ロシア連邦の同名州の州都。人口21万9000(2002)。10~16世紀に繁栄した北西ロシアの商工業中心地で,キエフやモスクワと並ぶ古都。サンクト・ペテルブルグの南東約180kmの内陸都市であるが,フィンランド湾とロシア平原の諸河川とを結ぶ水路交通の要衝に位置し,ペテルブルグの建設以前にはバルト海によってロシアをヨーロッパに結びつける最も重要な窓口として,経済・文化に特異な地位を占めた。特にキエフ・ロシア,モスクワ・ロシアという二つの統一国家時代のはざまをなす400年間の政治的分裂期(12~15世紀)には,ハンザ同盟によるバルト海貿易を独占する商業都市として繁栄しただけでなく,ロシア史上に例をみない共和政体の〈自由〉都市国家として,政治的にもその最盛期を迎え,多くの歴史家の注目を集める中世ロシア史上の一時代を画した。
ノブゴロドはキエフを首都とする最初の統一国家の形成過程にも大きな役割を果たす古い都市(年代記での初出は859年)で,キエフ・ロシア時代(10~11世紀)にはキエフに次ぐ第2の重要都市と目されていた。バルト海と地中海とを結ぶ当時の重要交易ルート〈ワリャーギからギリシアへの道〉や,ボルガ水路によって東方諸国に通ずる交易路もノブゴロドを通っており,このような地理上の好条件も商工業の発達をはやめ政治上の重要性を高めた。そのためキエフ大公は嫡子をノブゴロドの公位にすえるなどしてこの都市の掌握に努めたが,公一族がこの地に定着することはなく,政治的実権はしだいに土着の貴族層を中心とする都市上層に移った。
特にキエフ大公権が衰えて各地に諸公国が分立する封建的分裂の時代(12~15世紀)に入ると,ノブゴロドは広大な属州農村を支配する独特な貴族共和政的都市国家に成長する。市の最高権力はベーチェと呼ばれる市民集会に移り,ここで選出される大主教(ブラディーカ),市長官(ポサドニク),千人長(ティシャツキー)が最上級の執行権力を委ねられた。諸公国では公の居城であったクレムリンに,ノブゴロドでは市民から選出された大主教が住んだ。12~13世紀に公位はなお存在するが近隣諸公国からの〈雇われ公〉で実権はなく,市郊外の小城塞に居住させられ,貴族間の権力闘争やノブゴロド外交政策の道具にされて頻繁に廃立された。
14~15世紀になると,ノブゴロド公はモスクワ大公が兼ねることになってまったく名目化し,貴族支配が全盛期を迎える。数十家族の有力貴族はすべて〈区(カネツ)〉という市内を5分する自治的な行政領域に分住し,それぞれ自分の住む区の住民を組織して他区の有力貴族と市の行政権力(市長官職)を争い,権力闘争はしばしば5区間の武装闘争に発展した。
他方,ノブゴロドは市の四方にある〈五州〉と呼んだ広大な属州農村を支配し,そこには有力貴族や修道院の大荘園が展開していた。都市居住の貴族は多数の農民を隷属下におく領主でもあった。五州のさらに北方や東方への征服,植民活動も早くから行われ,14~15世紀にはフィンランド湾沿岸からウラル山脈の東に至る広大な地域がノブゴロド領となった。ノブゴロドの国際的商業都市としての繁栄を支えたのはこの広い属州植民地である。ここからノブゴロドに流入する良質の毛皮(銀リス,テン,クロテン,オコジョ,ビーバー)は,蠟とともにハンザ商人がヨーロッパ各地に搬出するノブゴロドの最重要輸出商品だったからである。夏と冬の2回に分かれ市内に常設されたハンザ商館を訪れるドイツ商人たちは,毛皮や蠟の見返りに毛織物,銀,塩,鉛,スズ,ミョウバンなどを搬入した。交易範囲はフランドル,イギリス,デンマーク,スカンジナビア,バルト諸都市を含み,さらにロシア諸公国や東方諸国との取引も活発だった。
手工業の発達も著しく,都市人口の最大多数を占めたのは手工業者であった。こうした商工業の発達はジーチイzhit'i(またはzhit'i lyudi),クペーツkupetsなどと呼ばれる市民階層の台頭をもたらすが,しかし彼らによる政治権力の掌握にはいたらず,古い貴族身分の寡頭支配を打ち破れなかった。
都市人口の大きかったノブゴロド(15世紀末で3万2000)は,また軍事的にも相当な力を示し,13世紀40年代の歴史的な二つの戦闘により,モンゴルの危機を利用して侵入してきたドイツ騎士修道会とスウェーデンの東漸をくいとめた。しかしロシアの再統一と集権化政策を進めるモスクワ大公国の力は14~15世紀を通じてしだいに強まり,名目上の宗主権を保持するノブゴロドへの支配力もだんだんと強化されていった。
15世紀の後半イワン3世の時代にいたり,1471年ついに軍事的にも敗北し,78年には最終的に併合され政治的独立を失うにいたった。貴族と修道院の所領はすべて没収され,貴族たちは家族ごとモスクワの辺境に移され,歴史の舞台から姿を消した。こうしてノブゴロドは政治的意義を失うが,ロシアの経済的中心としての機能はその後も長く保持し,17世紀初頭のスウェーデンによる占領や18世紀のペテルブルグ建設によってようやくその歴史的役割を終えた。
第2次世界大戦中ドイツ軍に占領されて市は破壊されたが再建され,現在は州都であるとともに,電気通信機器,化学,木材加工,食品などの工業を中心とする産業基盤も発展しつつある。クレムリン,ソフィア大聖堂など,11~18世紀の歴史的な建造物を数多く残す古都の一つとして,ロシア人に親しまれ,年々多くの内外観光客も集めている。
執筆者:松木 栄三
