イスラム教の創唱者。マホメットMahometともよばれるが、これは訛(なま)りである。
[中村廣治郎 2018年4月18日]
ムハンマドの前半生についてはあまり知られていない。西暦570年ころ、メッカのクライシュ人のハーシム一族の子として生まれた。父の名をアブドゥッラー‘Abdullah(546ころ―570)といい、母をアーミナAmina(?―576)とよんだ。ムハンマドが生まれたときには、父はすでにこの世にはなく、6歳のころには母とも死別して孤児となる。祖父のアブドゥル・ムッタリブ‘Abdul-Mualib(497ころ―578)に引き取られるが、この祖父も2年後に没し、叔父のアブー・ターリブAbū ālib(539ころ―619ころ)の手で養育される。後年、コーランのなかで繰り返し孤児への心遣いが説かれるが、それは彼自身の孤児としての不幸な境遇と無関係ではないであろう。
少年のころ、叔父とともに隊商に加わってシリアに行ったことがあるといわれるが、青年時代には叔父の取引を手伝ったり、他の商人の代理人の仕事をして生計をたてたことであろう。そのようななかで、あるとき、叔父の紹介でハディージャKhadija(565ころ―619/620)という富裕な寡婦の商人の仕事を手伝ったが、「正直者」(アミーン)とあだ名されたムハンマドの人柄が見込まれ、2人は結婚することになる。ムハンマドが25歳、ハディージャが40歳であったという。
ムハンマドはようやく生活の安定を得て、幸福な生活を送ることになる。ただ、3男4女をもうけるが、不幸にして男児は夭逝(ようせい)してしまう。このころから、彼はメッカ郊外のヒラー山の洞窟(どうくつ)にしばしば籠(こも)り、祈祷(きとう)や瞑想(めいそう)にふけるようになる。その理由については知る由もないが、商業都市として繁栄するメッカ社会のさまざまな矛盾や部族的悪弊に対して、なにか満たされないものを感じていたのかもしれない。いずれにしても、610年のある夜、いつものようにヒラー山の洞窟に籠っているとき、突然、異常な体験をした。天使が現れ、巻物で彼ののどくびを押さえ付けるようにして、「誦(よ)め」といった。これが神(アッラー)からの最初の啓示であったといわれる(コーラン96章1~5節)。混乱と苦悩ののち、やがて彼は預言者としての自覚を得て、身の回りの人々に教えを説き始める。そして数年後には公に宣教を開始する。
[中村廣治郎 2018年4月18日]
唯一神アッラーへの信仰、終末・復活と審判、天国と地獄、信仰と善行による救いと不信仰者への罰の教えは、メッカの多神教と現世的な商人ないしは部族倫理とは相いれず、大方のメッカの人々の嘲笑(ちょうしょう)と反感を買い、それはやがて迫害へと変わる。615年、ついに彼は対岸のアビシニア(エチオピア)に約80名の信徒を避難させた。そのようななかで619年には、ハーシム一族の長としてムハンマドを庇護(ひご)してきた叔父と、心の支えであった妻ハディージャを相次いで亡くし、彼の宣教活動はクライシュ人の迫害の前についえ去るかにみえた。
しかし、翌620年、異教のパンテオン、カーバ神殿への巡礼にメッカを訪れたヤスリブ(後のメディナ)の住人がムハンマドの説教を聞き、感銘を受けた。当時、メディナはユダヤ教徒の部族のほか、アウス人とハズラジュ人という二つのアラブ系部族があり、両者が長年、対立・抗争を続けていた。ムハンマドの教えを聞いた巡礼者たちは、彼を調停者として迎えようとしたのである。彼もこれを宣教のための好機ととらえ、周到な準備ののち、信徒とともにひそかにメッカを脱出し、無事、メディナに到着した(622年9月24日)。これがヒジュラ(遷行・移住)である。のちにこの年がイスラム暦の元年とされる。ここに、「移住者」(ムハージルーン)約70名、メディナの「援助者」(アンサール)約80名からなり、ともにムハンマドを預言者と認める小さなイスラム共同体(ウンマ)が成立したのである。
[中村廣治郎 2018年4月18日]
