共同通信ニュース用語解説 「ハンガリー」の解説
ハンガリー
ウクライナやルーマニア、オーストリア、スロバキアなどに囲まれた欧州の内陸国。旧共産圏で、1999年に北大西洋条約機構(NATO)、2004年に欧州連合(EU)加盟。10年以降、右派のオルバン首相率いる長期政権が続いている。人口996万7千人(22年推定)。首都ブダペスト。(ウィーン共同)
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ウクライナやルーマニア、オーストリア、スロバキアなどに囲まれた欧州の内陸国。旧共産圏で、1999年に北大西洋条約機構(NATO)、2004年に欧州連合(EU)加盟。10年以降、右派のオルバン首相率いる長期政権が続いている。人口996万7千人(22年推定)。首都ブダペスト。(ウィーン共同)
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中部ヨーロッパのドナウ川中流域に位置する共和国。ハンガリー(マジャール)語での正称はマジャーロルサーグMagyarország。英語ではHungary。アジア系フィン・ウゴル語族に属するマジャール人が建設した国家で、オーストリア、スロバキア、ウクライナ、ルーマニア、セルビア、クロアチア、スロベニアに囲まれた内陸国。面積9万3025平方キロメートル、人口993万7628(2011年国勢調査。2022年国連年央推計では968万9000人)。首都はブダペスト。
国旗は赤、白、緑色の三色旗で、革命、平和、希望を表す。国歌は『賛称』Hymnusz。
[古藤田一雄]
新生代第三紀に形成されたアルプス、カルパティア山脈、トランシルバニア・アルプスおよびディナル・アルプスの諸山脈によって囲まれた大規模な構造盆地の主要部分を占め、国土の約60%は標高200メートル以下の低平地である。国内のほぼ中央部を北から南にドナウ川が貫流する。国土は地形的な特色により、(1)ハンガリー脊梁(せきりょう)山地(中央山地あるいは北部中帯山地とよぶこともある)、(2)小平原(キシュ・オルフェルド)、(3)大平原(ナジュ・オルフェルド)、(4)トランス・ダニュービア(ドゥナン・トゥール)台地、(5)メチェック山地、の五つの地形区に大別できる。
[古藤田一雄]
第三紀に形成された一連の褶曲(しゅうきょく)山脈の一支脈として地質構造的には連続しているが、その後の局地的な火山活動を伴う断層運動によって分断され、多くの地塁山地が形成された。また、ドナウ川はこの山地を横断して流れる先行谷とみられる。ドナウ川の西岸すなわちトランス・ダニュービア台地側には、バコーニュ、ゲレチ、ピリシュ、ビセグラード、ブダなど大小さまざまな山地がアルプス東麓(とうろく)からドナウ川の河畔にまで連なる。これらのうち、バコーニュ山地はもっとも規模が大きい山地で美しい森林に覆われ、その周辺地域にはボーキサイトが埋蔵されている。また、バコーニュ山地の南縁には、断層運動によって形成された東ヨーロッパ最大のバラトン湖(面積596平方キロメートル)が横たわる。湖岸からは、日本の屋島に似たヨーロッパでは珍しい玄武岩よりなるバダチョニBadacsony山が遠望でき、その山麓はぶどう酒の名産地の一つとして知られている。この脊梁山地はさらにドナウ川東方に延び、ベルソニー、チェルハート、マトラ、ビュック、ゼムプレーンなどの山地群を形成している。マトラ山地のケーケシュKékes山(1015メートル)はハンガリーの最高峰で、この山地の周辺は石炭・褐炭の産地となっており、小規模ながら鉄鉱石も産し、その中心地ミシュコルツはハンガリー第3位の人口を擁する工業都市である。ビュック山地は石灰質の岩石よりなり、その北部に広がるドロマイト(白雲岩)地域には世界有数の規模をもつアグテレクAggtelekの鍾乳洞(しょうにゅうどう)があり、観光・保養地になっている。
[古藤田一雄]
小平原は、アルプス、カルパティア山脈、脊梁山地に囲まれた構造盆地で、ドナウ川西岸部を占め、アルプスに源を発するラバ川、ラブカ川などがこの地域を東流しており、ドナウ川北岸部はスロバキア領となっている。大平原の大部分は低平なティサ川の流域に属し、広大な平原を形成している。外見上は土壌の均質な単純な平坦(へいたん)地のようにみえるが、長い地質時代を通じて、ティサ川やその支流のケレシュ川はしばしば氾濫(はんらん)してその流路を変えたため、自然堤防跡の砂質土の微高地、旧河道跡の低湿地などが複雑な土壌層を形成し、さらに風の作用による飛砂地や砂丘地などの形成が平坦なわりには土壌水文条件を複雑にしている。北部のニールシェーグは黄土(レス)および砂質土壌に富み、良質のジャガイモ、トウモロコシ、タバコなどを産する。中部のドナウ川とティサ川の河間地域は、北西―南東の走向をもつ砂丘列が発達し、水はけのよい砂質土壌地帯ではブドウ、アンズ、イチゴ、パプリカなどの果樹栽培や園芸農業が盛んに行われ、ケチケメートはその中心地となっている。ティサ川より東部のケレシュ川下流域は、地下水位は比較的高いが、降水量に比べて蒸発散量が大きいので塩分が集積しやすく、アルカリ性の土壌となっているところが多い。このため耕地の開発が制限され、自然発生した草原が古くから放牧場として利用され、牧畜業が盛んであった。このようなステップ(短草草原)状の草原はプスタとよばれていたが、第二次世界大戦後、ティサ川上流域でのダムの建設による発電と灌漑(かんがい)用水の確保、下流域における排水施設の建設によって、プスタはしだいに耕地化されるようになった。戦後の第一次五か年計画によって、ブドウの産地として有名なトカイ南方のティサ川に建設されたティサルーク・ダムと灌漑用水路の建設は、その一例としてあげられる。
[古藤田一雄]
レスに覆われた広大な台地で西方に行くにしたがい緩やかに高度を高め、アルプスの山麓に続く。多くの河川はこの台地を下刻して東流しており、地下水位は地表面下20~30メートルと低いので、干魃(かんばつ)時には干害を受けやすい乏水地帯となっている。
[古藤田一雄]
トランス・ダニュービア台地の南部に孤立しているが、この山地は花崗(かこう)岩よりなり、地質構造的にはディナル・アルプス系に続いている。山地の周辺には、規模は小さいがハンガリーでもっとも良質な石炭を産するコムロ炭田およびペーチ炭田がある。
この国を貫流するドナウ川は、ヨーロッパ中・東部の最大の国際河川で、航空路の発達により、その価値は低下したとはいえ、現在でも重要な交易交通路の一つとなっている。ブダペストはその重要な国際河港の一つで、毎日ドナウ川の河況情報が沿岸諸港に発信されている。また南部には、第二次世界大戦後新設された製鉄コンビナート都市ドゥノウイバーロシュが立地している。
ハンガリーの国土の大部分の地域は大陸性気候に属するが、南西部の山地は若干海洋性気候の影響を受けている。ブダペストの年平均気温は10.6℃、年降水量508.2ミリメートル、年平均湿度は72.6%である。
[古藤田一雄]
マジャール人は揺籃(ようらん)の地ウラルを紀元前10世紀に出発し、以来トルコ系諸民族と接触を繰り返したのち、紀元後895年にカルパティア盆地に侵入した。マジャール7部族はこの地に連合国家を築き、しばらくは二重首長制を維持した。しかし、しだいに遊牧・騎馬生活から定住・農耕生活に生活様式が変化し始め、また氏族的支配制度も崩れ始めた。10世紀末にはゲーザとイシュトバーン1世(在位1000~1038)父子により国家統一がなされ、初代王朝アールパード王朝が成立した。同時にキリスト教への帰依(きえ)も進み、1000年にはイシュトバーンはローマ教皇から国王の称号を授けられた。イシュトバーン治政下には王城県制が敷かれ、また封建的主従関係形成の端緒もみられた。しかし、彼の死後、国内では異教反乱や地方領主層の台頭があり、対外的にもバルカン半島などをめぐってローマやビザンティン帝国と対立し、支配体制は動揺した。
[家田 修]
12世紀末からは王領地の分解が進み、大豪族が割拠した。1222年には、大豪族に対抗して貴族の諸特権を認める金印憲章が国王により布告された。1241年のモンゴル来襲後、ベーラ4世Béla Ⅳ(在位1235~1270)は、諸民族の植民により国土の再建を図り、また13世紀末には農民が移動の自由を得た。しかし、こうした新たな条件は大豪族を利し、群雄割拠時代となった。国土の領邦への分裂は、小領主・貴族と国王との同盟により回避されたが、分権化の傾向は続き、今度は大貴族と中小貴族の対立が表面化した。14世紀中葉以降には、対外的には版図の拡大をみたが、国内では大貴族の強大化が進み、15世紀前半には国土の40%が60の大貴族の手中にあった。1458年マーチャーシュ(在位1458~1490)が中小貴族の支持を得て国王となり、大貴族を抑え、中央集権化が試みられた。彼は対外的にも成功を収め、中欧に一大帝国を築いた。しかし、彼の死後ふたたび国内は乱れ、1514年には対オスマン十字軍への募兵を機に農民戦争が起こった。戦いに敗れた農民は移動の自由を奪われ、賦役の復活・強化を強いられた。
[家田 修]
弱体化していたハンガリー軍は1526年にモハーチでオスマン・トルコ軍に敗れ、(モハーチの戦い)、以後17世紀末まで中央ハンガリーはトルコ占領化に置かれた。ハンガリー西部もハプスブルク家の勢力下に組み込まれた。他方、東部のトランシルバニアはトルコ保護下ながら独立を保ち、ここを拠点として、三十年戦争ではトランシルバニア公ベトレンの率いる軍隊が対ハプスブルク東部戦線を形成し、また18世紀初頭にはラーコーツィ・フェレンツ2世が対ハプスブルク独立戦争を指揮した。宗教的にもトランシルバニアは新教の砦(とりで)であり続けた。
独立戦争敗北後のハンガリーはハプスブルク家の世襲王位を認め、以後第一次世界大戦までその支配を受け、ドイツ化が進行した。もっとも、経済的には発展をみせ、18世紀末には農民はふたたび移動の自由を得た。
[家田 修]
