ひがしほんこうじ桜小路さくらこうじ天神小路てんじんこうじ北町きたまち中町なかまち南町みなみまち本町ほんまち柳沢町やなざわまち中央通ちゆうおうどおり船倉町ふなぐらまち紺屋町こんやまち博労町ばくろうまち祇園町ぎおんまち北小路きたこうじ新小路しんこうじ北新小路きたしんこうじ春日町かすがまち西小路さいこうじ上大瀬町かみおおせまち大瀬町おおせまち出口町いでぐちまち三ッ瀬町みつぜまち

江戸時代の延岡城(旧称県城)城下町。五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた中洲東端部と、五ヶ瀬川北岸および大瀬川南岸地域を含み、東は日向灘の湾入した東海とうみ(延岡港)に接する。高橋元種が慶長八年(一六〇三)あがた城を築いた際に形成され、その後有馬氏時代に城郭と城下町が整備され城下の基本型ができた。以降延岡藩領内、とくに臼杵郡における政治・経済・文化・交通の中心地として発展した。

〔城下の建設・規模〕

高橋元種は天正一五年(一五八七)、五ヶ瀬川中流北岸、行縢むかばき山南麓丘陵にあった松尾まつお城に入った。同城は一五世紀に県土持氏が築き、本拠としてきたものであったが、近世的城郭と城下町形成には狭小であった。このため元種は延岡平野の東端、五ヶ瀬川とその支流の大瀬川に挟まれた中洲の河口近くに城地を選定した。城地は五ヶ瀬川と大瀬川を天然の外堀とし、祝子ほうり川・北川・五ヶ瀬川などの河口が集中する東海湊を抱えており、後背山間地域とは河川交通によって、九州各地や四国・中国、さらには摂河泉などと海上交通によって結ばれた要衝であったことが選定理由と思われる。慶長六年に中洲の自然丘陵上に築城が開始された。同八年県城が完成すると元種は同城に移り、城の周囲に上級家臣・中級家臣を屋敷割して配置した。中洲に配置できなかった下級家臣は五ヶ瀬川北岸および大瀬川南岸などに配置された。城下町は城の東側に堀を隔て三筋の東西道を造り、両側町の南町・中町・北町が形成された。なお古代の西海道以来大貫おおぬき村近くを通っていた街道を城下を通すよう付替えたと思われ、豊後街道が城下を通ることとなった。天正年間にキリスト教的理想王国を目指した大友宗麟が当地の多くの社寺を破壊したが、元種は宗教政策上これら社寺を復興、創建し、保護するとともに城下防衛上にも役立てている。城北の今山いまやまにある臼杵郡鎮守の今山八幡宮を城下の鎮守とし、城南の愛宕あたご山北麓に愛宕社を創建した。また城下北町の東入口に誓敬せいきよう寺、中町東入口に照源しようげん寺・光勝こうしよう寺、南町西入口に妙専みようせん寺、中町中央に本誓ほんせい寺などを配し、城下町への出入りを監視させた。

慶長一八年に元種が改易になった後、翌一九年に拝領高五万三千石で有馬直純が県に入封した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の延岡城下の言及

【延岡[市]】より

…日豊本線と高千穂鉄道の分岐点で,国道10号線などが通じる。【下村 数馬】
[延岡城下]
 日向国の城下町。古く県(あがた)と称したが,1692年(元禄5)藩主有馬氏のとき延岡と改めた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」