ウラジーミル大公(英語表記)Vladimir Svyatoslavich

改訂新版 世界大百科事典 「ウラジーミル大公」の意味・わかりやすい解説

ウラジーミル[大公]
Vladimir Svyatoslavich
生没年:?-1015

ロシアのキエフ大公。在位980-1015年。父スビャトスラフ・イーゴレビチによってノブゴロドに配置されていたが,父の死後兄ヤロポルクを殺害し,980年にキエフ大公となった。当時キエフ・ロシアでは,領域もほぼ一定し,祖母オリガが目ざしていた内政の充実,すなわちロシアの統一,ロシアの盟主としてのキエフの地位の獲得,大公権力の支配強化等が求められていた。彼はそれを旧来の信仰を基本にして果たそうとしたが失敗に終わり,989年ギリシア正教を国教として受容することによって達成した。そしてビザンティンの皇女アンナとの結婚とも相まって,内政は充実し,国際的地位の向上および国際交流の強化(チェコポーランドハンガリーブルガリア,ローマ教皇ほかとの)の面でも目ざましい成果をあげた。文化的側面についても,読み書きの普及,とりわけブルガリア語訳によるギリシア語文献の流入は,ロシアの文化を飛躍的に向上させた。またビザンティン帝国との恒常的な人的・文化的交流は,国家の整備という点でも大きな役割を果たした。国内統治の面では,離反傾向の強いビャティチVyatichi,ラジミチRadimichiの諸族を征し,息子たちを各地に配するという方法をとった。しかし,当時既に領内の各地が自立する傾向が芽生えており,ノブゴロドはその典型であった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のウラジーミル大公の言及

【キエフ・ロシア】より

…黒海,カスピ海,南ロシア,ドナウ川流域の勢力均衡が崩れ,キエフ・ロシアの軍事遠征は,以前にも増して活発になる。ビザンティンは,ハザルに見切りをつけ,キエフのスビャトスラフをけしかけてブルガリアに向かわせる一方,ペチェネグ人を買収してキエフを占領させるなど,権謀術数の限りを尽くすが,989年春,キエフのウラジーミル大公(聖公。在位980ころ‐1015)は,黒海におけるビザンティンの要地ケルソネソス(現,セバストポリ市内)を包囲し,これを占領してしまう。…

【ロシア正教会】より

…東方正教会のなかで最大の教勢を有するロシアの正教会。
[歴史]
 ロシアに対するキリスト教の布教は,さまざまな教会によって早くから行われていたが,公式のキリスト教受容は988年または989年,キエフ・ロシアのウラジーミル大公によって実現された。ウラジーミルに洗礼を授けたのはビザンティン帝国の教会であり,以降ロシアはキリスト教文化の導入に際してビザンティン帝国にそれを仰ぎ,東方正教文化がロシア文化の基盤となった。…

※「ウラジーミル大公」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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