ドイツ南部に位置する同国第3の都市。バイエルン州の州都で人口約140万8千人(2013年推定)。「ビールの街」として知られ、札幌市と姉妹都市提携。自動車大手BMWや総合電機大手シーメンスの本社がある。西ドイツ時代の1972年にミュンヘン五輪が開催されたが、期間中の9月5日にパレスチナ・ゲリラのメンバーがイスラエル選手の宿舎を襲撃、イスラエル選手団11人ら計17人が死亡する五輪史上最悪の惨事となった。(ベルリン共同)
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ドイツの南東部を構成するバイエルン州の州都。面積310.39km2。人口は123万(2002)で,ベルリン,ハンブルクに次ぐ。南ドイツの経済・文化の一大中心地であるとともに,国際空港をもつドイツ最大の観光都市。1972年第20回夏季オリンピックが開催された。南のアルプス山地と北のドナウ川の間に広がる高原地帯のほぼ中央に位置し,アルプスに発するイーザル川が市を南南西から北北東へと貫流する。砂礫から成る台地上に発達し,市の南方には村々が点在する森林が広がり,北方は今日ではほとんど開拓された,かつての沼沢地に連なる。標高は市域南端の580mから北端の480mにわたり,都心で520m。気候は西欧の海洋性気候と東欧の大陸性気候の中間型で,アルプス山地の影響も受け,降水量年910mm,年平均気温7.9℃。最高気温34℃,最低気温-20℃の記録をもつ。11~12月は霧がちで,2~3月は雪が多いが,1月のフェーンのときはアルプスの山並みがくっきり見える。札幌と姉妹都市。
ミュンヘンの基が置かれたイーザル左岸の台地は,元来アルプス北縁のテーゲルンゼー修道院に属していたといわれ,ミュンヘンの名も〈修道士〉を意味するメンヘンMönchenに由来する。1158年,バイエルン大公ハインリヒ獅子公は,ライヘンハルからアウクスブルクに通じる〈塩の道〉のイーザル川にかかる橋を,フライジング司教支配下のフェーリングから5km上流のこの地に実力で移した。関所,市場,貨幣鋳造所も同時に移され,70年ころには市壁も築かれて,1214年には正式に〈都市〉とされた。しかし,市が40年に大公ウィッテルスバハ家の支配に帰した後も,フライジング司教は関税などの諸収入の分け前を保障され(1803まで),こうして市は〈宗教的・世俗的〉な二重の性格を長く持ち続けるのである。
1255年バイエルンが大公兄弟間の分割によって分国の時代にはいると,ミュンヘンには上バイエルンの大公の居館が置かれ,13世紀の末には,最初の市域(約0.17km2)を大きく取り巻く第2の市壁の建設が開始される(1315完成。東端のイーザル門は1337年)。こうして14世紀の初めには市域は当初の5倍強の0.9km2余へと拡大した。この頃上バイエルンの大公ルートウィヒがドイツ国王(1314),神聖ローマ皇帝(1328)となると,その城館(〈アルター・ホーフ〉)と近くのフランシスコ会修道院では,異端審問の手を逃れたイギリス出身のW.ofオッカムら錚々たる知識人がアビニョンの教皇に対抗して皇帝擁護の論陣を張った。帝国の色(黒,黄)がミュンヘン市の色となるのは,この皇帝のとき以降のことである。
ミュンヘン発展の原動力は,〈塩の道〉,またいかだによるイーザル川の水運であった。皇帝ルートウィヒによってアウクスブルク方面に向かう塩がすべてミュンヘンを経由すべきものとされたことは,塩取引での同市の地位をいっそう強めた。上流地方の木材,木炭,石灰,石材や南チロルのブドウ酒を運ぶいかだも,ミュンヘンの河岸に逗留(とうりゆう)して3日間市民に積荷を開くべきものとされた。市の商人は,ベネチア,フランドル,またボヘミアにいたる香料,毛織物,絹などの遠隔地取引でも活躍したが,〈領邦都市〉ミュンヘンの重要な基盤を形成したのは,むしろ,上バイエルン一帯の村々からもたらされる穀物や家畜の市であり,また農民や市民の需要に応えるさまざまな手工業であった(14世紀半ばにはビール醸造所もすでに21を数えた。人口は1381年で約1万1000)。