19世紀に入ると、ナポレオン戦争や西欧での諸改革の影響を受け、ハンガリーでも改革の機運が高まり、中貴族に押し上げられた革命家コシュートに率いられて1848年には民族独立を目ざした革命にまで運動が発展し、農奴解放を実現させた。革命は鎮圧され、いったんはハプスブルク絶対主義の復活を許すが、1867年には内外での危機に陥ったオーストリアとの間で和約(アウスグライヒ)が成立し、オーストリア・ハンガリー二重王国が誕生した。この体制の下でハンガリーは経済的繁栄を遂げた。第一次世界大戦末期、二重王国崩壊とともに革命が勃発(ぼっぱつ)し、カーロイ内閣が誕生、1918年11月には共産党ができ人民共和国を宣言。翌年3月には外交政策で破産したカーロイを継いでクン率いるソビエト共和国が成立したが、国際的反革命と国内政策の失敗から4か月余りでこの政権は倒れ、ホルティによる権威主義的支配体制がこれにかわった。ホルティ体制下では経済が沈滞し、没落中貴族層=ジェントリが基盤となってファシズム化が進行した。外交政策でも親イタリア・親ドイツ派が失地回復運動と結び付いて優位を占め、第二次世界大戦では枢軸側にたって参戦。戦後はソ連軍の占領下で諸改革が行われ、1948年に社会民主党と共産党が合同し、工場などの国有化が行われ、また農業の集団化も緒につき、ここに社会主義政権が成立をみた。
[家田 修]
ハンガリーも含めて東欧の社会主義政権は、東欧がソ連の勢力圏であることを前提にして成立したが、実際に生まれた政治のあり方は多様であった。ハンガリーでは小スターリンとよばれたラーコシが統治した時代には粛清など強圧的な政治が行われたが、1956年のハンガリー事件を境に成立したカーダール体制では宥和(ゆうわ)主義が採用され、1970年代には経済改革や開放政策により安定的な社会が生まれた。しかし1980年代に入ると、西側からの債務の累積、経済における国際競争力の相対的低下、人権や環境保護運動の広がり、さらにはルーマニアのハンガリー系住民がチャウシェスクの圧政から逃れるために難民としてハンガリーに流入するなど、さまざまな社会経済問題が噴出した。社会主義政権はこれらの問題に対して有効な解決策を打ち出すことができなかった。こうした社会閉塞(へいそく)的な情況のなかでソ連でもペレストロイカが始まり、ソ連の後ろ楯を失ったカーダールは1988年に退陣した。カーダールの跡を継いだグロースGrósz Károly(在任1987~1988)も事態を改善することはできず、共産党内外の改革派が政治の主導権をもつに至った。こうして1989年には一党独裁制が放棄され、国名も人民共和国から共和国に変更された。以後、1990年の自由な総選挙を経て複数政党制による議会政治が確立した。また経済面でも指令型経済を克服する改革が押し進められた。
[家田 修]
政体は共和制。基本法は1949年8月に発効され、1972年4月(ハンガリー人民共和国は社会主義国家と明記される)および1983年12月に改められ、さらに1989年10月大幅に修正された。その際、共産党が一党独裁を放棄し党名も社会党に変更、そして議会は人民共和国から共和国への移行を宣言した。2011年4月に新憲法(ハンガリー基本法)が国会で可決され、2012年1月1日に施行された。これに伴い国名がハンガリー共和国からハンガリーに変更された。
[南塚信吾]
国会(議会)は一院制で選挙は4年に一度行われる(議員任期は4年)。第二次世界大戦後、初の自由選挙であった第1回総選挙は1990年3、4月に、第2回は1994年5月に実施された。議席数は386。選挙は、小選挙区制で個人に投票するもの(176議席)と、地方ごとの比例代表制で政党に投票するもの(152議席)との併用制である(小選挙区と地方区での政党の得票による全国区の比例制による議席58が加わる)。首相は国会で選出される。内閣は、首相以下、内務、農業、国防、司法、工業・商業、環境・地域開発、交通・通信、外務、労働、教育、国際経済関係、厚生、大蔵の各大臣からなる。
第1回総選挙でハンガリー民主フォーラム(MDF:Magyar Demokrata Fórum)が第一党となり、初代首相に議長のアンタルAntall József(1932―1993)が就任した(在任1990~1993)。しかし1994年の総選挙ではハンガリー社会党(MSZP:Magyar Szocialista Párt)が大勝利を収めて返り咲き、右派の自由民主連合(SZDSZ:Szabad Demokraták Szövetsége)と組んだ結果、左右両派の連立政権が誕生した。首相には議長のホルン・Gが選出された。1998年の総選挙では、フィデス‐ハンガリー市民党(FIDESZ:Fidesz-Magyar Polgári Párt)が第一党となり、中道右派の連立政権を樹立、議長のオルバンOrban Viktor(1963― )が、首相に就任した。大統領も国会で選出される。任期は5年。初代大統領は自由民主連合のゲンツ・Áで、1990年8月に選出され、1995年6月に再選された(在任1990~2000)。2000年6月には、連立与党の推すマードルMadl Ferenc(1931―2011。在任2000~2005)が第2代大統領に選出された。2024年時点で、大統領はシュヨクSulyok Tamás(1956― 。在任2024~ )、首相はオルバン(在任1998~2002、2010~ )が務めている。
地方自治は、旧体制のもとではまったく形骸(けいがい)化していたが、1989年の体制変動後は本来の自治が認められ、中央政府から独立した地位を保障されている。町村自治体、都市、県、首都がそれぞれ独自の行政単位をなす。町村自治体の首長と議会は住民の直接選挙による。都市の首長は直接投票、議会は小選挙区と比例区の併用による。県の議会は比例制による選挙で選ばれ、議会が県議会議長を選ぶ。首都の議会は直接選挙による議員と各区代表から構成され、都知事は直接選挙による。1990年と1994年に地方選挙が行われた。
[南塚信吾]
司法は、最高裁判所、県裁判所、郡裁判所からなり、最高裁判所長官は任期4年で国会より選ばれる。このほか、1989年10月の法律によって1990年1月違憲立法審査権をもつ憲法裁判所ができた。同裁判所は15人の裁判官から構成され、諸法律が憲法に反していないかどうかを判断する。裁判官の任期は9年で、国会が選出する。
[南塚信吾]
第1回の国会選挙後の政府はハンガリー民主フォーラム、独立小農業者・農業労働者・市民党(FKGP:Független Kisgazda-, Földmunkás- és Polgári Párt)、キリスト教民主国民党(KDNP:Keresztény Demokrata Nép Párt)の3党による連立であったが、第2回の選挙後はハンガリー社会党と自由民主連合による連立であった。1998年の第3回選挙ではフィデス‐ハンガリー市民党が第一党になっている。政党はこのほかにも多数あるが、それらは選挙での政党別得票率が5%に達しなかったために、一、二の例外を除き国会に代議員を送ってこなかった。2012年時点ではフィデス‐ハンガリー市民党から名称を変更したフィデス‐ハンガリー市民連盟(FIDESZ:Fidesz-Magyar Polgári Szövetség)が第一党で、ヨッビク‐ハンガリーのための運動(Jobbik Magyarországért Mozgalom)や、新しい政治の形(LMP:Lehet Más a Politika)などの新しい政党も議席を獲得している。
[南塚信吾]
旧来のワルシャワ条約機構もコメコン(経済相互援助会議)も解体し、その後の外交方針としては、ヨーロッパの一員への復帰、近隣諸国との友好関係、近隣諸国のなかでのハンガリー人同胞の保護要求が基本となった。全ヨーロッパ的協力関係への参加は、1990年11月のヨーロッパ議会への参加、1991年11月、EC(ヨーロッパ共同体)加盟交渉に入るための準加盟(連合)協定の締結、1998年本格的なEU(ヨーロッパ連合)加盟交渉の開始(加盟は2004年)、また1997年に最終的交渉の始まったNATO(北大西洋条約機構)加盟(正式加盟は1999年)などにみられる。地域的協力の一つは1991年2月にハンガリーのビシェグラードで開かれた会談にちなんで「ビシェグラード四国(当時は三国)」とよばれるようになった、ポーランド、チェコ、スロバキアとの地域的協力であり、もう一つは、アルプス・アドリア地域協力である。これは1989年11月にブダペストでオーストリア、イタリア、連邦解体以前のユーゴスラビア、ハンガリーの4国が集まって地域協力をうたったのに続いて、1990年5月にチェコスロバキアが加わって5か国協力(ペンタゴナーレとよばれた)となり、1991年にはポーランドが入って6か国協力となった。だが、ユーゴ内戦の後はユーゴスラビアが抜け、あらたにクロアチアとスロベニアとボスニア・ヘルツェゴビナが加わったり、チェコとスロバキアが分離するなど、流動的であった。1991年11月からは「中欧イニシアティブ」とよばれるようになった。隣接諸国には1920年のトリアノン条約以来、多数のハンガリー人が分離されて住んでいるが、政府はこの条約修正の要求は出していない。だが、それらハンガリー人同胞への正当な処遇を求めて外交交渉が続けられており、1995年と1996年にスロバキアおよびルーマニアとそれぞれ国家条約を結び、関係改善を図った。
[南塚信吾]
軍事的にはワルシャワ条約機構軍は消滅した。国防軍は10万、1989年の体制変動以前と規模は変わらない。うち常備軍は2万9600(2010)である。徴兵制で期間は武器装備の場合12か月、武器装備無しの場合15か月、民間兵役の場合22か月。1956年に設立された労働者防衛隊はなくなった。また、1957年から駐留していた旧ソ連軍は1991年に撤退が完了している。NATO拡大に関する1997年5月のNATOとロシアの合意に基いて、1999年3月、NATO加盟が実現した。
[南塚信吾]
19世紀中葉のハンガリーはハプスブルク帝国内の農業地帯であった。1867年、オーストリアとのアウスグライヒ(和約)以後、オーストリアなどの西欧資本の影響下で工業化が進行し、伝統的に盛んな食品工業のほかに鉱山・機械などの部門も発展し始めた。第一次・二次両世界大戦間には繊維工業の拡充や重工業の進展もみられた。しかしこれらの期間を通じて基本的には農業が主産業であり続けた。農業人口は1941年に全人口のなかばを占めた。戦後、土地改革により大土地所有が解体し、小農が支配的な農業が生まれた。他方、立ち後れていた工業も共産党政権下で国有化や急速な重工業化が進み、産業部門の中心が重化学工業に移った。また社会主義時代には農業の集団化も行われ、協同組合方式の大規模経営が登場した。
