改訂新版 世界大百科事典 「イズボリスキー」の意味・わかりやすい解説 イズボリスキーAleksandr Petrovich Izvoľskii生没年:1856-1919 帝政ロシア末期の外交官,政治家。1894-1906年に,バチカン,ベオグラード,ミュンヘン,東京,コペンハーゲンの各公使を歴任して,06年5月,外相に就任。親英親独外交でストルイピン体制を支えた。07年には英露協商締結に参加。さらにダーダネルス海峡をめぐり,オーストリアと協定した(1908年9月)が,この結果,オーストリアがボスニア,ヘルツェゴビナを併合するところとなり,彼は外交的敗北を喫した。09年10月の露伊協定でも挽回できず,10年9月外相解任。その後,17年5月にフランスに亡命するまで駐仏大使をつとめた。執筆者:高田 和夫 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報 Sponserd by
日本大百科全書(ニッポニカ) 「イズボリスキー」の意味・わかりやすい解説 イズボリスキーいずぼりすきーАлександр Петрович Извольский/Aleksandr Petrovich Izvol'skiy(1856―1919) ロシアの政治家、外交官。駐独、駐日大使などを経て、1906~10年外務大臣。07年イギリス・ロシア協商、日露協約の締結に努めるなど列強との協調策をとったが、08~09年のオーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナ両州の併合によって威信を失墜した。10年大臣の職を辞した。10~17年駐仏大使。17年5月引退し、フランスに亡命。革命政権への干渉戦争の準備に奔走した。[栗生沢猛夫] 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例 Sponserd by