当時,市政は大公の任命する奉行と市参事会とによって行われたが,後者の中で決定的な力をもつ〈内部参事会〉は,富裕な大商人と土地所有者から成る〈都市貴族〉で構成されていた。この頃大商人たちは周辺の村々で土地の集積を進め,やがては城をも購入してその主となる者も出てくる。これに対して,市政の中心から排除されていた手工業者などの一般市民は,1397(1398)年〈300人の参事会〉を樹立し,数年間にわたって市政を支配したが,1403年敗北した。同年大公の参与下に都市貴族と一般市民の間に妥協が成立し,そのもとでミュンヘンは中世市民文化の高揚期を迎え,フラウエン教会,市庁舎(〈アルテス・ラートハウス〉。1470-80)など大規模な建築が相次いで行われた。1327年の大火ののち,わらや板ぶきの家から煉瓦や石造の家への転換がしだいに進み,大火は1434年を最後に後を絶ったが,中世の市民を繰返し苦しめたペストは,その後も何度かミュンヘンを襲った(1680まで)。火事やペストの際には,ときにユダヤ人が襲撃され,1442年のポグロムを機としてユダヤ人は市から閉め出された。
16世紀初め,分国の再統合に伴いミュンヘンはバイエルン唯一の首都となった。有力市民をもとらえた宗教改革の動きは,1527年に9人の再洗礼派が火あぶりや溺死の刑に処せられるなど,大公権力による厳しい弾圧で抑えられた。領邦絶対主義の形成がこうした反宗教改革の動きとからみ合いつつ進む中で,市の塩取引に関する諸特権が大公権力に奪われる一方(1587年塩の専売制度が成立),王宮(レジデンツ)の拡充が進められ,市の経済は増大する宮廷の需要への依存をしだいに深めていく。その中で市民の衣服への身分制的統制が強められ,その土地所有もしだいに後退した。この時期を象徴するのが,イエズス会のために建てられたザンクト・ミヒャエル教会と学院(1585-91)であり,そして選帝侯マクシミリアン1世によるミュンヘンの要塞化(1638(1640)完成)と次代の選帝侯妃アデライデによるテアティーナー教会である。
ミュンヘンはこの前後から〈ドイツのローマ〉と呼ばれるようになるが,1760年当時市内の教会,修道院の敷地は市域の1/5から1/4を占め,聖職者の数は約3万の人口中1000名に及んだ。イエズス会による大がかりな宗教劇の上演は市民に強い印象を与え,聖体祭の行列も,手工業者のさまざまなギルドや兄弟団から宮廷までが参加し,周辺28ヵ村もこれに協力する壮麗なものとなった。しかし,18世紀後半,啓蒙絶対主義の時代にはいると,修道士の数の制限や一連の祭日の廃止,またキリスト受難劇の禁止が進められた。次いでナポレオン戦争の中でバイエルンが近代国家への歩みを始めるとともに,1803年には,ミュンヘンだけで19にも上った修道院の国家への接収が行われた。他方,1801年にはプロテスタントの一商人に初めて市民権が与えられた。
これより先,1791年,要塞施設と4.8kmに及ぶ市壁の撤去が開始された。それは,王宮の北東に連なるイーザル川左岸低地の〈イギリス庭園〉の開設(1789-92)とともに,14世紀以来の市域の枠を越えて進むミュンヘンの新しい発展の幕明けであった。1806年バイエルン王国の首都となったミュンヘンには,18年フライジングの司教座に代わって大司教座が置かれ,長くインゴルシュタットにあった大学(1472創立)もランツフートを経て26年ミュンヘンに移された。この時期,初代国王マクシミリアン1世と次代ルートウィヒ1世のもとで,オペラのための宮廷・国民劇場,ウィッテルスバハ家歴代の収集に成る絵画を収めるアルテ・ピナコテーク,古典古代の彫刻を蔵するグリュプトテークなど大規模な建設が進められ,王宮から北に延びる大学や国立図書館の建ち並ぶ〈ルートウィヒ通り〉とともに,〈第二のパリ〉への意欲を今日に示している。この頃ミュンヘンは〈イーザルのアテネ〉とうたわれた。