1989年以後、政治体制転換を契機として社会主義的な指令型経済体制から市場経済体制への転換が計られている。農業では個人経営農場が大規模農場と並存する状態が生まれた。商工業でも国公有企業の民営化、公的規制の廃止による自由な競争制度の導入が目ざされている。こうした改革の結果、法人企業数は1989年に1万5000だったのが、1995年にはその約8倍の11万7000に増加した。法人企業のうち9割が会社法人形態をとっている。またそのうち株式会社は3000余りであり、残りの会社法人のほとんどは有限会社である。会社形態をとらない法人組織の大半は協同組合である。これに対して法人形態をとらない経営数は飛躍的に増加し、90万を上回り、そのうち80万件は自営業である。この数は就業人口のおよそ5分の1である。もちろんこのなかには農業の自営業者も含まれるが、その数は4万に満たない。つまり経済制度の転換に伴って単に私的企業が増えただけでなく、大量の自営業者が生まれたのである。経営形態としては以上のほかに公営事業体、非営利の特殊法人形態、そして従業員持ち株制度による企業などがあり、その数はそれぞれ1万5000、4万7000、および300である。産業構造でみると、社会主義政権下で未発達であった通信情報、運輸、サービス業などの第三次産業が急速に拡大している。もっとも経済体制の転換に伴ってインフレ、失業、所得格差の拡大、医療や教育などの公共サービスの質的低下といった深刻な問題も生まれている。
2000年の1人当り国民総所得(GNI)は4740ドルだが、現地通貨の購買力を考慮に入れた実質的な生活水準はこの2、3倍になる。1995年の産業別にみた就業人口と生産高の割合は、農林水産業が8.0%と8.5%、鉱山業が0.9%と0.5%、製造業が25.7%と38.2%、建設業が5.9%と5.5%、そして商業・サービス業が59.5%と47.3%である。2000年の失業率は9.4%となっている。
[家田 修]
社会主義政権下では国営農場と集団農場が農林水産用地のほとんどを占めたが、1989年の体制転換により土地の個人所有化と経営形態の転換が計られた。1995年で農林水産用地の46%が個人経営、26%が協同組合、残りの28%が会社組織によって利用されている。さらに農用地だけに限ってみると52%が個人経営の下にある。ただしハンガリーでは1970年代からの経済改革で農民の自留地(個人副業経営の耕地で、多くは農家の屋敷内付属地である)生産が拡大し、飼料などの粗放的な生産物は集団的に、野菜や家畜などの労働集約的な生産物は自留地で生産する分業体制が大経営のなかで行われていた。したがって実質的な生産のあり方における社会主義との違いは、分業が経営組織としてはっきりと分かれるようになったことである。むしろ現在のハンガリー農業が抱えている最大の問題は市場問題である。1990年代の前半、従来のソ連・東欧市場のかなりの部分を失ったため、主要な作物で2~4割、主要な家畜で3~5割の生産縮小が起こった。農業形態は作物栽培と畜産との混合的形態である。主要作物はトウモロコシ(年産500万トン)、小麦(同500万トン)、テンサイ(同400万トン)であり、果物ではリンゴとブドウ(ともに年産50万トン程度)の生産が最大である。このほかにパプリカの産地としても知られる。畜産ではブタが中心で、500万頭が飼育されている。競走馬の産地でもある。
水産業では河川や湖水でコイやスズキ類などの淡水魚がとれる。また林業では森林が国土の19%を占め、ナラ、アカシア、ブナ、スギなどが産出される。
[家田 修]
鉱物資源は乏しい。しかしボーキサイトだけは例外で比較的産出量が多いが、近年は減少傾向が続き、年間100万トン程度である。エネルギー源では石炭の9割、天然ガスの4割、石油の2割が国内で産出され、全体としてエネルギー消費の5割が自給されている。
製造業では、1960年代から1970年代初頭まで、重化学工業部門を中心に年平均10%の成長率が達成され、伝統的に発達していた食品工業と並んで機械工業や化学工業も盛んになった。現在、食品加工業、機械工業、そして化学工業の3部門が鉱工業生産全体の20%ずつを占めている。工業でも最大の問題は1989年の体制転換により旧ソ連東欧圏内での分業体制が崩壊したことである。つまり東側向けの工業製品が市場を失ったのである。このため鉱工業生産は全体として30%以上も落ち込み、なかでも粗鋼生産は年産300万トン台を誇っていたのが半分以下になるなど、急激な減産を迫られた。機械工業の主力輸出品だったバスも最盛期の10分の1(1000台程度)に落ち込んだ。化学工業でも人工肥料生産が100万トン台から20万トンへと激減した。これに対して半完成品や素材生産部門ではある程度の成長がみられる。たとえばプラスチック素材は1980年代に50~60万トン台だったが、70万トン台へと増産傾向にある。またかつてはソ連東欧圏内での分業のため生産できなかった自家用乗用車の生産が可能になり、日本の自動車会社(スズキ株式会社)などの組立て工場が建設され、部品の現地生産も行われている。
住宅建設ではかつての年間5万戸以上の水準が2万戸へと後退し、ヨーロッパのほかの国と比較しても低い水準にとどまっている。経済体制の転換に伴い経済の地域格差が広がっている。重厚長大型の産業部門が主流だった北東部で失業率がほかの地域の2倍に達し、1人当りの国内総生産でもこの地域は全国平均の6、7割しかない。これに対して首都圏から北西部にかけては、伝統的にオーストリアなど西側とのつながりが強く、1人当りの投資額や人口の社会増ないし新規企業の設立などでほかの地域を大きく引き離している。法人企業の3分の1以上が首都圏に集中している。人口の社会増でみると首都圏のドーナツ化現象がこの数年で急速に進展し、これまで増加傾向にあった首都人口が減少し、首都を取り囲む市町村の人口が毎年2桁(けた)台で増えている。
[家田 修]
1人当りの国民総生産を基に収入と消費の割合をみると、収入の85%が消費され、15%が貯蓄に回されている。また純資本形成は7%であり、借入れは収入の8%である。個人消費の内訳では1970年代に食費(30%)や奢侈(しゃし)・服飾品(25%)などの物的消費財が7~8割を占めたのに対して、1990年代になると医療、教育・文化、通信などのサービス的消費財への支出が4割に達するようになった。また光熱費や家賃、住宅貸付返済などの住居関連支出が家計支出全体の20%以上を占め、自動車の購入代金を含む交通通信費が13%、教養・娯楽費が6%などとなっている。近年の傾向としては物価高を反映して食生活が切り詰められ、肉の消費が20%、乳製品が10%、小麦粉が25%、おのおの減少した。また社会主義時代に形成された消費財体系から一挙に新しい消費財体系へと移行することは困難であり、旧来の消費財やその部品に対する需要は「ポーランド市」とよばれる青空市場などで満たされることが多い。その一方で自家用自動車は急速に西側製品へと転じた。またラードにかわる植物油や南方産果実の消費が増えるなど、嗜好(しこう)の変化もみられる。「ポーランド市」は東欧の体制改革運動当初に、主としてポーランド人が出稼ぎ商人化して東欧を回り、自然発生的に市が立つようになったことから、名づけられた。現在では出稼ぎ商人の中心が中国人、ベトナム人、ウクライナ人などに移りつつある。これに伴い売られている製品も東アジア製や東南アジア製のものが主流になっている。
[家田 修]
1950年代から1970年代まで毎年、前年を上回るペースで投資が行われてきたが、1980年代からは次第に後退し、1990年代に入ると1970年代の3分の2の水準にまで落ち込んだ。投資がとりわけ大きく減少した部門は農業と鉱業である。これに対してエネルギー産業や通信運輸、金融、サービス業での投資は比較的堅調であり、これらの部門で投資全体の50%以上を占める。製造業の割合は20%程度である。公的財政投融資は1995年で全投資の15%を占めたが、民間投資の規模が毎年大きく変わるので、公的財政投融資の割合も年ごとに大きく変化する。西欧からの投資はほかの東欧諸国に比べて活発に行われ、ドイツ、アメリカ、オーストリア、イタリアなどがおもな投資国である。とくにオーストリアからは長い歴史的な関係も手伝って、小規模ながら数多くの投資が行われている。外資系企業は1995年で2万5000社ほどあり、その総資本額の3分の2にあたる1兆3000億フォリント(約1兆円)が国外からの投資である。ただし外国投資の過半は首都に集中している。日本からは企業への直接投資は少ないが、借款の形で多額の融資がなされている。
[家田 修]
ハンガリーは貿易立国であり、国民総生産の約2割が輸出される。旧ソ連東欧圏との貿易は1990年代に至って1980年代の半分近くに低下し、西側工業国との貿易が拡大している。開発途上国との交易では輸入は増えているが、輸出は減少傾向にある。全体として西欧との経済関係が急速に強まっている。国別ではドイツが最大の貿易相手であり、輸出入の20%以上を占める。第二はオーストリアで、輸出入のいずれも10%を占め、これにロシアとイタリアが続く。日本は輸入の2%を占めるが、輸出先としては1%にも満たない。輸入全体の内訳はエネルギー資源と食品がそれぞれ1割、半完成品が4割、機械と消費財がそれぞれ2割となっている。このうちエネルギー資源の輸入では70%がロシアであり、この面での東への依存は従来のままである。輸出では4割が半完成品、食品と消費財が25%ずつ、そして機械類が1割である。
EU(ヨーロッパ連合)への加盟交渉が1998年に始まったが、その加盟には経済制度のほかに年金・保険制度など、社会制度での条件も整うことが必要とされた。このため加盟が実現したのは2004年5月であった。一方、旧東欧圏の隣国との貿易を振興させるため、欧州自由貿易連合(EFTA)に倣った中欧自由貿易協定(CEFTA)が1993年に発足した。この協定は関税を段階的に廃止してゆくことを目ざしているが、農産物などの「外国との競争に敏感な品目」は保護の対象となっているため、関税の全廃が実現するのはまだ先のことである。また輸出入決済制度が定着していないため、協定の目的は十分に達成されていない。このため旧東欧圏の域内貿易は20世紀全体を通して最小限の水準にとどまっている。ハンガリーの対外貿易に占める旧東欧圏の割合は10%を下回っている。
[家田 修]
