アムル人(アムルじん)
Amurru[アッカド],Amorites[英]
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
アムル人
アムルじん
Amurrus
アラビアを原住地とする西セム語族の遊牧民族。アモリ人(Amorites)ともいう
前2000年紀初め,シリアからメソポタミアに侵入して古バビロニア王国(バビロン第1王朝)をたてた。シリアでは前14世紀にアムル王国をたて,『旧約聖書』の時代まで有力であった。
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世界大百科事典(旧版)内のアムル人の言及
【アモリ人】より
…古代オリエントのセム系住民。アムル人ともいう。前3千年紀後半のアッカド語の文献にすでに,メソポタミアの西に広がるシリア砂漠の未開の半遊牧民の総称としてでてくる。…
【シュメール】より
…シュルギ治下のウルにおける[ジッグラト](人工の高い重層基壇の上に小祠を頂く聖塔)の造営や,数千頭の牛や数万束のアシを一括した記録の出現に見られるような繁栄や国家的収納機構の整備にもかかわらず,シュメール地方の土地生産力はかなり低下していた。やがて第4代のシュシンの時代にはアムル人(アモリ人(びと))の侵入が目だち,第5代イビシンの治世の末年にはその配下の武将に支配地域の大部分を奪われた後,王朝は[エラム]によって滅ぼされた。以後メソポタミアの地がアムル人によってますますセム化されていく過程で,政治中心はイシン,ラルサ,バビロン,エシュヌンナ,マリの5強に絞られ,バビロンの[ハンムラピ]による統一の下でシュメール人はアムル人に吸収され,シュメール人の歴史的役割は終りを告げる。…
【バビロニア】より
…先に王の神格化がナラムシンに始まったことに触れたが,この傾向はウル第3王朝期にいっそう徹底し,シュシンの場合のように在位中に王の神殿が建てられたり,これまで神をたたえるためにのみ用いられてきた賛歌の形式が王にも用いられ,多くの王賛歌が作られたりした。 ウル第3王朝滅亡の直接の原因は[エラム]人の侵攻であったが,間接的には[アモリ人](アムル人)の侵入も一因となった。このアモリ人は,西方セム系の民族で,シリアのビシュリ(バサル)山のあたりに興ったといわれるが,ウル第3王朝期に,最初は傭兵や農業労働者として平和的に南メソポタミアに移住してきた。…
※「アムル人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」