しかし、ウンマの前途がこれで約束されたわけではない。ムハンマドは預言者として受け入れられたとはいえ、あくまでも調停者であり、調停に失敗すれば、彼の預言者としての地位も水泡に帰してしまう。しかもメディナ社会には、ユダヤ教徒をはじめ、彼の指導を快く思っていない人々が多くいた。そのうえ、メッカの大商人たちにとっては、メディナのイスラム教徒の存在は、シリア地方への交易ルートを脅かすものとして、容認しがたいものであった。このような状況のなかで、さまざまな困難や障害を克服し、その使命を完遂するには、単に宗教的指導者としてだけではなく、優れた政治的指導者としての能力が要請される。
まず、624年、メディナの「移住者」に自活の道を開き、同時にメッカ側に経済的打撃を与えるために、シリアから帰途のメッカの隊商を襲撃した。メッカ側は増援部隊を送ったが、メッカとメディナの中間点バドルで撃破された。さらに、625年のウフドの戦いに続いて、627年のハンダクの戦いでは、メッカ側のメディナ包囲を完全に失敗に終わらせた。その間、軍事的勝利を利用してユダヤ教徒をはじめとする不満分子を沈黙させ、あるいは排除し、他方では、外交交渉によって周辺アラブ諸部族を改宗させ、あるいは同盟を結んで、内外における自己の政治的立場を強化していった。これが、彼の人徳と相まってその宗教的権威をいっそう高めた。こうして630年には、メッカの無血征服に成功し、カーバ神殿に安置されていた多数の偶像を破壊してこれを清めた。それ以前にすでにカーバ神殿は、「ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもない」、純粋な一神教徒アブラハムの建立になる「アッラーの館(やかた)」として、思想的にはイスラム化されていたのである。
このようにアラブ諸部族のなかでも有力なクライシュ人がムハンマドの権威に服することになって、彼の威令はアラビア半島全域に広まり、多くの部族がメディナに使節を送って盟約を結び、あるいはイスラムの信仰を受け入れ、喜捨を出した。とくに631年は、このような外交使節が多く到来した年で、「遣使の年」といわれる。しかし、ムハンマドは翌年、メッカ巡礼を終えてメディナに帰ってから、ほどなくして世を去る。
[中村廣治郎 2018年4月18日]
彼の死後、その後継者問題やアラブ諸部族の離反によって、ウンマは一時崩壊の危機に直面したが、初代カリフに選出されたアブー・バクル(在位632~634)の努力によって半島は再統一され、やがてムスリム(イスラム教徒)軍は半島を出て東西にその版図を拡大していく。こうしてムハンマドは神の使徒・預言者として神からの啓示を伝えただけでなく、その教えを現実の社会のなかに根づかせることに成功した。この意味で彼は、宗教者であっただけではなく、また優れた組織者でもあった。ここに彼の特異な性格がある。
イスラム教では、神以外のいっさいのものは、その被造物として神と峻別(しゅんべつ)され、それらの神格化は厳しく否定される。預言者とて同様である。コーランに繰り返し強調されているように、ムハンマドはあくまでも「1人の警告者」(53章56節)、「ただの人間、1人の使徒」(17章93節)にすぎない。しかし、たとえそうではあっても、人をとらえて離さない彼の人間的魅力や情愛がなければ、指導者としてあれほどの大事業を成し遂げえなかったであろう。
ムハンマドはこのように人間として生まれ、人間として世を去った。とはいえ、彼に直接接したことのある人、彼を預言者として敬愛する信徒にとって、彼は「ただの人間」のままではありえなかった。彼はさまざまの時代のさまざまの人間にとって、理想的なムスリム、信徒の鑑(かがみ)であっただけではなく、超人的存在でもあった。庶民にとっては奇跡の執行者であったし、法学者にとっては彼への服従は神への服従と同一視され、その言行はコーランに次ぐ神的権威をもってきた。スーフィー(イスラム神秘主義者)にとっては彼は理想のスーフィーであり、彼の本質は宇宙創造に先だつ神の先在的ロゴスとみなされ、哲学者は理想の哲人を、モダニストは最高の道徳的完成者をそこにみいだした。このようにムハンマドは、時代を通じてつねにムスリムたちの信仰を鼓舞してきたが、彼自身が神格化されなかったことは驚くべきことである。