ハンガリーは周辺諸国に比べ、比較的均質的な国家であり、民族構成の統計(1990)では、人口中97.8%がハンガリー(マジャール)人である。少数民族としては、ロマ14万3000人(1.4%)、ドイツ人3万1000人(0.3%)、クロアチア人1万4000人(0.13%)、ルーマニア人1万1000人(0.1%)、スロバキア人1万0500人(0.1%)、その他、セルビア人、スロベニア人、ポーランド人、ギリシア人、ブルガリア人、ウクライナ人などがいる。
問題となるのは、国外に住むハンガリー人であり、ヨーロッパ全体で376万5000人、アメリカ、カナダ、イスラエル、オーストラリアなどヨーロッパ以外に86万人、全体で463万人が存在する。うち、ルーマニアには、210万人、チェコとスロバキアに75万人、新ユーゴスラビア(現、セルビア)のボイボディナ自治州に47万人、ウクライナに22万人が住む(1990)。これら近隣諸国におけるハンガリー人の扱いが、隣国との外交関係に微妙な影響を及ぼしてきた。1989年の社会主義体制の崩壊以降、スロバキア、ルーマニアと結ばれた民族問題に関する基本条約により、ハンガリーは国境を変更しないことを認めると同時に、各国の少数民族であるハンガリー人の文化的、社会的、教育的保護を求めた。しかし1990年以降、近隣各国で「国民国家形成」の努力が始まり、多数民族の言語を「国家語」として採用することになったため、少数民族の地位はかならずしも安定していない。文化、教育(とくに少数民族の言語と歴史)、人権の分野で改善が要請されている(1997年より、ルーマニアでは政権交替の結果、若干の変化がみられる)。アメリカに45万、カナダに13万人いるハンガリー人は、その多くが19世紀から20世紀初頭にかけてハンガリーから移住した人々およびその子孫であるが、第二次世界大戦後や1956年事件後の移民、亡命者も少なくない。その一部は、1989年の体制変動以降、帰国した。
人口は首都ブダペストに191万人と全体の19%が集中している。都市と地方の人口比率は、首都以外の都市で449万人で44%、首都を含む都市の比率は63%、地方には382万人、37%が住む(1996)。ハンガリーは伝統的にスラブ民族やルーマニア人に比べ出生率が低く、人口の自然増加率は1980年以来マイナス成長を続けている。10万人当りの乳児死亡者数は、1980年の3443人から減り続けているものの、1995年で1200人である。平均余命は世界でも男性は低い方で1970年から下がり続けて、64.8歳、女性は反対に延びて74.2歳である(1994)。1994年の統計で結婚が5万4000組であるのに対し、離婚は年2万4000組で、世界的にみても離婚率は高い。自殺者数も多く、年3500人で全体の死亡率の2.4%を占める(1995)。しかし離婚率、自殺率は、1980年代からわずかではあるが減ってきている。
公用語はハンガリー(マジャール)語で、フィン・ウゴル語系に属し、ほかのヨーロッパ系言語とは系統を異にする。1990年以降ロシア語の教育は廃止され、多くの小中学校のロシア語教師が失業した。かわりに英語、ドイツ語が多く学ばれている。少数民族の言語は、義務教育レベルで保証されるとともに、ラジオでは週2時間、テレビでは週25分の放送がクロアチア語、ドイツ語、ルーマニア語では保証されている。ロマ語のラジオ・テレビ放送も行われるようになった(1994)。
[羽場久浘子]
社会主義体制の崩壊後、国民生活も大幅に変化した。生活面からみた場合、これまで必須(ひっす)科目であったロシア語の教師に女性が多かったことと、保育・福祉施設の削減が、女性の失業者の増大と、幼児を抱えて働く女性の就業困難をもたらした。
また、民営化や市場経済の拡大とインフレは国民生活に貧富の格差を生み、一方では成功した人々が西欧並みの中流富裕層を形成すると同時に、年金生活者、未熟練労働者、単純労働者など、旧来社会主義体制下で保護されていた層は多大な生活困難を強いられることとなった。そうしたなか、1994年の選挙で社会党が自由民主連合と組んで政権に復帰したが、その後大蔵大臣となったボクロシュBokros Lajos(1954― )が1995年に提唱した市場化のさらなる推進と福祉の大幅削減による財政改革案は国民の強い反発を買い蔵相は辞任に追い込まれた。
「昨年と比較して家庭生活環境は、よくなっているか」という質問に対し、66%は悪くなったと答えている(1994)。
[羽場久浘子]
小学校が義務教育で、8年制(6~14歳)、無償である。中等教育は、4年生のギムナジウム(中高等教育)と職業中学のほかに、工業中学(3年)、中等専門学校(看護学校など、2年)がある。小学校教育を終了した人(全体の97.3%)のほとんど(90%以上)が中等教育に進む。内訳はギムナジウムが27%、職業学校が33.7%、工業中学が34.2%、中等専門学校が4.4%である(1995)。高等教育機関は90(大学30、専門学校60)あり(1996)、高等教育の就学者は全体の13%、うち大学は7%である。
また、教会の社会的影響力は第二次世界大戦後、後退したが、1957年に信教の自由と教会の諸権利が再確認され、1971年には政府とローマ教皇庁との関係も正常化された。国民の54%がローマ・カトリック、22%がプロテスタント(カルバン派およびルター派)で、ほかに東方(ギリシア)正教徒、ユニテリアン、ユダヤ教徒がいる。教会系の学校としては、小学校131、中等学校55、大学・高等専門学校28がある(1995)。16歳から17歳の若者の間でなんらかの形で宗教心をもっている者は62%に達するが、教会に行き、その教えに従うという者は8%である。10代の若者にとって関心の中心はテレビ、旅行、スポーツ、ポップ音楽などで、政治には概して無関心で、日本や西欧米の若者と大差がない(1994)。
[羽場久浘子]
ハンガリーは初代国王イシュトバーンがキリスト教(ローマ・カトリック)を国教として以来、基本的には西方キリスト教文化圏に属する。大半がカトリックとルター派、カルバン派などのプロテスタントで、そのほかに国内少数民族のセルビア人、ルーマニア人のキリスト教正教徒、ユダヤ人のユダヤ教徒などがいる。文字もラテン文字表記である。ただし言語自体は非ヨーロッパ語のハンガリー語(マジャール語)で、中東欧(中央ヨーロッパおよび東ヨーロッパ)においてとくに異なった言語文化圏を形成している。
15世紀後半のマーチャーシュ王時代には、ブダ(ブダペストの西側部分で16世紀にオスマン帝国に占領されるまでの首都)王城にイタリアの人文主義者を招いて中東欧随一のルネサンス宮廷文化を誇ったが、マーチャーシュ王没後の争乱とオスマン帝国の侵入により、王の著名なコルビナ文庫(ルネサンス期にマーチャーシュ王によって創設された図書館)も書物の大半が散逸、それまでの中世ハンガリーの文化遺産も大きく損傷した。1376年に設立されたペーチの大学も失われ、マーチャーシュ王時代にポジョニ(スロバキア領ブラチスラバ)に設立されたアカデミア・イストロポリターナも短命に終わった。宗教改革期になって聖書の最初のハンガリー語訳刊行(1590)以後、ラテン語と並んで多数のハンガリー語の書籍(聖書関連書、安価な事暦冊子など)が刊行された。また、1635年にカトリック神学強化のためにナジソンバト(スロバキア領トルナバ)に大学が新設されている(ブダペスト大学の前身)。
17世紀末のオスマン帝国の撤退後に新たに強まったオーストリアの支配によるドイツ語の影響に抵抗しながら、18世紀後期から荒廃したハンガリーの回復を目ざした動きは19世紀の文化的再生に結実していった。1832年ハンガリー学術協会として科学アカデミーの発足、1846年国民博物館の開設、1837年ペスト・マジャール劇場として国民劇場の開場などを経て、1867年のオーストリア・ハンガリー帝国の成立後、ヨーロッパ屈指の大都市となった新興都市ブダペスト(1873年にブダとペストが合併)に知的好奇心にあふれる独特の文化的景観が形成された。1875年リスト音楽院(ピアニスト・作曲家として活躍したリストを総裁とした王立音楽院)創設、1884年国立オペラ座開場、1896年ヨーロッパ大陸で最初の地下鉄敷設などのほか、フランスの大学準備教育を行う国立中等学校リセを模範とした最高レベルのギムナジウム(大学進学を目ざすための中等学校)も設けられ、500を超すパリ風のカフェからは多くの学者、芸術家の優れたサークルが生まれた。そこから国外に移って国際的に活躍する著名人を数多く輩出し、ハンガリー系人(ハンガリー系ユダヤ人も含む)は20世紀なかばの欧米文化の隠れた知的水脈をなした。
他方、地方の民俗文化の再発見も行われ、作曲家コダーイやバルトークなどによる民族音楽の採集、農村の古民家、民族衣装、習俗などの研究もなされ、豊かなフォークロア性(民俗性・伝承性)がハンガリー文化の特徴の一つとさえなった。
2011年時点で、ユネスコの世界遺産のうちの文化遺産として、ブダペスト(ブダ城地区、ドナウ河畔、ペストのアンドラーシ通りを含む)、中北部にあるホローケーの古村落(15世紀にさかのぼる民俗的木造教会や古民家など)、西北部にあるパンノンハルマのベネディクト会修道院とその自然環境(寺院は13世紀。城郭修道院は15世紀から現代)、南西部の都市ペーチのローマ時代の初期キリスト教遺跡(古称ソピアネのカタコンベ、3世紀)、牛飼いらが駆け巡る広大なプスタ(草原)で有名なホルトバージ国立公園、ワインの名産地トカイの歴史的・文化的景観、冷戦時代に立入禁止地帯であったため貴重な野鳥の生息地ともなったオーストリアとの国境にまたがるフェルテー湖(ノイジードラーゼー湖)と周辺の自然文化的景観などが登録されている。なお、北東部のアグテレク・カルストが国境を接するスロバキアのスロバキア・カルストと合わせてアグテレク・カルストとスロバキア・カルストの洞窟(どうくつ)群として自然遺産に登録されている。
世界無形文化遺産としては、南部のモハーチで2月に行われる謝肉祭習俗ブショーヤーラーシュが登録されている。世界記録遺産(世界の記憶)として前記のコルビナ文庫(現存216点、うちハンガリーに残る56点と諸外国の図書館蔵を含む)、蔵英(チベット・イギリス)辞典を著した東洋学者ケーレシ・チョマKőrösi Csoma Sándor(1784?―1842)ゆかりの文庫(科学アカデミー図書館蔵)、1823年に刊行された非ユークリッド幾何学を確立したボヤイ・ヤーノシュの記念碑的論文(父の数学論著の付録)、1528年以前に制作されたオスマン帝国侵入前のハンガリー王国居住地の精確な古地図タブラ・フンガリアエTabula Hungariaeなどが登録されている。
