イブンアッズバイル(その他表記)Ibn al-Zubayr

改訂新版 世界大百科事典 「イブンアッズバイル」の意味・わかりやすい解説

イブン・アッズバイル
Ibn al-Zubayr
生没年:622-692

メッカの僭称カリフ。父はサハーバムハンマドの教友)のズバイル,母はアブー・バクルの長女アスマーで,ヒジュラ後ムハージルーン(メディナへの移住者)の間に生まれた最初の男子。ウマイヤ朝のヤジード1世によるカリフ位の世襲を認めず,683年ヤジード1世が没してムアーウィヤ2世がカリフ位を世襲すると,メッカでカリフを宣言し,ウマイヤ朝から独立した。彼はイラクエジプトでもカリフと認められ,一時はシリアの半分以上を支配したが,統治の実務的能力に欠け,最後はハッジャージュ・ブン・ユースフ軍隊に包囲され,692年メッカで戦死した。カリフを宣言してから敗死するまでの9年間をイスラム史家は第2次内乱の時代と呼ぶ。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のイブンアッズバイルの言及

【アラビア半島】より

…アラブの生活と社会構造は前イスラム時代と変わらず,ウマイヤ朝,アッバース朝の支配時代を通じて,半島では遊牧生活が支配的であった。その間にあって,メッカの有力者イブン・アッズバイルが9年間(683‐692)カリフと称してウマイヤ朝に対抗し続けたことは,アラビア半島の最後の政治的自己主張にほかならなかった。 半島全体の重要性は失われたとはいえ,二聖都メッカとメディナはイスラムの信仰および学問の中心地として特別の地位を占め,歴代のアッバース朝カリフは食料の確保,衛生の維持などに細心の注意を払った。…

【ウマイヤ朝】より

… ムアーウィヤ1世は,20年間のカリフ在位中,第3代カリフ,ウスマーンの暗殺から第4代カリフ,アリーの暗殺にいたる第1次内乱(656‐661)によって分裂した国内の統一に努めた。その没後,フサインカルバラーでの戦死を経て,683年にはメッカのイブン・アッズバイルがカリフと称し,685年クーファではムフタールの乱があり,同朝は存亡の危機に陥った。これを第2次内乱(683‐692)というが,第5代カリフのアブド・アルマリク‘Abd al‐Malik(646∥647‐705。…

【カーバ】より

…伝承によれば,ムハンマドの青年時代のカーバは,高さは人の背丈ほどで屋根もなかったが,火事で焼け落ちたので,ほぼ現在の形に建て直されたという。その後イブン・アッズバイルはカーバを拡張したが,その死後もとの形に戻され,1630年の改修を経て今日に及んでいる。 現在,カーバは聖モスクの中庭の中央に位置する。…

【メッカ】より

…イスラム世界の政治の中心は当初はメディナにあり,次いでダマスクスやバグダードに移って,メッカにあることはなかった。ただ,683‐692年にイブン・アッズバイルがメッカでカリフと称してイラクやエジプトなどイスラム世界の一部の支持を得ていた時期が例外である。このとき,結局,ウマイヤ朝の軍隊がメッカを破壊し,イブン・アッズバイルを倒している。…

【メディナ】より

…第4代カリフ,アリーはイラクを政権の本拠地とし,ウマイヤ朝初代のカリフ,ムアーウィヤ1世はシリアを本拠地としたが,この時期のメディナはまだ多くの政界有力者の居住する重要な政治都市であった。683年,メッカでカリフ位を宣言しウマイヤ朝に敵対することを明らかにしたイブン・アッズバイルに対し,ウマイヤ朝軍がメディナを襲った。メディナ市民は郊外の溶岩台地(ハッラ)でウマイヤ朝軍と戦って敗れ,メディナはウマイヤ朝軍によって破壊された。…

※「イブンアッズバイル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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