延岡藩(読み)のべおかはん

改訂新版 世界大百科事典 「延岡藩」の意味・わかりやすい解説

延岡藩 (のべおかはん)

日向国宮崎県延岡城下とした藩。延岡は1692年(元禄5)までは県(あがた)と称した。1587年(天正15)豊臣秀吉の九州征伐後高橋元種が入封(5万3000石)。1613年(慶長18)高橋氏が改易され,翌年有馬直純が入封(5万3000石)。有馬氏居城本丸を修築するとともに城下町を整備した。90年9月に起こった山陰(やまげ)村の逃散は,凶作を押しての年貢徴収の強行ならびに専売制施行のための商品作物(楮(こうぞ)等)の植付け強制が原因で,村民1400余名は大挙して高鍋藩領に逃散し,事態は幕府にも聞こえた。翌年事件の中心となった農民たちは処刑されたが,有馬氏はこのため越後糸魚川に移封。代わって92年三浦明敬(2万3000石),1712年(正徳2)牧野成央が入封(8万石)。牧野氏は領内の農政に意を注いだようで,ことに五ヶ瀬川から用水を分流する岩熊井堰を建設して延岡平野の水田化を進めた。1747年(延享4)内藤政樹入封。このときは磐城平より内藤氏が延岡に入り,常陸笠間の井上氏が平へ,牧野氏が延岡より笠間へ入るという,いわゆる三角転封である。以後1871年(明治4)の廃藩置県まで内藤氏が在封。内藤延岡藩の所領は,延岡周辺と西方九州山地の村々(いずれも日向臼杵郡)約2万5000石(城付所領)を中心とし,飛地所領として南方の宮崎郡内に約2万5000石,北方の豊後3郡(大分,国東,速見)に約2万石があり,典型的な分散所領である。生産力は宮崎郡を除いては低く,藩は慢性的な財政難に苦しんだ。内藤延岡藩は九州における数少ない譜代藩であったが,辺境の藩であるため歴代藩主の中から幕府老中は一人も出なかった。戊辰戦争には徳川氏の命を奉じて京都郊外に出兵した。1869年九州山地の高千穂地方に起こったいわゆる鬼打ち一揆は,世直し一揆の代表例として有名。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「延岡藩」の意味・わかりやすい解説

延岡藩
のべおかはん

日向(ひゅうが)国延岡(宮崎県延岡市)を城下とし、その周辺を中心所領とした藩。1692年(元禄5)までは旧地名により県(あがた)藩と称した。1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉の島津(しまづ)氏征討後、高橋元種(たかはしもとたね)入封(5万3000石)、1613年(慶長18)高橋氏改易後、翌年有馬直純(ありまなおずみ)(5万3000石)入封。直純の父はキリシタン大名として有名な晴信。有馬氏は1691年まで在封し、その間、居城の本丸を修築するとともに城下町を整備拡大した。有馬氏に次いで92年三浦明敬(みうらあきひろ)入封(2万3000石)、1712年(正徳2)牧野成央(まきのなりなか)入封(8万石)。牧野氏は領内の農政に意を注いだようで、ことに1734年(享保19)に完成した岩熊井堰(せき)は有名。1747年(延享4)内藤政樹(ないとうまさき)入封(7万石)。このときは内藤氏が磐城平(いわきたいら)より日向延岡へ、井上氏が常陸笠間(ひたちかさま)より平へ、そして牧野氏が延岡より笠間へ入るという、いわゆる三角転封であった。以後、廃藩置県まで内藤氏が在封。内藤氏の所領は、城下延岡周辺と西方九州山地の村々(いずれも日向臼杵(うすき)郡)約2万5000石(城付(しろつき)所領)を中心とし、飛地(とびち)所領として、南方の宮崎郡内に約2万5000石、北方の豊後(ぶんご)三郡(大分、国東(くにさき)、速見(はやみ))に約2万石があり、譜代(ふだい)藩所領分散の一典型を示す。内藤延岡藩は九州における数少ない譜代藩の一つであったが、なにぶんにも辺境の地にあり、歴代藩主のなかから幕府老中は1人も出ていない。1869年(明治2)九州山地高千穂地方に起こったいわゆる鬼打ち一揆(いっき)は、世直し一揆の代表事例の一つである。1871年廃藩、延岡県となり、美々津(みみつ)県、宮崎県、鹿児島県を経て、83年再置の現宮崎県に編入された。