[田代文雄]
国際的著名人のなかには、第一次世界大戦敗戦後の革命(共産主義政権誕生)とその敗北期、1930年代後半からのファシズム台頭期、第二次世界大戦後の共産党政権成立期、1956年のハンガリー事件(ハンガリー動乱)期などの歴史的な事件の発生時に、亡命のために母国を去ったり、国外で活躍していたが帰国できなかったりするケースが多かった。
19世紀末から20世紀なかばにかけて、音楽ではオペレッタのレハールやカールマンらがウィーンとブダペストの二大都市で活躍した。クラシックではヨーロッパやアメリカの名門フィルハーモニー(管弦楽団・交響楽団)で活躍したニキシュ、ライナー、フリッチャイ、オーマンディ(オルマーンディ)、セル(セール)、ドラティ、ショルティなどの指揮者を輩出している。その多くはブダペストの音楽院で学んでおり、コダーイ、バルトークとの関係が深い。その流れは1956年に亡命したケルテス、ルカーチLukács Ervin(1928―2011)、フィッシャーのほか、演奏家のシフラ(チフラ)、コチシュKocsis Zoltán(1952―2016)、シフ、ラーンキなどにまでつながっている。現代音楽の作曲家リゲティもハンガリー系で、1956年に亡命している。
美術では写真家、画家、美術教育家として活躍し、バウハウスで教鞭(きょうべん)を取ったモホリ・ナギ、オプ・アート(オプティカル・アートoptical art。現代抽象芸術の一つで、錯視的効果をもつ幾何学的構成)の先駆者バザレリ(バーシャールヘイ)、写真家のキャパ、アンドレ・ケルテス(ケルテース・アンドラーシュ)André Kertész(1894―1985)、映画のロンドン・フィルム創設者アレクサンダー・コルダ(コルダ・シャーンドル)、映画『カサブランカ』の監督マイケル・カーティス(ケルテース・ミハーイ)Michael Curtiz(1886―1962)などは、青年期にブダペストで活躍した後、1920年代、1930年代にハンガリーから国外に出て名声を博した。オペラ『青ひげ公の城』で作曲家バルトークと協作した作家で映画理論家のバラージュは第二次世界大戦後に亡命地モスクワから帰国して戦後のハンガリー映画再生に努めた。アカデミー外国語映画賞など数々の国際的な映画賞を受賞した映画監督のサボーも知られている。
学術の面では、ハンガリーは数学大国として名高い。19世紀に数学者ボヤイ親子(息子ヤノスはロシアのロバチェフスキーとともに非ユークリッド幾何学の創始者といわれる)を生み、20世紀にはセゲド大学をヨーロッパ屈指の数学拠点にした関数解析の権威リース・フリジェシュRiesz Frigyes(1880―1956)(弟マルセルもスウェーデンに移ってルンド大学の名を高めた)、フーリエ級数に関する定理で知られるフーリエ(フェイエール)、解析学のハール測度で知られるハールHaar Alfred(1885―1933)、コンピュータの基礎理論でも知られるノイマン(アメリカに移住)などがハンガリー学派を形成した。その流れは現代数学のエルデス(エルデーシュ)Erdös Paul(1913―1996)、幾何学のレンペルトLászló Lempert(1952― )、離散数学によって数理科学の発展に貢献し、フィールズ賞選考委員長も務めたロバースLászló Lovász(1948― )にまで連なっている。
ノーベル賞受賞者では、ビタミンCを発見したセント・ジェルジー(受賞後にアメリカに移住)、国外(スウェーデン)でアイソトープを研究したヘベシーのほかに、聴覚の生理学的研究のベケシー、ホログラフィーの発明者ガボール、素粒子論のウィグナーなどが国外移住後に受賞している。ウィグナーとともにアメリカの原爆開発にかかわったシラードやテラーもブダペスト大学の学生のときにドイツに留学し、その後アメリカに移った。ノーベル化学賞受賞のオラーもブダペスト大学で学位取得後、1956年にイギリス(後にカナダ)へと亡命したハンガリー系人である。なお、ノーベル化学賞受賞のジョン・ポランニーはイギリスに移住した著名な物理化学・社会哲学者マイケル・ポランニー(ポラーニ・ミハーイ)のベルリン在住時代に生まれた息子である。
技術系では、19世紀にエジソンとも共同研究した電話交換機の発明者プシュカーシュPuskás Tivadar(1844―1893)、近年ではルービック・キューブの発明者ルビクRubik Ernö(1944― )などが知られる。
人文系では1945年に亡命地モスクワから帰国したマルクス主義哲学者ルカーチ、ドイツやイギリスに移住した社会学者マンハイム、ギリシア神話学のケレーニー、経済人類学のカール・ポランニー(ポラーニ・カーロイ。マイケル・ポランニーの兄)、「ゲームの理論」で知られるノーベル経済学賞のハーサニー(ハルシャーニ)、国際投資家のソロス(ショロシュ)George Soros(1930― )などハンガリー出身は多い。
[田代文雄]
大学は17世紀に起源をもつブダペスト大学(正称は19世紀の物理学者の名を冠したエトベシュ・ロラーンド大学。略称ELTE)、ブダペスト大学から分離独立したセンメルバイス医大(産褥(さんじょく)熱の解明で知られる19世紀の医師の名にちなむ)、ブダペスト工科大、ブダペスト工科大の経済学部が独立してできたブダペスト経済大学、地方大都市のデブレツェンやセゲドなどの国立大学を含め、国立総合大学18、同単科大学13、キリスト教会経営を含む私立総合大学7、同単科大学32がある。ヨーロッパ高等教育エリア(EHEA)を目ざす1999年のボローニャ宣言に署名し、その比較可能な学位制・単位互換制に沿って学部課程と大学院課程の分離などの大改革が行われた。
科学アカデミーは共産党政権時代にソ連型に改編され、社会主義的学術研究の最高指導機関となり、多数の付属研究所を擁して研究者の資格審査権(いわゆる大博士など)も有していたが、体制変換後は民主化され、付属研究所は一部改廃して独立的になり、資格審査権も大学に大幅に委譲された。
国立の学術図書館としては、1802年に創設され中央図書館の役割をもつセーチェニ図書館(旧王宮内新館内、500万点以上)、1866年に創設され外交国際関係や内外の議会・国家行政関係などの資料を収集した国会図書館(国会議事堂内、70万点以上)、16世紀に創設されたナジソンバトの大学図書館を引き継ぐELTE図書館(中世のコーデクスとよばれる羊皮紙の折綴り本類、哲学・宗教・歴史など140万点以上)、科学アカデミー図書館(コルビナ文庫、東洋文庫ほか100万点以上)などがある。一般公共図書館としては、1903年に創設されたブダペスト市立のサボー・エルビン図書館(ブダペストの歴史資料コレクションを含む300万点以上)が最大である。
国立博物館では、ハンガリー地域の考古資料・中世から近代の歴史資料を収集したハンガリー国民博物館(100万点以上)、そのエスノグラフィ(民俗誌)部門として1872年に発足した民族博物館、エステルハージ・コレクションなど西洋名画と古代オリエント美術で知られる1896年創設のハンガリー国立美術館、1957年にハンガリー国立美術館から近現代のハンガリー美術部門を分離独立させたナショナル・ギャラリー、1872年に創設されアール・ヌーボー様式の建築物を多く残したレヒネル設計によるハンガリー・セセッション建築として名高い工芸美術館のほか、ハンガリー農畜産文化にかかわる資料を収集した農業博物館や軍事史博物館などがある。公立では旧王宮の中世遺跡部分をとりこんだブダペスト歴史博物館(ハンガリー千年祭の首都歴史パビリオンを1907年に常設展として発足)が最大である。
[田代文雄]
書籍出版は19世紀末に安価な大衆文学書や豪華なヨーロッパ古典文学叢書(そうしょ)などが空前のブームとなり、ハンガリーは無類の「本好きの国」と称された。この傾向は第一次、第二次の両世界大戦間も変わらなかったが、19世紀末創業の少数の大手出版社といくつかの中堅出版社が市場を独占した。第二次世界大戦後の共産党政権時代は出版、印刷、書店の全社が国有化され、専門別にいくつかの「社会主義的」出版社に再編統合され、党と文化省による検閲を受け、統制下におかれた。1970年代なかば以後、党内の政治的な変化による検閲の緩和化と国の経済悪化による助成費の減少で、市場と利益を考慮せざるをえず、徐々に民主化された。共産党支配から自由主義への体制変換後、出版の自由と出版社および書店の民営化・私有化が進行したが、国営の取次配給制の崩壊や税制改革(出版への税の優遇措置の廃止と消費税の導入)で混乱した。その後、文化活動助成の公的・私的基金の設立(私的なものの代表が投資家ソロスの基金)などでやや好転するものの(年間新刊約1万4000点)、最大手書店チェーンやインターネット販売での値引き、世界的な金融危機による不況などで出版状況は厳しくなっている。外資系(ベルテルスマン社、リダーズ・ダイジェスト社、シュプリンガー社など)も進出、CD-ROM出版も1990年代なかばから増大した。
新聞は西ヨーロッパ諸国に比べて遅く、18世紀末にハンガリー語新聞が発行された。19世紀になってさまざまな党派的な政治論説紙が刊行され、19世紀末以後に新しいタイプの商業紙や街頭売りの大衆紙も加わった。第二次世界大戦末期のナチス支配下で、大半の新聞が発行停止か廃刊となった。第二次世界大戦後の共産党政権期は国家と党の管理下で新たに各組織の機関紙として発行されたが、体制変換後は民間の手に移り、大新聞はほとんどが外資系企業の経営になっている。日刊の高級紙としては左派系のネープサバチャーグ(旧、ハンガリー社会労働党機関紙)が最大であるが、その部数は約13万部(2008)と1989年時の3分の1に激減した。保守系のマジャル・ネムゼト(旧、愛国戦線機関紙)、リベラル系のマジャル・ヒールラプ(旧、政府系機関紙)、左派系のネープサバ(旧、ハンガリー労働組合連合機関紙)が後に続くが、いずれも数万部程度に激減した。最大部数は体制変換後に創刊された外資系のタブロイド判大衆紙ブリックで、2008年時点で発行部数は25万部~30万部となっている。