[中村廣治郎 2018年4月18日]
『嶋田襄平著『預言者マホメット』(1966・角川書店)』▽『モンゴメリー・ワット著、牧野信也・久保儀明訳『ムハンマド――預言者と政治家』(1970/新装版・2002・みすず書房)』▽『牧野信也著『人類の知的遺産17 マホメット』(1979・講談社)』▽『後藤晃著『ムハンマドとアラブ』(1980・東京新聞出版局)』▽『藤本勝次著『マホメット――ユダヤ人との抗争』(中公新書)』
アメリカの黒人組織黒人イスラム教団「ブラック・ムスリム」の指導者。ジョージア州サンダースビル生まれ。30歳ぐらいまで職を転々としたのちイスラム教組織に参加。1931年初めてイスラム教寺院を建設。シカゴで組織活動に献身。第二次世界大戦中、徴兵を忌避して4年間の獄中生活。1959年アメリカ20余州に50余りのイスラム教寺院を建設するほどに支持基盤を拡大。1960年代に入りとくに白人との対決姿勢を強め、暴力的手段の行使をも掲げた。1970年には自給自足的な黒人イスラム教国家の樹立を目ざし、白人社会からの経済的自立を主張した。黒人はアッラーの神によって選ばれたのであり、黒人の解放は白人社会から分離し白人社会を乗り超える以外にはありえないとするのが彼の思想的特徴である。
[河内信幸 2018年4月18日]
イスラムを説いた預言者。日本ではマホメットと呼ばれる場合が多い。コーランでは彼は,〈神の使徒rasūl Allāh〉〈預言者nabī'〉〈警告者nadhīr〉などの語で呼ばれ,アブラハム,モーセ,イエスなど一連の預言者の系列において〈最後の預言者khātam al-nabīyīn〉と位置づけられている。
イスラム教徒とその社会にとって,日常生活から国家の政治に至るまで,神の意志が絶対のものとされる。その意志は,預言者に下された啓示に示される。預言者以外の人間には,神の意志は直接には伝わらず,また最後の預言者がムハンマドであるから,ムハンマド以後の人間はムハンマドに下された啓示を集成したコーランによって,最も正しく神の意志を知ることになる。また,神の意志を直接に受けた預言者ムハンマドの言行(スンナ)にも,神の意志は示されている。その言行に関する伝承(ハディース)も,神の意志を知る手がかりとなる。スンナ派の神学・法学の体系の中では,このように,ムハンマドはその言行の細部に至るまで重要な人物と位置づけられてはいるが,彼はあくまで〈預言者〉〈警告者〉であり,決して神性を有するとも,信仰・崇拝の対象であるともされてはいない。
ムハンマドは,アラビア半島の町メッカで生まれ育った。メッカはカーバのある聖地で,毎年アラビアの各地から巡礼者が集まる町であった。カーバはアブラハムが建設したと信じられており,多くの神々の像が祀られていたが,神殿の〈主〉はアッラーであるとされていた。ムハンマドは当時のメッカの住民,クライシュ族のハーシム家に生まれた。クライシュ族はムハンマドの5代前にメッカに定着し,3代前の時代から隊商を組織する国際商人に成長していた。ハーシム家はクライシュ族の名門ではあったが,彼個人は,誕生前に父を失い,幼時に母も失い,孤児として祖父や叔父に育てられた。
ムハンマドは25歳のころ,富裕な未亡人ハディージャと結婚し,以後,平穏で安定した生活を送った。ある時期から,彼は郊外のヒラー山の洞窟でしばしば瞑想にふけるようになる。そのような瞑想中,突然に彼は異常な経験をする。全身が押しつぶされるような感覚があり,大天使ガブリエルが啓示を〈誦(よ)め〉と命じたと伝えられている。最初の啓示は彼が40歳のころにあった。以後,啓示は彼が死を迎えるまでの二十数年間にわたって断続的にあった。