ノブゴロドの象徴ともいうべきソフィア大聖堂(1045-62)は,この地の最古最大の5廊式ビザンティン風建築で,後世外観に改修が加えられたが,1108年にギリシア人画家の指導で制作された壁画や,ロマネスク彫刻の影響を反映するブロンズ扉浮彫を伝えている。しかし富裕な貴族層が主導権を握る土地柄から,彼らを施主とする小規模な教会堂が多く,14世紀ころまでには独特の変化に富む小教会堂がこの町を特色づけるにいたった。スパソ・プレオブラジェーニエ教会(14世紀)やピョートル・イ・パーベル教会(15世紀)などがそれである。ここはまた,13世紀から16世紀にかけてノブゴロド派イコンの中心地として栄え,同派は力強い輪郭線と衣服や背景の地色に強烈な赤を好んで用いる独特の画風を示す。上記のスパソ・プレオブラジェーニエ教会に壁画を残したフェオファン・グレクはその指導的な画家である。
執筆者:高橋 榮一
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ロシア連邦北西部、ノブゴロド州の州都で、ロシア有数の古都。人口23万1700(1999)。ボルホフ川の河岸にあり、河港を有する。鉄道の分岐点。古来、交通、商業の中心地として栄え、手工業が営まれてきたが、その後種々の工場が建設され、工業都市としての側面ももつようになった。主要工業は化学、電機、木材加工である。旧市街にはクレムリン(城塞(じょうさい)、11~12世紀)、聖ソフィア寺院(11世紀)、ミロシュ修道院(12世紀)など多数の価値ある歴史的建築物が修復・保存され、多数の外国人観光客が訪れる。この地区は1992年には世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。総合大学の所在地。
[中村泰三]
年代記859年の項に初めてその名が現れる。バルト海と黒海とを結ぶいわゆる「ワリャーグ(ノルマン人の意)からギリシアへの道」の北端に位置する。当初キエフ大公の任命する公(多くの場合大公の子かそれに近い縁者)により支配されたが、やがて11世紀末から12世紀初頭にかけて貴族共和制的な体制が成立した。ノブゴロドの最盛期はこの貴族共和制の時代(1136~1478)である。多くの市民が手工業に従事したが、とくに重要なのは商業である。ノブゴロドはウラル山脈に達する広大な領土を支配していたが、ノブゴロド商人はその広大な領土から集められた毛皮をはじめとする森林・海産品をもってハンザ商人や東方商人と盛んに交易した。彼らが「イワン百人組」などのギルドを組織していたことも知られている。これら商人や手工業者を中心とする市民は民会に参加して国政にも参与していた。かくしてこの時期、ノブゴロドはロシアでもっとも栄えた都市となった。だが門閥貴族間の対立、下層市民の蜂起(ほうき)など内的矛盾に悩み、やがて新興のモスクワ大公国によって併合されてしまった。ノブゴロドはその後も商業都市として重きをなしたが、16世紀後半から衰退に向かい、18世紀のサンクト・ペテルブルグ建設以降はその経済的意義もほとんど失われてしまった。
[栗生沢猛夫]
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[国家の成立]
12世紀初めに編さんされたロシア最古の年代記《過ぎし年月の物語》によれば,9世紀半ばには,東スラブ人の有力部族ポリャーニン族がドニエプル川中流域に定住してキエフを中心とする小規模な国をつくっていた。上流域にはスモレンスクを中心とするクリビチ族がおり,さらに北方にはノブゴロドのイリメニ・スラブ族が勢力を張り,ポロツクにはポロチャニン族その他がいて,それぞれ共通の言語,習慣,信仰,交易活動を通じてゆるやかなつながりを保っていた。キエフやノブゴロドなど,東スラブ人の初期の都市は諸族のまとまりの中心であると同時に,バルト海と黒海,カスピ海をつなぐドニエプル,ボルガ水系の遠距離商業路(いわゆる〈ワリャーギの道〉)の要地でもあった。…
…ハンザ貿易の特色は多数の中小資本の結集を背景に海外各地で特権を獲得し,北方貿易を独占したところにある。各地に商館を設けて貿易活動の拠点としたが,中でもノブゴロド,ベルゲン,ブリュージュ,ロンドン(スティールヤード)のそれは四大商館として名高い。ハンザ貿易に工業生産の背景が欠けていたといいきるのは無理であるにしても,概していえば東西間の中継貿易がハンザ貿易の中心となっていた。…
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【建築】
[石造建築の始まり]
スラブ特有の木造建築をもつだけのロシアに,石造建築の技術がビザンティンから伝えられたのは10世紀末のことであった。それ以後キエフ,ノブゴロドを中心に円蓋(ドーム)式ギリシア十字プランを基本とする正方形もしくは長方形の(東側に壁龕(へきがん)あるいは張出し部をもった)教会堂がおびただしく建てられた。教会堂は一般に,煉瓦と石を併用して構築され,壁面は漆喰(しつくい)で仕上げられた。…
※「ノブゴロド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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