ラジオは国営のハンガリー・ラジオ(マジャール・ラジオ)が1925年にラジオ・ブダペストとして本放送を開始して以来、テレビは国営のハンガリー・テレビ(マジャールTV)が1957年に本放送を開始して以来、いずれも1997年の民間放送の導入まで、1局独占体制が続いた。体制変換後に民主化されたが、EU(欧州連合)加盟に必要な新たなメディア法の制定と実施をめぐって、公共放送の維持、民間放送の寡占阻止と外資制限、ナショナル・アイデンティティの維持を強調するかどうか、放送事業者と政治家の両者からの報道の自由をどう確保するかなどが問題となり、主要政党間で対立と混乱を生み、いわゆるメディア戦争が生じた。さらに商業放送の認可における政党の介入、国際メディア企業(マードック、タイム・ワーナーなど)のチャンネル要求の圧力、メディアと政治エリートの深いつながりといった傾向を生み、ポーランドやチェコにもみられる「イタリア化現象」(有力政治家とマスメディアの癒着)とも指摘されている。
2011年時点で、ラジオは全国的公共放送として国営のマジャール・ラジオが第1放送コシュート、第2放送ペテーフィ、第3放送バルトークの3周波をもち、ドイツ語、スロバキア語、ルーマニア語など国内少数民族語による番組も提供している(海外向け外国語短波放送ラジオ・ブダペストは2007年に停止)。民間放送ではシュラーゲル・ラジオ(アメリカEMMISコミュニケーションズ)、ダヌビウス(アドベント・インターナショナル)を筆頭に、地方局を含め多数のラジオ局がポップ・ミュージックと短いニュースのミックスや地域番組を終日流している。
テレビは全国的公共テレビとして国営のマジャールTV(地上波1チャンネル、衛星1チャンネル。国内少数民族語による番組も放送)と体制変換後に発足した隣接諸国居住のハンガリー人(約300万人)向けのドゥナ・テレビ(衛星放送)がある。商業テレビは1997年の導入後、マジャールTVの視聴率を超えたRTL Klub(ルクセンブルクに本拠をおくRTLグループ系)とTV2(ヨーロッパの企業連合MTM-SBS)の二大局が代表的である。なお国営のラジオ、テレビも視聴料を取らず国家予算で運営しているが、慢性的な経営危機にある。通信社は国営のMTI(ハンガリー通信。1880年創設の国内通信の私企業が前身)のほかに、民営のハバリア・プレスがある。
インターネットによるニューメディアは、EU加盟当初は域内で最低クラスの普及度であったが、近年は急速に伸びてパソコンのインターネット契約は2009年時点で約260万件となった。ネット環境の整備、基礎教育の学校への導入も進み、ネット・ユーザー数は2008年の推計で520万である。
[田代文雄]
すでに19世紀後半から両国人の往来があり、日本では岩倉使節団に同行した久米邦武(くめくにたけ)『特命全権大使米欧回覧実記』、東海散士の『佳人之奇遇』などからハンガリーが紹介されていた。日本人の最初の長期滞在者は東洋学者の白鳥庫吉(しらとりくらきち)であろう。しかし概してハンガリー側の対日関心のほうが強く、早くから種々の旅行記や紹介書が出ていた。とくに日露戦争後、日本への関心はいっそう強まり、一般にはエキゾチックな日本像が広められた。
第一次世界大戦後、両国の関係はもう少し組織的となる。1924年(大正13)にはハンガリーに洪日協会がつくられ、それを通して人々の往来、情報の交換が進められたが、しだいに「ツラン主義」(ハンガリーと日本人は同じツラン民族として血がつながっているという考え)がそこに浸透していった。日本が大陸への侵略を始め、東欧での対ソ諜報(ちょうほう)活動を必要とするに至る1930年代に入ると、政府レベルでも両国関係が進展し、「ツラン主義」運動にも後押しされて、1938年(昭和13)には日洪文化協定ができたりした。1930年代末から1940年代初めは、非常に情緒的な性格の両国関係が展開した時期である。第二次世界大戦以後10年余り、両国間の関係はきわめて限られたものとなった。そこへ起こった1956年(昭和31)のハンガリー事件は、日本の側からハンガリー国民への同情とその後の体制への非難を引き起こしたが、同時に日本における東欧社会主義のより現実的な研究の刺激ともなった。他方ハンガリーの国民も体制も、その後急速にこの事件から教訓を学び、着実に民主化・自由化の道を歩んできている。
両国は1959年(昭和34)に国交を回復、翌年相互に公使館を設置、1963年にこれを大使館に昇格させた。この間1961年には貿易支払協定が締結された。1960年代中ごろから両国の経済的・文化的関係はしだいに拡大し始めた。1972年には文化交流に関する取り決めが結ばれ、交換留学生の数も増え、交流は盛んになった。1970年代後半からは、貿易の量も目だって増え始めた。日本からは繊維、化学、機械、ハンガリーからは医薬品、農産物が輸出されるが、貿易の絶対量は東欧諸国のなかでもまだ少ないほうである。このほか1970年代末以来、日本からの金融面での対ハンガリー接近が注目された。
1989年以後では、1991年9月に首相アンタルが来日し、日本からの金融支援の約束を取り交わした。さらに1995年には首相ホルンも来日している。2001年の対日貿易額は輸出が3億9400万ドル、輸入は7億4400万ドルとなっている。
[南塚信吾]
『久保義光著『ハンガリー紀行』(1982・泰流社)』▽『矢田俊隆著「ハンガリー・チェコスロヴァキア現代史」(『世界現代史26』1978・山川出版社)』▽『フェイト・フェレンツ著、熊田亨訳『スターリン以後の東欧』(1978・岩波書店)』▽『鹿島正裕著『ハンガリー現代史』(1979・亜紀書房・現代史叢書)』▽『フェイト・フェレンツ著、熊田亨訳『スターリン時代の東欧』(1979・岩波書店)』▽『E・パムレーニ編、田代文雄・鹿島正裕訳『ハンガリー史』(1980・恒文社)』▽『南塚信吾著『静かな革命――ハンガリーの農民と人民主義』(1987・東京大学出版会)』▽『羽場久浘子著『ハンガリー革命史研究―東欧のナショナリズムと社会主義』(1989・勁草書房)』▽『羽場久浘子編『ロシア革命と東欧』(1990・彩流社)』▽『伊東孝之編『東欧政治ハンドブック』(1995・日本国際問題研究所)』▽『羽場久浘子著『統合ヨーロッパの民族問題』(講談社現代新書)』▽『ベレンドー、ラーンキ著、南塚信吾監訳『東欧経済史』(1979・中央大学出版部)』▽『平泉公雄著『社会主義的工業化と資本蓄積構造――ハンガリーの歴史的経験』(1979・アジア経済研究所)』▽『チコーシュ、ナジ、ベーラ著、盛田常夫訳『社会主義と市場――経済改革のハンガリー・モデル』(1981・大月書店)』▽『コルナイ・ヤーノシュ著、盛田常夫・門脇延行編訳『反均衡と不足の経済学』(1983・日本評論社)』▽『コルナイ・ヤーノシュ著、盛田常夫訳『「不足」の政治経済学』(1984・岩波現代選書)』▽『Berend & RankiHungary, A Century of Economic Development (1974, David & Charles, Newton Abbot)』▽『Miklós Gárdos ed.Hungary '81(1982, Corvina Kiadó, Budapest)』▽『シュガー・レデラー著『東欧のナショナリズム』(1981・刀水書房)』▽『A・ヘラー他著、富田武訳『欲求に対する独裁「現存社会主義」の原理的批判』(1984・岩波書店)』▽『コンラッド・セレニイ著『知識人と権力――社会主義における新たな階級の台頭』(1986・新曜社)』▽『家田裕子著『ハンガリー狂騒曲』(講談社現代新書)』▽『徳永康元他著『世界の文学史7 北欧・東欧の文学』(1967・明治書院)』▽『S・ベンツェ著、谷本一之訳『ハンガリー音楽小史』(1969・音楽之友社)』▽『今岡十一郎著『ハンガリー文化史概要』(1969・審美社)』▽『徳永康元他著『ブダペストの古本屋』(1982・恒文社)』▽『栗本慎一郎著『ブダペスト物語』(1982・晶文社)』▽『徳永康元著『ブダペスト回想』(1989・恒文社)』▽『南塚信吾編『東欧の民俗と文化』(1989・彩流社)』▽『三宅理一・赤地経夫・伊藤大介・栗本慎一郎著『レヒネル・エデンの建築』(1990・INAX出版)』▽『ジョン・ルカーチ著、早稲田みか訳『ブダペストの世紀末』(1991・白水社)』▽『コーシュ・カーロイ著、田代文雄監訳『トランシルヴァニア――その歴史と文化』(1991・恒文社)』▽『京都国立美術館編・刊『ドナウの夢と追憶――ハンガリーの建築と応用美術1896-1916』(1995)』
基本情報
正式名称=ハンガリーMagyarország/Hungary
面積=9万3027km2
人口(2010)=1000万人
首都=ブダペストBudapest(日本との時差=-8時間)
主要言語=ハンガリー(マジャール)語(公用語)
通貨=フォリントForint
東欧中部に位置する共和国。北はスロバキア,北東はウクライナ,東はルーマニア,南はセルビアのボイボディナ自治州,クロアチア,西はスロベニア,オーストリアと国境を接する内陸国。〈ハンガリー〉は英語の呼称であり,自称は〈マジャールMagyar〉である。
カルパチ(カルパティア)山脈に囲まれ,ドナウ川本流とその支流ティサ川の流域に広がるハンガリー盆地にあり,国土の大部分は平野であるが,ドナウ川を境に多少の変化がある。ドナウ川の東はアルフェルドAlföldと呼ばれる大平原で,その大部分は19世紀後半までは湿地帯だったが,治水が進むと逆に水の乏しい砂質の草地(プスタ)となり,第2次大戦後は大規模に灌漑され耕地化されている。ドナウ川以西は,北部の小アルフェルドを除けば,緩やかな起伏の台地であり,その間に東西に長く,中欧最大の湖バラトン湖がある。
北緯40度あたりに位置して,気候はほぼ内陸性気候に属し,寒暑の差はかなり大きい。年平均気温は11℃前後,1月のそれは-4~0℃,7月は18~23℃である。降水量は比較的少なく,年500~600mmである。
国民の大部分(96%)はハンガリー人(マジャール人)である。ほかにごく少数のドイツ人,スロバキア人,ルーマニア人,セルビア人がおり,ロマ(ジプシー)もいる。世界のハンガリー人の総数は約1450万人といわれるが,そのうち1000万人余りが国内に住む。人口の65%が都市,35%が農村に住む(1995)。都市では首都ブダペストが最大で人口193万,次いでデブレツェン(21万),ミシュコルツ(18万),セゲド(17万),ペーチ(16万)という四つの大学都市が続く(人口はいずれも1995)。