預言者と自覚したムハンマドは,人々に警告し始めた。主として若者からなる信徒集団が形成された。しかし,クライシュ族の多くの人々にとっては,父祖以来の宗教を棄てることはできなかった。また,ムハンマドの説教は,カーバを有し,そこに集まる巡礼者を迎えていた宗教都市メッカの基盤を危うくするものと考えられた。ムハンマドはまた富を独占する大商人を批判し,内面的な信仰だけでなく,メッカ社会のあり方そのものを問題にしたのであった。それゆえ,彼と信徒への迫害は急速に厳しくなっていった。
622年,ムハンマドと70余名の信徒とその家族がメッカを棄て,メディナに移住した。彼は移住から死までの11年余りの期間に,メディナを中心とする教団国家を建設した。移住(ヒジュラ)は国家建設の契機となった重大事という認識が,後にこの年を紀元とするヒジュラ暦を成立させた。
メディナにはユダヤ教徒とアラブがいた。後者は長い間内戦を繰り返し,その調停者としてムハンマドを招いたのであった。彼が移住した当初,信徒は少数であったが,晩年にはメディナのアラブは,ほぼ全員が信徒になっていた。一方,ユダヤ教徒はムハンマドを預言者とは認めなかった。最初,断食やエルサレムに向かっての礼拝など,ユダヤ教の儀礼をイスラムに取り入れたムハンマドも,ついにユダヤ教徒と対立し,イスラム独自の儀礼を確立していった。
一方,偶像を崇拝するメッカのクライシュ族の人々とは,バドルの戦,ウフドの戦,ハンダクの戦と3度戦った。戦力的には優位にあったメッカは勝利できず,フダイビヤの和議で両者は和した。しかし,ムハンマドは条約違反をたてに,630年にメッカを征服し,ここをイスラムの聖地とした。
メッカと戦う一方で,ムハンマドはアラビア半島の諸部族とも接触を広げていった。メッカ征服以前の段階では,諸部族とムハンマドとの関係は,対等な相互の安全保障であったが,メッカ征服後になると,ムハンマドは相手にイスラムの信仰を求め,神と彼の安全保障(ジンマ)を与え,一定率のサダカを徴収した。またキリスト教徒,ユダヤ教徒など啓典の民からはジズヤや他の税を徴収した。
632年,ムハンマドはメッカに最初の,そして彼としては最後の巡礼を行い,メディナに帰ってまもなく没した。その時,彼の影響力はアラビア半島の全土に及んでいた。ムハンマドは,最初の妻との間に3男4女をもうけたが,子孫を今日まで残したのは末娘ファーティマ1人である。メディナ時代には,アーイシャほか10名を超える妻がいた。
→イスラム
執筆者:後藤 晃
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570?~632
アラブの預言者,イスラームの開祖。メッカのクライシュ族のハーシム家に生まれ,610年頃アッラーの啓示を受け,イスラームを唱えた。クライシュ族の迫害のため,622年,メディナにヒジュラを行い,バドル,ウフド,ハンダクの三つの戦いをへて,630年メッカを征服した。632年,決別の巡礼と称せられる最後のハッジを行ったが,その直後病を発して没し,メディナに葬られた。最初の妻ハディージャとの間に3男4女をもうけ,男子はすべて早世したが,娘ファーティマはアリーと結婚した。イスラームでは最後の最高の預言者とされる。
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モハメドをも見よ。
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…クライシュ族のタイム家出身。メッカの中流の商人で,おそらく預言者ムハンマドの古くからの友人であった。ムハンマドが初めて神の啓示を受けた直後からの最も古い信徒の一人である。…