[木村 礎]

『明治大学内藤家文書研究会編『譜代藩の研究――譜代内藤藩の藩政と藩領』(1972・八木書店)』

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藩名・旧国名がわかる事典 「延岡藩」の解説

のべおかはん【延岡藩】

江戸時代日向(ひゅうが)国臼杵(うすき)郡延岡(現、宮崎県延岡市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩。延岡は1692年(元禄(げんろく)5)までは県(あがた)と称された。藩校は広業館(こうぎょうかん)。1587年(天正(てんしょう)15)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)九州征伐後、高橋元種(もとたね)が5万3000石で入封(にゅうほう)し、関ヶ原の戦い後には徳川家康(とくがわいえやす)から所領を安堵(あんど)された。しかし、1614年(慶長(けいちょう)19)に高橋氏は改易(かいえき)され、翌年に有馬直純(なおずみ)が入封。その後、譜代の三浦氏、牧野氏を経て、1747年(延享(えんきょう)4)に内藤政樹(まさき)が陸奥(むつ)国 磐城平(いわきたいら)藩から7万石で入封、以後明治まで内藤氏が8代続いた。1869年(明治2)に世直し一揆の代表例として知られる「鬼打ち一揆」が高千穂地方で起きた。71年(明治4)の廃藩置県で延岡県となり、その後、美々津(みみつ)県、宮崎県、鹿児島県を経て、83年に再置の宮崎県に編入された。◇県藩ともいう。

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百科事典マイペディア 「延岡藩」の意味・わかりやすい解説

延岡藩【のべおかはん】

日向(ひゅうが)国延岡に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩主は高橋氏・有馬氏・三浦・牧野氏・内藤氏と変遷。領知高2万3000石〜8万石。
→関連項目日向国

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「延岡藩」の意味・わかりやすい解説

延岡藩
のべおかはん

江戸時代,日向国 (宮崎県) 延岡地方を領有した藩。古くは県 (あがた) 藩とも称した。藩主は高橋氏5万石に始り,有馬氏5万 3000石,この間延岡藩と改称,三浦氏2万 3000石,牧野氏8万石と経て延享4 (1747) 年以降,内藤氏が7万石で入封,廃藩置県にいたった。内藤氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「延岡藩」の解説

延岡藩

日向国、延岡地方(現:宮崎県延岡市)を領有した藩。古くは県(あがた)藩と称した。藩主は高橋氏、有馬氏、牧野氏など。延享年間に内藤氏が陸奥国から7万石で入封してからは、幕末まで8代にわたり内藤氏が藩主をつとめた。

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世界大百科事典(旧版)内の延岡藩の言及

【郷士】より

…(1)旧族郷士は,元来は正規の武士になるべきものが,近世初頭あるいはその後になんらかの事情により郷士となったもので,薩摩藩の外城(とじよう)衆,土佐藩の郷士,津藩や近江甲賀郡の無足人十津川郷士などが知られている。日向延岡藩の小侍,郷足軽もこれにあたる。(2)取立郷士の種類はさまざまだが,多額の献金や新田開発などの功により郷士の格を与えられたものである。…

【日向国】より

…また02年に諸県郡の大部分が島津氏の所領となり,ついで翌年児湯郡の米良(めら)と臼杵郡の椎葉山の山地が肥後人吉藩に組みこまれた。 延岡藩では,13年高橋氏が水間勘兵衛事件で領地を没収され,翌年新たに有馬氏が入部したが,その後92年(元禄5)三浦氏が入部して以来譜代藩領となり,1712年(正徳2)牧野氏,47年(延享4)内藤氏と領主の入れかわりが激しかった。これに対し,他の諸藩では領主支配はほとんど変わることなく明治にいたった。…

※「延岡藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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