国民の大多数がキリスト教徒である。そのうちカトリックが67.5%で多く,プロテスタントは改革派(カルバン派)が20%,福音派(ルター派)が5%で,合わせて25%を占める。プロテスタントはハンガリー東部に比較的多い。そのほかギリシア・カトリック教徒,正教徒がいる。ほかに公認の少数派教会が数多く存在する。キリスト教以外では,ユダヤ教徒が比較的多い(以上1996年)。
言語はハンガリー語(マジャール語)が公用語とされている。
ハンガリー人がその先祖の故郷であるウラル山脈中・南部付近からカルパチ山脈を越えてハンガリー盆地(当時のパンノニア)に住みついたのは895年ないし896年のことである。このとき定住したのは7部族で,相互に連盟関係にあり,全部族の長としてアールパードÁrpád(?-907ころ)を選出した。定住後ハンガリー人は西欧へ進出したが,955年にオットー1世の軍に敗れ,以後先住のスラブ人から農耕を学びつつ,パンノニアでの国家建設に努めた。封建国家の形成は10世紀末のアールパード家のゲーザGéza公のときに始められ,その子イシュトバーン1世のときに完成した。997年から1038年まで在位した彼は,諸部族を統一し,国内行政組織を整備し,キリスト教を導入して教会組織を固め,統一国家を樹立した。1000年には教皇からハンガリー王国が認められた。彼の時代に,牧畜から農耕への移行が進み,部族的な社会に代わって地縁的な関係に基づく封建社会の基礎が築かれた。
1241-42年にモンゴル軍の来襲があり,15世紀に入ってオスマン帝国の圧力が強まったが,ハンガリー王国はクロアティア,スロバキアを含む国家となり,商業と家畜生産で栄えた。15世紀後半のマーチャーシュ1世の代には中欧最大の強国となり,ルネサンスの花を咲かせた。しかし,〈地理上の発見〉に伴う国際貿易ルートの変更はハンガリー経済に変動をもたらし,そのなかで1514年にドージャ・ジェルジュの率いる農民戦争(ドージャの乱)が起こった。この戦争による貴族と農民の対立は国家の統一を崩し,その弱さは26年モハーチの戦でのオスマン帝国軍に対する大敗として現れた。
オスマン帝国軍に敗れたハンガリーは以後150年以上,三つに分割された。西部と北部はハプスブルク家の支配するハンガリー王国となり,東部のトランシルバニアはオスマン帝国の保護下の公国となり,中央部はオスマン帝国占領下に置かれた。王国内では,ハンガリー貴族の対ハプスブルク,対オスマン帝国の闘争が続くなかで,農民は領主経営に縛りつけられ,〈再版農奴制〉が成立した。中央部では農業の発展は遅れ,粗放な牧畜が行われ続けた。トランシルバニア公国では,それを旧ハンガリー王国復活の拠点にしようとする中貴族の運動が繰り広げられ,17世紀前半のベトレンのときには,三十年戦争を利してハンガリーの独立回復を目ざす運動が高まるとともに,プロテスタントの文化が花を開いた。
1699年のカルロビツ条約で全ハンガリーがオスマン帝国の支配から解放されると,ハンガリーはハプスブルク家の支配下に入った。これに対して1703-11年にはラーコーツィ・フェレンツ2世のもとに貴族・農民を含む全民族的な蜂起が起こった。このラーコーツィ・フェレンツの解放戦争が失敗に終わったのち,ハンガリーはオーストリア絶対主義の農業植民地の地位に置かれ,工業発展は抑えられ,ドイツ化された。しかしハンガリー貴族は,身分制議会(上院は国王の任命する大貴族,下院は各県から選ばれる中貴族)を中心に,独自の政治的統一体を保った。ハンガリー貴族は1723年に,ハプスブルク家の女系相続権を認める代りに,ハンガリーに一定の自治を認める〈プラグマティッシェ・ザンクツィオン〉を,オーストリアから獲得した。啓蒙専制君主マリア・テレジアおよびヨーゼフ2世が貴族の農奴収奪の制限や農奴の身分的解放を試みたが,ハンガリー貴族は強く抵抗し続けた。フランス革命の影響を受けて,ハンガリー貴族の間にも改革を求める運動が起こり,マルティノビチら〈ハンガリー・ジャコバン〉の秘密結社ができたが,失敗に終わった(1794-95)。
19世紀に入って全欧的な自由主義と民族主義の高まりのなかで,ハンガリーでもまずハンガリー語の回復などの文化的ナショナリズムが起こり,次いで1830年代にはセーチェニらの貴族の穏健な改革運動が,40年代にはコッシュートら下層貴族の急進的な改革運動が起こった(〈改革期〉と呼ばれる)。これと同時に,ペテーフィら青年知識人の革命運動も成長した。1848年に中・東欧各地に起こった革命の一環として生じた3月15日のペシュト革命は,上の二つの運動の合流であった。48年革命によってハンガリーは一時オーストリアと同君連合となり,独自の責任内閣をもったほか,農奴解放を行い,市民的自由を導入した。さらに1849年4月にはコッシュートの指導下で独立を宣言し,対オーストリア独立戦争を戦った。この戦争が,クロアティア軍,ロシア軍の援助を得たオーストリア軍によって8月に鎮圧されると,ハンガリーはクロアティア,トランシルバニアと分離されて,オーストリアの〈新絶対主義〉の支配下に入った。しかし,帝国内諸民族の抵抗と対イタリア,対プロイセン戦争の敗北のために帝国の再編を余儀なくされたオーストリアは,67年,ハンガリーと〈アウスグライヒAusgleich(妥協)〉を結び,ドイツ人とハンガリー人とで帝国内のスラブ諸民族を支配するオーストリア・ハンガリー二重帝国をつくった。この二重帝国のなかで地主貴族に指導されたハンガリーは,半封建的な要素を温存しつつ,一定の資本主義化を図る農業国として発展した。そのため労働運動は順調には成長しなかったが,農業恐慌の打撃を受けた農民の運動が90年代以後全国を揺り動かした。他方,アウスグライヒによってハンガリーはトランシルバニアを再併合し,クロアティアを支配下に置いた多民族国家となったが,90年代には建国千年祭などを契機に激しいハンガリー化政策を展開して,諸民族の反発を招いた。20世紀初頭のハンガリーは,ブダペストを中心に現代思想の花が開き,ルカーチやマンハイムやポランニー,バルトークやコダイ,アディやサボーといった才人を生み出したが,普通選挙を求める社会民主党指導の労働運動や引き続き高揚する農民や諸民族の運動との連帯を生み出しえなかった。
第1次大戦での敗戦の結果,二重帝国は崩壊し,ハンガリーでも1918年10月に民主主義革命が起きて,カーロイの連合政権ができ,共和政が宣言された。この政権が講和と土地問題で行き詰まると,19年3月にはクンの指導するソビエト共和国ができた。しかしこの政権も,外国軍の干渉や農業政策の誤り(性急な集団化)のために,わずか133日で崩壊した。こののち王国が復活し(ただし国王はいない),ホルティを摂政とする権威主義的反動体制が成立し,強烈な反ボリシェビズムが広がった。また20年のトリアノン条約で多数のハンガリー人居住地を周辺諸国に割譲したため,戦間期には同じく強烈な領土の修正を目ざすナショナリズム(〈修正主義〉と呼ばれた)が国を支配した。ホルティ自身は伝統的保守主義者で,20年代には同じ立場のベトレン・イシュトバーンBethlen István(1874-1947)が首相を務めたが,世界恐慌後の30年代にはゲンベシュGömbös Gyula(1886-1936)を代表とする右翼急進主義が成長し,全体主義体制の樹立を目ざすとともに,ナチス・ドイツに接近した。39年に日独伊防共協定に,40年には三国同盟に加盟し,対ソ戦には軍隊を送った。戦間期にはほとんどの進歩的勢力は抑えられていた。共産党は非合法で,社会民主党は農村活動を放棄するという条件で活動が認められていた。そういうなかで,30年代を中心に農村出身の青年や作家たち(イェーシュら)が農村を調査して描写する〈人民主義〉運動を展開した。その一部は右翼に吸収されたが,一部は共産党とも提携して,人民戦線の担い手となった。44年5月にハンガリーはドイツ軍に占領され,ソ連軍による解放が始まった10月,ホルティは政権をファシストのサーラシ・フェレンツSzálasi Ferenc(1897-1946)に譲った。しかし11月にはデブレツェンに民族解放戦線(共産党,社会民主党,小農業者党,民族農民党など)ができ,45年4月にはソ連軍の手で全土が解放された。ハンガリーではパルチザンの力は弱かったのである。
戦後,民族解放戦線の連合政府の手で抜本的土地改革が行われ(1945年3月),1946年1月には共和国が宣言され,新しいハンガリー民主主義,次いで〈人民民主主義〉が目ざされた。しかし,それはまだ社会主義を意味するものではなかった。冷戦の開始に伴うソ連の対東欧政策の変化(1947年のコミンフォルム結成,48年のユーゴスラビア破門)を経て,ハンガリーでも工業,銀行の国有化やブルジョア政党の追放が進み,〈人民民主主義〉の概念も変化した。49年以降,一党制のもとでソ連的な政治経済体制が移植された。このなかでラーコシ・マーチャーシュRákosi Mátyás(1892-1971)の個人独裁が生まれたり,ライク外相ら〈チトー主義者〉の粛清が行われたり,性急な重工業化と集団化が行われた。こうした点への不満は,56年2月のソ連共産党20回大会での新路線採択とスターリン批判ののちに爆発し,10月ハンガリー事件を生んだ。知識人をはじめとする国民の改革要求はナジを新しい指導者にし,ナジはワルシャワ条約機構(1955設立)からの脱退,中立化や複数政党制の承認を宣言するまでにいたった。これは結局2度にわたるソ連軍の介入で鎮圧されてしまった。カーダールの指導下でできた新体制は56年の経験に学んで,ソ連の意向を読み取りつつ国内の改革をかなり大胆に追求し,国民の信頼を得てきている。68年に新しい経済機構を導入し,80-81年にそれをさらに拡大して,企業に大幅な自主性と責任を与えつつ,国際的に開かれた社会主義経済を目ざしている。政治的にも,かなりの立場の自由を認め,また偏狭なナショナリズムの克服に努めている。