…外壁のタイル,ドームなどは,オスマン帝国時代に補修されたもの。中央の聖石から預言者ムハンマドが天界をめぐるミーラージュ(昇天)に旅立ったという伝説がある。構築的にはイスラム以前の伝統を踏襲しているが,内外の壁面を飾るアラビア語の銘文が示唆するように,四方どこからでも眺めることができた岩のドームの機能は,近隣諸国の異教徒を征服したイスラムの力を誇示する記念碑的なものであったともいえよう。…
…正しくはクルアーン。ムハンマドが最初に啓示を受けた610年から632年の死に至るまでの22年間,預言者として,また共同体の政治的指導者として活躍する折々に神から下されたとされる啓示を人々が記憶し,後に第3代カリフ,ウスマーンの時に集録されたものである。 114章よりなり,各章には名称があるが,それはその章の主題ではなく,単なる呼称にすぎない。…
… イスラム教徒の地中海地域の征覇に脅威を感じた中世ヨーロッパのキリスト教徒にとって,サラセンは,キリスト教徒の〈敵〉としてのイメージがまとわりつくようになり,同時に,ゆがめられたサラセン人=イスラム教徒の像がつくりあげられた。《ローランの歌》をはじめとする中世の叙事詩において,サラセン人は預言者ムハンマドをあがめる偶像崇拝者として描かれ,しかもムハンマドは偽預言者であり,イスラムは性的放縦を容認する宗教であり,ムハンマドをはじめサラセン人はすべて堕落した人びととされた。またベーダ(8世紀)をはじめとする聖書解釈学において,サラセン人は荒野に追いやられたアブラハムの子イシマエルの子孫として,好戦的な牧民,イサクよりも劣った一族とみなされた。…
…コーランでは,〈昔の人々のやり口〉〈慣行〉(8:38,35:43など),〈神の慣行〉(17:77,33:62など)のように,神に遣わされた使徒たちを否認し迫害して受けた神罰に関連して用いられている。イスラムにおける最も典型的な用法は,〈預言者のスンナ〉つまりムハンマドの範例・慣行のことであり,一般に正しい伝統,ムスリムの守るべき正しい基準を意味する。これに反すること,あるいはそこにない新奇なことはビドアbid‘a(逸脱,異端)として否定される。…
…その意味で中国は本来,平和的防衛的姿勢をとる文明国だといってよいだろう。【川勝 義雄】
【アラブ・イスラム社会】
622年,イスラムの預言者ムハンマドは生れ故郷メッカからメディナという町に移住(ヒジュラ)した。コーランに見える表現によれば,彼はこの移住を〈アッラーの道へ移住し戦うこと〉ととらえていた。…
…624年3月,預言者ムハンマドがメッカのクライシュ族を破った戦い。メディナに移住(ヒジュラ)したムハンマドが,シリアからの帰路にあったメッカの隊商を襲おうとして300余名を率いて出撃。…
…元来は〈はしご〉を意味する語。後にはとくに〈ムハンマドの昇天〉の意に用いられるようになった。コーランは神を天国に至る〈はしごの主〉であると述べ(70:3)ており,またムハンマドを連れて聖なる礼拝堂al‐masjid al‐ḥarāmから遠隔の礼拝堂al‐masjid al‐aqṣāまで夜の旅(イスラーisrā’)をしたと記している(17:1)。…
…アラビア半島の都市。イスラムの聖地で預言者ムハンマド生誕の地。アラビア語で正しくはマッカMakkaと呼ばれる。…
…人口29万(1980)。預言者ムハンマドが没した地で,現在でも彼の墓廟がある。その墓廟は預言者のモスクと呼ばれる豪壮な建造物の一隅にあり,モスク自体は生前のムハンマドの住居兼モスクの位置にあたる。…
…メッカの聖モスクに次いで歴史的・宗教的に重要なモスク。622年,預言者ムハンマド自身によりメディナの住居に接して建造された。以後,改築・再建を重ね,現在のモスクは,マムルーク朝のスルタン,カーイト・ベイのとき(1483)に再建され,オスマン・トルコ時代に修復されたものである。…
※「ムハンマド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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