その一方では,中世以来の長い伝統をもつ競馬が1810年テレージエン原で行われたのを機会に,その後毎年秋バイエルン農業協会の主催と国王の臨席のもとに〈オクトーバーフェスト〉が開催され,全バイエルン的な祭りへと発展した。野菜や酪農品の市場〈フィクトゥアーリエン市場〉がミュンヘン最古のザンクト・ペーター教会(11世紀前半創建)の裏手の現在の位置で新たな発展を開始するのもこの頃のことである。次いで,1839(1840)年のミュンヘン~アウクスブルク鉄道の開通以来首都として王国鉄道網の中心に据えられると,ミュンヘンはアウクスブルクを超えて南ドイツ最大の国際的物資集散地へと発展する(主要な貿易品は穀物,木材,家畜,果物,野菜など)。それに伴って銀行や保険会社の発達も著しかった。ミュンヘンのビールが世界的名声をかちとるのもこの頃以降のことである。しかし,〈ガラス宮殿〉(1931焼失)での工業博覧会(1854)や電気博覧会(1882),工科大学の設立(1868),そして世界的な科学技術博物館〈ドイツ博物館〉の建設(1903)にもかかわらず,ミュンヘンでは大工業の発展はそれほどみられず,陶磁器,家具などの工芸,印刷,既製服といった宮廷都市の伝統に根ざす優れた品質の多彩な中小企業が顕著な発達を遂げた。
市の人口は,ルートウィヒ1世に寵愛された踊り子ローラ・モンテスの物語に始まる1848-49年の革命の頃には9万に満たなかったが,ドイツ帝国の成立した71年には,54年のイーザル右岸3ヵ村の編入以降進められた周辺地域の市域への編入もあわせて17万(35.5km2)に上り,さらに1910年には60万(88.7km2)へと飛躍的な発展を遂げる(ワーグナーの後援者ルートウィヒ2世の生まれた離宮のあるニュンフェンブルクの編入は1899年)。19世紀の末以降市の南部から東部にかけてイーザル川をはさんで建てられた薄暗いアパート群は,工場労働者や職人あるいは奉公人等々としてミュンヘンに流入した人々の厳しい住宅事情を物語っている。そして,市の北西部にはいくつもの兵営が建ち並んでいた。
一方この時期,都心から北部のシュワービング(1890編入)にかけて,〈ミュンヘンは輝いていた〉(トーマス・マン)。例えば,カンディンスキーら表現主義芸術家のグループ〈ブラウエ・ライター〉,〈ユーゲントシュティール〉,L.トーマらの風刺誌《ジンプリツィシムス》等々。カフェーやカバレットには文士,芸術家や芸術家志望の若者またボヘミアンたちがたむろしており,オーストリアから来たヒトラーもそうした若者の一人であった。第1次大戦とともに,ミュンヘンにも一連の大工場が設立される。ミュンヘンの革命運動は,戦争の長期化に疲れ食糧不足やインフレに苦しんだ労働者,兵士,職人,サラリーマン,そしてK.アイスナー,G.ランダウアーら社会主義的文士たちの合作であった。これにガンドルファー兄弟ら農村の人々も加わったところに,ドイツ革命の中でのユニークな特色があった。レーテ共和国(レーテ運動)の崩壊後バイエルンでは右翼勢力が強力となり,23年11月にはヒトラーのミュンヘン一揆が起こっている。文化面でも〈民主的・世界都市的〉なベルリンに対してミュンヘンの〈文化保守的役割〉が強調され,その中でミュンヘンは〈地方都市〉の性格を強めた。しかし人口はさらに増加を続け,39年には約83万に達する。
ナチスの第三帝国のもと〈運動の首都〉と呼ばれたミュンヘンでは,今日の〈ナチズム犠牲者広場〉にあったゲシュタポ本部から数多くの労働者や市民が市北西方のダッハウDachauにある強制収容所に送られた。イギリス,ドイツ,フランス,イタリア4国首脳のミュンヘン会談が行われた38年には,ユダヤ教徒のシナゴーグが焼かれ,またプロテスタントのザンクト・マテウス教会が解体された。ミュンヘン大学前の〈ショル兄妹広場〉〈フーバー教授広場〉の名は,第2次大戦中の白バラ抵抗運動に由来する。
1940年から45年まで71回にわたった空襲の結果,市の半分近く(旧市街では90%)が破壊された(歴史的な建造物の多くはのち再建)。しかし,東西の冷戦(〈鉄のカーテン〉)によってニュルンベルクが相対的に停滞を余儀なくされたこと,またEECの成立によって南欧・東南欧への門としてのミュンヘンの役割が高まったことは,同市がバイエルン最大の工業都市へと躍進する跳躍台となった(主要な産業は電機,機械,精密機器,自動車,航空機,光学,化学など)。しかし,戦後の〈個人住宅〉と小規模分散型のアパートから密度の濃い集合住宅へと住宅建設の重点が移行したことは,57年に100万の大台を超え〈100万人の村〉とも呼ばれた大都市ミュンヘンの直面する苦悩を物語っている。そして,南欧や東南欧からの出稼ぎ労働者〈ガストアルバイター〉が厳しい労働(工場労働のほか看護婦勤務や町の清掃など)に従事し,〈世界に開かれた〉〈心地よい〉このミュンヘンを底辺で支えている。
