日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミュンヘン」の意味・わかりやすい解説
ミュンヘン
みゅんへん
München
ドイツ南東部、バイエルン州の州都。アルプスから北流してドナウ川に注ぐイザール川沿岸に位置する。人口123万4700(2002)。ベルリン、ハンブルクに次ぐ同国第三の大都市。地名は、集落の基礎をつくった修道士たちを意味するMönchenに由来する。中世都市としても栄えたが、19世紀以降、ルートウィヒ1世の治世や鉄道の開通などによって、南ドイツ随一の都市に成長した。
[石井英也]
市街と歴史的建造物
イザール川の左岸、かつて市壁(現在は環状道路になっている)に囲まれていた旧市街には、由緒ある建物が集中している。たとえば、仕掛け時計のある塔をもつ市庁舎(1867~1908)、タマネギ型の円屋根の塔をもつフラウエン教会(1468~1488)、ドイツ・ルネサンス様式の貴重な遺産である聖ミヒャエル教会(1583~1597)、旧城館、造幣所、ホーフブロイハウス(旧宮廷醸造所)などである。旧市街は、各方面から道路の集まるミュンヘンの核心地で、中心業務地区でもある。そのため、銀行、保険会社、大会社の事務所、あるいは百貨店、専門店、レストランなどが多い。旧市街の北方に広がる地区は、19世紀初期のルートウィヒ1世時代に建設された部分で、格子状の道路網が特徴的である。この地区には、宮殿のほか、連邦・州政府機関、学校、美術館、博物館など、バイエルン州の中心施設が集まっている。さらに北部のシュワービング地区は、大学や美術学校に近く、学生や芸術家の居住地区として知られている。カフェーやレストランが多く、流行の先進地で、「小パリ」といわれる。旧市街の南西、中央駅の南には、オクトーバーフェスト(十月祭、ビール祭ともいわれる)の会場となるテレジエンウィーゼ広場や見本市会場がある。市の西部にある巨大なバロック様式のニンフェンブルク城は、バイエルン選帝侯の夏の宮殿で、1663~1728年に造営された。ここに付属するロココ様式のアマリエンブルク宮や国立陶器製造所もよく知られている。
市は芸術・文化の中心地で、ドイツ最大の総合大学(1472年創立、1826年ミュンヘンに移転)、工科大学、造形美術大学、音楽大学のほか、国立図書館、バイエルン国民博物館、ドイツ博物館(自然科学と工学)、グリュプトテーク(古代および現代の彫刻館)、アルテ・ピナコテーク、ノイエ・ピナコテークの2絵画館、国立劇場、オペラ劇場などがある。
[石井英也]
産業・再開発
ミュンヘンの繁栄は、長い間商業によって維持されてきた。中世には、とくに塩の交易によるところが大きかった。19世紀中ごろの鉄道の開通後には、南ドイツ最大の穀物、木材、果物、野菜の集散地となった。工業は、19世紀初頭にはわずかの手工業しかみられなかったが、19世紀後半から発展し、現在ではバイエルン最大の工業都市となった。エレクトロニクス、光学、電気機械、精密機械、自動車などの近代工業ばかりでなく、ビール醸造、工芸や出版、印刷といった伝統工業も盛んである。北郊に大規模な工業団地がつくられている。第二次世界大戦後の人口急増によって住宅不足が深刻となり、南郊や北郊にいくつかの大規模な住宅地区が建設されてきた。市街地は、建物の老朽化、交通の混雑、駐車場不足といった大都市共通の悩みを抱え、その再開発に力が入れられている。1972年にオリンピックが開かれ、それを機に地下鉄が開通した。
[石井英也]
歴史
8世紀に修道士によって開かれた。12世紀ウェルフ家最後のバイエルン大公ハインリヒ獅子(しし)公がここに市場を移し、貨幣鋳造権、関税(とくに塩税)徴収権を得て以来、都市となり、獅子公のあとバイエルンを支配するウィッテルスバハ家の居城地となった(1918年11月まで)。16世紀以来、バイエルン公国の首都として、また商業の中心地として繁栄した。16世紀の宗教改革ではカトリック教会、とくにイエズス会の拠点となった。17世紀の三十年戦争では、スウェーデン国王グスタフ・アドルフに占領された。18世紀のスペイン継承戦争ではオーストリアに占領され、選帝侯はルイ14世の下に逃れたが、このころからミュンヘンはフランスの影響を受け始めたといわれる。
1805年ナポレオン1世はミュンヘンに入り、アウステルリッツの勝利後、1806年バイエルンの領地を拡大し王国にした。ミュンヘンには大学も誘致され、ドイツだけでなく、ヨーロッパの文化と学問の一つの中心地となった。1848年、三月革命では、踊り子ローラ・モンテスとの情事で知られるルートウィヒ1世が退位した。ノイシュバーンシュタイン城建設で知られるルートウィヒ2世は当時の医師らに統治不能との精神鑑定を受け、後に溺死(できし)体となって発見された。1918年11月ドイツ全土に先駆けてミュンヘンに革命が起こり、王政は打倒され、アイスナー政府が成立した。1919年2月アイスナーは街頭で暗殺され、ホフマン政府が成立するが、4月~5月にはレーテ共和国が宣言されたこともあって、白色テロの荒れ狂うなかでミュンヘンは右翼の巣窟(そうくつ)となった。1923年11月にはヒトラー一揆(いっき)が起こった。ヒトラーが政権につくと、1935年ミュンヘンは「運動の首都」と宣言された。ズデーテン問題に関する1938年9月の英独仏伊の四国協定はここで調印された。第二次世界大戦の戦局が転換すると、ミュンヘン大学でも反ナチス抵抗運動「白バラ」の活動がみられた。第二次世界大戦ではミュンヘンの半分が破壊され、戦後はアメリカ軍の占領下に置かれた。1947年6月バイエルン州首相エアハルトの提唱による全ドイツ州首相会議がミュンヘンで開かれたが、議題をめぐって交渉は決裂し、やがてドイツは分裂した。
[吉田輝夫]