アイ・ハヌム
Ai Khanum
アフガニスタン北東のアム・ダリヤとコクチャ川との合流点の河岸台地にある,前3~前1世紀のバクトリアの都市遺跡。1964-79年にベルナールP.Bernardが発掘。東に丘陵,西・南が川に守られ,北に二重の濠をもち,突角堡つきの市壁があり,1門を開く。東の丘陵沿いに市門からコクチャ河岸まで約2kmの目抜通りが走り,通りの西に王宮をはじめとする行政区,居住区,墓廟,神殿,ギムナシオン(体育・知育場)があり,通りの東斜面に円形劇場がある。市外にも墓廟や神殿がある。また泉がアム・ダリヤ河岸につくられた。建築の主体は日乾煉瓦だが,王宮だけはコリント風柱頭,アッティカ式礎石,ペルシア式礎石をもつ壮大な石柱を使った。建築平面形式はギリシア式ではなく,アッシリア・アケメネス朝建築の系統を引く。前3世紀の字体の碑文により,キネアスなる人物が創建者とみられる。出土した石像や泥像には巨像の部分と推定されるものもあるが,ガンダーラ美術とバクトリアとの関係は未詳である。
執筆者:桑山 正進
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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アイ・ハヌム
Ai Khanum
アフガニスタン北部,コクチャ川とアムダリアとの合流点にあるグレコ・バクトリア時代 (前2~1世紀) の遺跡。 1964年以後フランスの考古学者 D.シュリュムベルジェ,次いで P.ベルナールを長とするフランスの考古学調査団によって発掘された。方形突角堡付きの城壁を築き,西門から 1600mの大路が通じていた。行政区,居住区,ギムナシオン,神殿,墓廟,劇場などが発見された。またギリシア語碑文,貨幣なども発見されたところから,ギリシア本土との交流も認められ,中央アジア・ヘレニズムの特徴を示す重要な遺跡となっている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のアイハヌムの言及
【バクトリア王国】より
…なお,バクトリアBaktriaとはヒンドゥークシュ山脈からアム・ダリヤ中流域にかけての地域を指す歴史的呼称で,この地は前4世紀末アレクサンドロス大王の攻略をうけ,大王の死後はセレウコス朝の支配下に置かれた。従来,美しいギリシア・バクトリア銀貨を除き,王国の存在を示す遺物は見つからなかったが,1964年以来,バルフの東方約300km,コクチャ川とアム・ダリヤ合流点の[アイ・ハヌム]遺跡において真正のギリシア人都市が発見され,フランス考古学者の手で神殿,墓廟,円形劇場,彫刻,碑文などが発掘されて,不明の歴史に新しい光を投げかけている。アイ・ハヌムはバクトリア王国の副都か,東方の重要都市であったにちがいない。…
※「アイハヌム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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