メッカ(読み)めっか(英語表記)Mecca

翻訳|Mecca

日本大百科全書(ニッポニカ) 「メッカ」の意味・わかりやすい解説

メッカ
めっか
Mecca

サウジアラビア西部、ヒジャーズ地方の主要都市で、イスラム教第一の聖地。アラビア語で正しくはマッカMakkahという。人口161万4800(2003推計)。紅海沿岸から約100キロメートル内陸に位置し、暑熱の荒野のなかの涸(か)れ谷と両側の河岸段丘上に発達した都市である。古くからザムザムという井戸を中心とするオアシス交易地として発展していたが、カーバ神殿を有するアラブ多神教信仰の中心地としても知られ、巡礼者を集めていた。6世紀末この地に生まれ育ったムハンマドマホメット)は、富裕な商人たちが崇(あが)める偶像を批判し、唯一の神アッラーの前で万人は平等であると唱えて、イスラム教をおこした。そのため迫害を受けて622年メディナに移ったのち、630年メッカを無血征服し信仰の中心地とした。カーバ神殿の偶像は破壊されたが、神殿自体はアッラーの神殿に転用され、ザムザムの井戸を聖井とする旧習や巡礼の慣習はイスラム教に取り入れられた。

 現在、世界中に10億人と推定される信徒は毎日この町の方向(キブラ)に向かって礼拝し、巡礼月には近年約250万人の巡礼者が訪れる。非イスラム教徒は立ち入りを禁止されている。

[片倉もとこ]

歴史

7世紀にイスラム教が勃興(ぼっこう)した地であるが、その時代でもすでに伝説的に古い町であった。アダムイブにまつわる伝説の地でもあり、この地にあるカーバ神殿は、ノアの洪水で流されたのち、アブラハムが再建したものと信じられていた。

 確実な伝承に基づく歴史が復原できるのは、預言者ムハンマドの5世代前にクライシュ人がここに定着してからである。クライシュはカーバ神殿を擁する聖地としてのメッカを守り発展させる一方、隊商を組織する国際商人に成長していった。610年ごろからここでムハンマドがイスラムを説くが、彼に共鳴したのはごく少数で、多数は迫害した。622年、彼はメッカを捨ててメディナに移り、やがて630年にメッカを征服した。彼はカーバ神殿に祀(まつ)られていた多くの偶像を破壊し、それをアッラーのみの館(やかた)とし、メッカをイスラムの聖地として、信徒にそこへの巡礼を義務づけた。以後メッカはイスラムの聖地としての地位を今日まで保っている。ウマイヤ朝アッバース朝の保護下で宗教都市として発展した。10世紀ごろからはムハンマドの子孫であるメッカの土着勢力が市政を担当したが、メッカの長はおおむね、エジプト、シリアを支配したイスラム王朝の保護下にあった。第一次世界大戦の際、メッカの大守フセインは、長らくメッカの保護者であったオスマン帝国から離れ独立した勢力をつくったが、1924年イブン・サウドに敗れた。現在メッカは、イブン・サウドがつくったサウジアラビア王国に含まれている。

[後藤 明]

『前嶋信次編『メッカ』(1975・芙蓉書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「メッカ」の意味・わかりやすい解説

メッカ
Mecca

サウジアラビアの宗教上の首都。マッカ Makkahともいう。サウジアラビア西部,ヒジャーズ地方南部,紅海東岸の外港ジッダの東 72kmの内陸,シーラト山地に位置する。ムハンマド生誕の地で,イスラム教の最高の聖地。オアシス都市で,古くから西アジアインドを結ぶ香料貿易の要衝。また泉とそのほとりのカーバ神殿は,イスラム教徒(ムスリム)の信仰の中心であった。カーバ神殿,聖泉,聖山(→サファーとマルワー)があり,周辺一帯が聖地となっている。イスラム教徒は一生に一度の巡礼を求められており,毎年巡礼月には国内,国外合わせて約 200万の巡礼者が訪れる(→ハッジ)。メッカだけでなく,ヒジャーズ地方全体の経済が巡礼からの収入に大きく依存している。面積 26km2。人口 129万4106(2004)。

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