執筆者:三宅 立
15世紀後半教区教会として造営されたフラウエン教会(1466-92)は,中世都市ミュンヘンの記念碑である(1821年以降大司教区の司教座聖堂となる)。3廊式の等高式バシリカ(ハレンキルヘ)で,末期ゴシック様式の煉瓦建築である。西側双塔の高さは99m。ザンクト・ミヒャエル教会はドイツ後期ルネサンスの重要な建築で,1583-97年ズストリスF.Sustrisらによってイエズス会のため建てられ,南ドイツにおける反宗教改革期の宗教建築の手本とされた。ルネサンスとバロックの様式を統合するテアティーナー教会(別称ザンクト・カエタン)は,1663-88年に十字形のプラン上に円蓋(ドーム)を載せる形式で造営された。その正面は約100年後F.キュビエによって完成された。アザム兄弟によって造営されたため〈アザム教会〉の名で知られるバロック建築,ザンクト・ヨハン・ネポームク教会は,1734-46年の建造である。内部の塑像装飾や天井フレスコ画はバイエルン末期バロックの傑作である。
ウィッテルスバハ家の王宮(レジデンツ)は世俗建築の代表作。王宮は長年月にわたって造営されてきた美術館や祝祭堂や劇場などの一大複合建築群であるが,大別すれば,17世紀初頭のマクシミリアン1世時代に建造された皇帝宮や西側正面部などの末期ルネサンス様式の部分と19世紀ルートウィヒ1世時代に造営された祝祭堂や王の館などの擬古典主義様式の部分とからなる。絵画館アルテ・ピナコテークもこの王家の収集品から始まったもので,ヨーロッパ絵画の一大収集である。このほかにノイエ・ピナコテーク,バイエルン国立博物館,彫刻館グリュプトテークなどの美術館,博物館がある。また市立美術館(レンバハハウスLenbachhaus)では,20世紀初頭ミュンヘンで活躍した〈ブラウエ・ライター〉の指導者カンディンスキーの作品を多数見ることができる。
執筆者:勝 國興
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ドイツ南東部、バイエルン州の州都。アルプスから北流してドナウ川に注ぐイザール川沿岸に位置する。人口123万4700(2002)。ベルリン、ハンブルクに次ぐ同国第三の大都市。地名は、集落の基礎をつくった修道士たちを意味するMönchenに由来する。中世都市としても栄えたが、19世紀以降、ルートウィヒ1世の治世や鉄道の開通などによって、南ドイツ随一の都市に成長した。
[石井英也]
イザール川の左岸、かつて市壁(現在は環状道路になっている)に囲まれていた旧市街には、由緒ある建物が集中している。たとえば、仕掛け時計のある塔をもつ市庁舎(1867~1908)、タマネギ型の円屋根の塔をもつフラウエン教会(1468~1488)、ドイツ・ルネサンス様式の貴重な遺産である聖ミヒャエル教会(1583~1597)、旧城館、造幣所、ホーフブロイハウス(旧宮廷醸造所)などである。旧市街は、各方面から道路の集まるミュンヘンの核心地で、中心業務地区でもある。そのため、銀行、保険会社、大会社の事務所、あるいは百貨店、専門店、レストランなどが多い。旧市街の北方に広がる地区は、19世紀初期のルートウィヒ1世時代に建設された部分で、格子状の道路網が特徴的である。この地区には、宮殿のほか、連邦・州政府機関、学校、美術館、博物館など、バイエルン州の中心施設が集まっている。さらに北部のシュワービング地区は、大学や美術学校に近く、学生や芸術家の居住地区として知られている。カフェーやレストランが多く、流行の先進地で、「小パリ」といわれる。旧市街の南西、中央駅の南には、オクトーバーフェスト(十月祭、ビール祭ともいわれる)の会場となるテレジエンウィーゼ広場や見本市会場がある。市の西部にある巨大なバロック様式のニンフェンブルク城は、バイエルン選帝侯の夏の宮殿で、1663~1728年に造営された。ここに付属するロココ様式のアマリエンブルク宮や国立陶器製造所もよく知られている。
