ダーダネルス海峡(読み)ダーダネルスかいきょう(英語表記)Dardanelles

翻訳|Dardanelles

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ダーダネルス海峡」の意味・わかりやすい解説

ダーダネルス海峡
ダーダネルスかいきょう
Dardanelles

トルコ北西部,マルマラ海エーゲ海を結ぶ海峡チャナッカレ海峡 Çanakkale Boǧazıともいい,古くはヘレスポントス Hellespontos(→ヘレ)と呼ばれた。ダーダネルスの名は,前85年ポントスの王ミトラダテス6世とローマの将軍ルキウス・コルネリウススラ講和を結んだ町ダルダヌス Dardanusに由来する。ヨーロッパ側のゲリボル半島と小アジア半島(→アナトリア)に挟まれ,全長 61km,幅 1.2~6.5km。平均水深は 55mで,中央部の最も幅が狭い海域で深さ 90mと最深。上層の海水はマルマラ海からエーゲ海に向かって南西に速く流れ,下層水は逆に流れて塩分濃度が高い。主要港にゲリボル,エジェアバト,チャナッカレがあり,沿岸には有名な古城が多い。魚種が豊富で,黒海とエーゲ海の間を回遊する。地中海からイスタンブールや黒海へ通じる門戸として,戦略上,通商上の要衝であり,ボスポラス海峡とともに歴史的に重要な意味をもった。ギリシア神話ヘロとレアンドロス」の舞台とされ,古代都市のトロイは海峡の南西部を戦略上の観点から防衛した。前480年にペルシアクセルクセス1世船橋をつくって海峡を越え(→ペルシア戦争),前334年にはアレクサンドロス3世大王)がペルシア遠征に際して渡った。19~20世紀にはロシア,トルコ(→オスマン帝国),イギリスフランスなどが,おもに軍艦通航をめぐって対立した(→海峡問題)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ダーダネルス海峡」の意味・わかりやすい解説

ダーダネルス海峡
だーだねるすかいきょう
Dardanelles

エーゲ海とマルマラ海の間にある海峡。ボスポラス海峡とともにアジアとヨーロッパを分かつ海峡で、古くからの交通の要衝である。長さ61キロメートル、幅は1.9~6.4キロメートル。古代はヘレスポントス海峡とよばれて、黒海と地中海を結ぶ貿易路を支配した。トロイの繁栄はこれに基づいていた。ギリシア植民市としてアビトス、セストスが海峡の両岸に成立した。ペルシア戦争では、アケメネス朝のクセルクセス1世の大軍がこの海峡を通過した。アレクサンドロス大王は紀元前334年、ペルシア遠征のためこの海峡を渡った。ローマ帝国の支配下に入ったダーダネルス海峡は、コンスタンティノープル建設後、地中海への出口として重要性を増した。イスラム勢力や第4回十字軍もこの海峡を海路通過した。オスマン帝国オルハン・ベイは1356年、ダーダネルスを渡り、ガリポリを占領しヨーロッパに進出した。1453年コンスタンティノープルがオスマン帝国に占領されると、海峡は地中海からの海上航路としてのみ外国商船に開放された。

 18世紀以降、ロシアの南下政策が進行すると、ボスポラス海峡とともに国際関係の重要地点の一つとなった。ギリシア独立戦争後、オスマン朝とロシアの間で締結されたアドリアノープル条約で、海峡はロシアの完全自由航行権が保障され、1833年には、エジプト事件を理由に、ロシアの軍事支配が行われた。その後、1841年、海峡条約により海峡の中立が規定された。クリミア戦争後のパリ条約で、海峡の軍艦通行が禁止された。ロシア・トルコ戦争のロシア勝利によってサン・ステファノ条約が1876年締結され、両海峡の自由通航権をロシアが得た。しかし同年のベルリン条約によりサン・ステファノ条約は破棄された。第一次世界大戦後、1920年、セーブル条約により海峡は国際海峡委員会が管理した。1936年、モントルー条約によって新生トルコ共和国は、ダーダネルス海峡の管理権を手に入れることができた。

[設楽國廣]

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