日本大百科全書(ニッポニカ) 「ガンダーラ美術」の意味・わかりやすい解説
ガンダーラ美術
がんだーらびじゅつ
ガンダーラとはインド亜大陸の北西部、いまのパキスタンの北部にあった古い地名で、同国ペシャワル県がその地域にあたり、三方を山に囲まれ三角形の盆地をなす。その名は古く『リグ・ベーダ』や『アタルバ・ベーダ』にも出てくるが、紀元前6世紀にこの地方を支配したペルシアのアケメネス朝の碑文に、属州となった国々の一つとしてガンダーラの名が記されている。前4世紀末、アレクサンドロス大王の東方遠征のとき、大王の軍の侵入を受け、前3世紀にはインド、マウリヤ朝のアショカ王の支配するところとなったが、のち北方遊牧民の一つであるサカ人の南下にあい、やがてアフガニスタン北部に興った中央アジア土着のクシャン人がこの地に勢力を伸ばし、クシャン朝を樹立、文化繁栄の基礎を築き、カニシカ王のとき最盛期を迎えた。カニシカ王の在位年代については諸説あり一定しないが、2世紀中ごろとする説が有力である。
カニシカ王はプルシャプラ(いまのペシャワル)を都とし、アフガニスタン北部からインドのマトゥラ、中国の西域(せいいき)の一部に至る広大な領土を支配した。仏教もこの時代に全域に広まり、寺院の建立、仏像の制作は空前絶後の盛況を呈した。とくにガンダーラ地方で初めて仏像がつくられ、その時期は1世紀末から2世紀初めと考えられている。ペシャワルには古代の遺跡はほとんど残っていないが、カニシカ王のストゥーパといわれる遺跡から20世紀初めに青銅製の舎利容器が発掘され、その側面には、カニシカ王の寄進を証明するカローシュティー文字の銘文が彫られていた。
ペシャワルを中心に興った仏教美術はその周囲にも波及し、北はスワット渓谷、東はタキシラにもその遺跡が発見されるが、この時代にこの地方一帯に栄えた仏教美術をガンダーラ美術と称する。クシャン朝時代のガンダーラは、文字どおり文明の十字路にあり、東はインド、中国、北は北方遊牧民族の国々、西はペルシアからギリシア、ローマへと通じ、東西文化の影響を受けた。仏像にもギリシア、ローマの自然主義的な傾向と、土着的な要素の入り混じったものがみられ、インド亜大陸の一部でありながら、インドの伝統的な作風の希薄な、むしろ西方的な特色の強い美術が生み出された。彫刻では、もっとも芸術性の高い時期は3世紀ころを頂点とし、4、5世紀になるとやや衰退の様相がみられる。しかし中国へ仏教が初めて伝播(でんぱ)したのはこの時期であり、北魏(ほくぎ)時代の仏教美術に大きな影響を及ぼしたことは、さまざまな遺品が物語っている。ガンダーラ美術の遺品は、材料が青黒色の角閃(かくせん)片岩によるものが大部分で、末期になるとストゥッコ(漆食(しっくい))の像が多くなり、その表面に彩色を施している。
[永井信一]
『栗田功編著『ガンダーラ美術』全2巻(1989・ニ玄社)』