市は芸術・文化の中心地で、ドイツ最大の総合大学(1472年創立、1826年ミュンヘンに移転)、工科大学、造形美術大学、音楽大学のほか、国立図書館、バイエルン国民博物館、ドイツ博物館(自然科学と工学)、グリュプトテーク(古代および現代の彫刻館)、アルテ・ピナコテーク、ノイエ・ピナコテークの2絵画館、国立劇場、オペラ劇場などがある。
[石井英也]
ミュンヘンの繁栄は、長い間商業によって維持されてきた。中世には、とくに塩の交易によるところが大きかった。19世紀中ごろの鉄道の開通後には、南ドイツ最大の穀物、木材、果物、野菜の集散地となった。工業は、19世紀初頭にはわずかの手工業しかみられなかったが、19世紀後半から発展し、現在ではバイエルン最大の工業都市となった。エレクトロニクス、光学、電気機械、精密機械、自動車などの近代工業ばかりでなく、ビール醸造、工芸や出版、印刷といった伝統工業も盛んである。北郊に大規模な工業団地がつくられている。第二次世界大戦後の人口急増によって住宅不足が深刻となり、南郊や北郊にいくつかの大規模な住宅地区が建設されてきた。市街地は、建物の老朽化、交通の混雑、駐車場不足といった大都市共通の悩みを抱え、その再開発に力が入れられている。1972年にオリンピックが開かれ、それを機に地下鉄が開通した。
[石井英也]
8世紀に修道士によって開かれた。12世紀ウェルフ家最後のバイエルン大公ハインリヒ獅子(しし)公がここに市場を移し、貨幣鋳造権、関税(とくに塩税)徴収権を得て以来、都市となり、獅子公のあとバイエルンを支配するウィッテルスバハ家の居城地となった(1918年11月まで)。16世紀以来、バイエルン公国の首都として、また商業の中心地として繁栄した。16世紀の宗教改革ではカトリック教会、とくにイエズス会の拠点となった。17世紀の三十年戦争では、スウェーデン国王グスタフ・アドルフに占領された。18世紀のスペイン継承戦争ではオーストリアに占領され、選帝侯はルイ14世の下に逃れたが、このころからミュンヘンはフランスの影響を受け始めたといわれる。
1805年ナポレオン1世はミュンヘンに入り、アウステルリッツの勝利後、1806年バイエルンの領地を拡大し王国にした。ミュンヘンには大学も誘致され、ドイツだけでなく、ヨーロッパの文化と学問の一つの中心地となった。1848年、三月革命では、踊り子ローラ・モンテスとの情事で知られるルートウィヒ1世が退位した。ノイシュバーンシュタイン城建設で知られるルートウィヒ2世は当時の医師らに統治不能との精神鑑定を受け、後に溺死(できし)体となって発見された。1918年11月ドイツ全土に先駆けてミュンヘンに革命が起こり、王政は打倒され、アイスナー政府が成立した。1919年2月アイスナーは街頭で暗殺され、ホフマン政府が成立するが、4月~5月にはレーテ共和国が宣言されたこともあって、白色テロの荒れ狂うなかでミュンヘンは右翼の巣窟(そうくつ)となった。1923年11月にはヒトラー一揆(いっき)が起こった。ヒトラーが政権につくと、1935年ミュンヘンは「運動の首都」と宣言された。ズデーテン問題に関する1938年9月の英独仏伊の四国協定はここで調印された。第二次世界大戦の戦局が転換すると、ミュンヘン大学でも反ナチス抵抗運動「白バラ」の活動がみられた。第二次世界大戦ではミュンヘンの半分が破壊され、戦後はアメリカ軍の占領下に置かれた。1947年6月バイエルン州首相エアハルトの提唱による全ドイツ州首相会議がミュンヘンで開かれたが、議題をめぐって交渉は決裂し、やがてドイツは分裂した。
[吉田輝夫]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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