豊後街道
ぶんごかいどう
日向国と豊後国とを結ぶ近世の街道で、豊後国に通じるという意味で慣用的に豊後街道とよばれる。古代の官道(西海道)を踏襲し、中世においてもこの道が基本的に受継がれた。平安時代にはこの道沿いに豊前宇佐宮の宮方と寺(弥勒寺)方の庄園が設定され、物資が宇佐宮や大宰府にもたらされた。この道には耳川と梓峠があり、この二ヵ所が戦国時代、日向の争奪をめぐる争いのなかでクローズアップされる。なかでも最大の難所は豊後と日向の国境の梓峠で、天正六年(一五七八)日向に侵攻した大友軍は海路から入った部隊と梓峠越で入った部隊がある。また同一四年には県(現延岡市)に集結した島津軍が梓峠を越えて豊後に侵入し、大友軍の防衛線を突破している。島津義久は豊後入りの前に、宮崎地頭上井覚兼に命じて封じ物を行い、豊後の朝日岳と「内端」に針を伏し、覚兼は軍師川田義朗に祈祷を命じている(「上井覚兼日記」同年八月二二日条)。一方、耳川では天正六年大友軍と島津軍がこの川付近で対峙することになり、同年一一月一一日・一二日には高城(現木城町)の攻防に大敗した大友軍の将兵の死体がこの辺りを埋尽したという(東臼杵郡北川町の→梓峠 東臼杵郡の→耳川 児湯郡都農町の→都農町)。
近世の豊後街道の道筋は元禄国絵図や「日向地誌」などによると、宮崎郡上別府村(現宮崎市)から北上し、同郡大島村・村角村、那珂郡芳士村・島之内村(以上現同上)、同郡下那珂村を経て佐土原城下(以上現佐土原町)の東側を通り、一ッ瀬川にさしかかる。元禄国絵図では同川は広さ一町・深さ三尺で、歩渡とある。
豊後街道
ぶんごかいどう
鶴崎路ともいい、熊本から細川氏領豊後国鶴崎(現大分市)に至る道である。熊本城下新一丁目の札の辻を起点として、城内を北に通過する際に、札の辻―新一丁目御門―法華坂―二の丸御門―百間石垣下―新堀御門―京町のルートと、札の辻―薬師坂―漆畑―二の丸御門―以下同じの二つの道があり、島津・相良両家の参勤や旅人の熊本城内通過には主として後者のルートが用いられた。京町で豊前街道と分れ、観音坂を下り内坪井から立町を通る。浄行寺町に出る前の立田口大神宮の赤鳥居からはかつては構外の坪井村(以上現熊本市)である。ここから合志郡大津(現菊池郡大津町)を経て山道に入り二重峠で阿蘇外輪山を越え、阿蘇郡内牧(現阿蘇町)に出、宮地(現一の宮町)から坂梨(現一の宮町)を経て、滝室坂で再び外輪山を登って篠倉(現波野村)から大利(現産山村)に出、ここから豊後国直入郡久住(現大分県久住町)を経て鶴崎町に通じる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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