人民共和国を政体とし,基本法は1949年8月に発効し,72年4月19日に修正された憲法である。この修正により社会主義国家と明記された。党,政府の指導者は,56年のハンガリー事件に学んで,ソ連には忠誠を誓いながら,国内的には社会主義の枠内で最大限の経済的・政治的自由化を進め,巧みな政治的現実主義を発揮している。国家権力の最高機関は一院制の国会である。憲法や法律の制定,予算と国民経済計画の承認,人民共和国幹部会と閣僚会議の選出,最高裁判所長官と最高検察庁長官の選出,宣戦と講和の決定,条約の締結・批准などを行う。国会議員は4年ごとに,満18歳以上の男女により,普通・平等・直接・秘密選挙によって選出される。1970年10月に複数立候補制などの改革が実施されている。国会は最低年2回開かれる。国会に直属し〈集団的元首〉にあたるのが,人民共和国幹部会である。国会の休会中に憲法の制定・改正を除く国会の権限を代行する。議長(大統領)1人,同代理2人,書記1人,幹部会員17人(計21人)から成る。行政の最高機関は閣僚会議(内閣)である。構成は議長(首相)1人,同代理4人,各省大臣17人,国家計画局長官1人(計23人)。幹部会の提案に基づき国会により選出・解任される。地方行政は各地域〈評議会(トナーチ)〉のピラミッドにより組織される。この地方行政単位は国会と共和国幹部会に直属し,各地域の行政,経済,文化,社会問題を扱う。評議会員は4年任期で住民から選出される。司法は,最高裁判所,県裁判所,郡裁判所から成り,裁判所は専任裁判官と人民陪審員で構成される。最高裁長官は任期4年で国会により選出される。
政党としては,1956年までは,1948年に共産党と社会民主党が合同してできた勤労者党のほかに,民族農民党,小農業者党が存在したが,現在はハンガリー社会主義労働者党(1956発足)のみである。党大会は4年ごとに開かれ,党の最高権力機関である。大会で中央委員会,中央統制委員会が選出される。中央委員会は大会間の党運営にあたり,少なくとも3ヵ月に1度総会を開く。そのメンバーの中から政治局と書記局を互選する。人口中の党員の比は小さいが,党は〈敵でないものは味方である〉との原則のもとに,柔軟な政策を掲げ,国民の諸要求を着実に具体的に実現しようとしており,国民の支持を得ている。党以外には愛国人民戦線や共産主義青年同盟や同婦人同盟,さらには労働組合が社会的組織として重要な役割を演じている。
外交の面では,ソ連および東欧諸国と2国間の友好協力相互援助条約を結び,ワルシャワ条約機構とCOMECON(コメコン)に加入していて,社会主義諸国の団結を第1の柱としている。資源の乏しい国なのでコメコン体制をとくに重視している。しかし,68年のチェコ事件や80-81年のポーランド事件では,つねに軍事介入を抑える姿勢を示した。また隣接諸国との間の民族問題には冷静な態度を国民に訴えている。外交の第2の柱は,〈デタント〉の追求である。68年以降の〈経済改革〉に伴う東西貿易の拡大,資本・技術の導入の前提として,デタントを求めている。73年にはGATT(ガツト)に加盟しており,80年には中欧国際銀行がブダペストに置かれた。外交の第3の柱は,中東・アフリカ諸国との協力である。資源の確保,自国工業製品の販売という見地から,これら諸国との関係が拡大され,技術協力,留学生受入れも活発に行っている。
軍事的には,1955年の創設以来ワルシャワ条約機構に加入している。義務兵役制で,18歳から始まり,最高2年間である。国民は義務兵役に消極的に従っている。正規軍は80年7月現在で9万3000,ほかに労働者防衛隊約6万がある。1957年の協定により,ソ連軍が駐留している(約5万)。
第2次大戦前は不均等な経済構造をもつ農工業国であった。工業では大銀行と結びついた資本主義大工業の独占体と並んで,多数の小工業が存在し,農業では半封建的関係をも利用した大地主経営のほか,多数の貧しい小農民経営があった。現在では,国民経済のほとんどの分野で社会主義制度が支配的となっている。1980年現在で国民所得の97%,工業生産と農業生産の99%が国有ないし協同組合部門にある。
戦後,遅れた農工業国からかなり進んだ工農業国への移行が進行した。国民所得のなかで工業と農業の占める比率は,1938年にはそれぞれ38.4%と44.7%であったが,80年には60.5%と16.8%になった。81年には有業人口の40.6%が工業・建設業に,20.6%が農林業に従事している。鉱工業の国有化は戦後比較的順調に行われたが,その部門構成には不均衡がある。伝統をもつ機械製作工業(車両,電機,工作機械)や食料品加工工業が中心であること,化学工業,精密機器工業,電子工業の成長が著しいこと,反面,鉄鋼,繊維,鉱山業が弱いことなどである。原料や燃料の国内産出は乏しい。石油はほとんどなく,低品質の石炭があるのみである。近年天然ガスが開発されたが量的には少ない。鉱物資源としては,ボーキサイトとウランが注目されるが,すべてソ連へ向かう。1968年に始まり80-81年に拡大された経済改革によって,国有各企業は大幅な経営の自由を得,国の内外(西側も含め)から資本,技術を入れ,内外市場を目ざして,利潤をあげるような生産を求められている。しかし依然資源問題と外貨問題に悩んでいる。
農業の場合,社会主義化は決して順調ではなかった。戦後の土地改革で地主が一掃され,農民的土地所有が成立した後,50年代前半に行われた生産協同組合化は56年までに挫折し,50年代末に新たな生産協同組合化が行われた。その結果62年ころには農業の社会主義化が完了し,社会主義部門が耕地面積の94~95%に達した。そのうち78%を占める農業生産協同組合では,出資した土地への農民の私有権が残り(それゆえ地代が払われる),また自留地の所有とそこの生産物の自由販売も認められている。60年代までは工業に比べて農業の生産力が低かったが,70年代からは農業の成長が著しく,経済全体を支えている。作物は小麦,トウモロコシ,ジャガイモ,大麦,ライ麦,テンサイ,ヒマワリが多い。畜産は豚,牛,家禽が中心である。また全国的にブドウ,リンゴなどの果物が豊富である。農業生産協同組合も内外市場向けの生産を行い,品質改良などに積極的に取り組んでいる。東欧で最も豊かな農業国の一つであるが,まだ生産量は天候に大きく左右される。ハンガリー経済の国際経済との結びつきは,70年代に入って急速に拡大しており,80-81年の改革でさらに促進された。総じてソ連との関係は依然大きいが,近年西欧諸国からの資本,技術,工業製品の輸入が増大し,第三世界(中東)への工業製品輸出が重要性を増している。
第2次大戦後都市化が進んだが,農村人口は依然大きい。戦前は農民の26%が土地なしで,300万人の乞食の国といわれたが,戦後は解消された。農民の大半は農業生産協同組合に入っている。それは農民の土地出資によっており,組合長ら幹部を互選して生産・分配を行う。分配は生産への貢献度によるが,近年では現物出来高払いではなく,現金での前払い制賃金となっている。このほか組合員は自留地での自由な生産とその生産物の販売が認められている。農民の生産水準は1970年から急速に上昇した。
工業労働者の大半は国有工業で働く。労働者は労働組合に属して,組合をとおして企業と団体協約を結ぶ。企業長は国家の任命による,企業は自主的な経営で利潤をあげるよう奨励されている。毎年団体協約により,利潤の配分,労働時間,賃金などが決定される。基本賃金は労働条件と労働能力を考慮して設定されており,さらに企業利潤に結びついたボーナスも保障されている。しかし通常,労働者も職員も夫婦共稼ぎで生計が安定できる程度である。知識人はますます西欧志向を強めていて,社会の自由化,開放を求めている。その多くは,現体制を根底的に非難はしないという暗黙の条件下で,批判の自由を享受している。概して知識人の思考は観念的というよりも現実的である。しかしそういう現実的・批判的思考がかなり広く社会に浸透しており,それが現在の〈経済改革〉などを支えているといえる。
社会福祉は比較的整備されており,老齢年金(1975年の改正で60歳以上の男子と55歳以上の女子は10年間働いていれば受給しうる。賃金からの平均控除は4~5%),掛金のいらない社会保険が中心である。このほか,とくに育児手当の制度が優れている。国民の生活水準は年々高まっており,とくに食生活の面では,肉,野菜が豊富で,高い水準にある。衣料の面では量は別として品質,デザインのよいものが求められている。耐久消費財が最も遅れており,自動車,電気器具,住宅などは需要に量・質とも追いつけない状態にある。
民族構成は,第1次大戦まではたいへんな多民族国家であったが,現在では人口のほとんどがハンガリー人である。しかしわずかながら存在するドイツ人の問題などには気が配られている。とはいえハンガリー人の関心は周囲の隣接諸国内にいるハンガリー人同胞の状態に寄せられている。一般に第2次大戦までの強力な排他的ナショナリズムは慎重に抑制されている。近年むしろ民族的伝統(とくに農民的伝統)を再生させ,それを社会主義と調和させる努力がみられる。
執筆者:南塚 信吾
マジャール人(ハンガリー人)は9世紀末にハンガリー盆地に入るまでの長い民族移動の過程で,豊かな口承文芸の伝統をもっていたと思われるが,定住後,強力にキリスト教化を図ったために口承文芸は消滅してしまった。11~15世紀はラテン語による宗教文学,年代記が多く書かれた。
16世紀になると,ドージャの乱により国力は疲弊し,オスマン帝国とハプスブルク家による国土の三分割を許した。こうした不安な社会情勢のなかで新教(プロテスタント)が広まり,教義の普及争いのために,民衆語であるハンガリー語による文書の道が開かれていった。一方,外来の侵略者に対する民族感情が高まり,国民文学の創成期を迎えた。抒情詩人バラッシ,叙事詩人ズリーニM.は対オスマン帝国戦争に活躍した軍人である。17世紀後半オスマン帝国が追放されるや,強まったハプスブルク家の統治に対して,ラーコーツィ・フェレンツの解放戦争が起こったが,その敗北後は,ハプスブルク家が懐柔的なドイツ化政策をとり,国民文学は一時衰退した。これに続く啓蒙期には,《オルフェウス》などの文芸誌が刊行され,劇作家のベッシェニェイBessenyei György(1747-1811),詩人のベルジェニBerzsenyi Dániel(1776-1836),作家のドゥゴニチDugonics András(1740-1818)らが国民文学再興の先駆的役割を担った。またカジンツィは言語改新運動を推進し,以後の国民文学の発展に大きく貢献した。ハンガリー語による演劇活動もケレメンKelemen László(1760-1814)の率いる劇団によって行われた。同時代,新教の中心地デブレツェンでは,抒情詩人チョコナイCsokonai Vitéz Mihály(1773-1803),農村叙事詩を書いたファゼカシュFazekas Mihály(1766-1828)が民衆的色彩の濃い一派をつくった。
改革期(1825-45)は,批評家ケルチェイKölcsey Ferenc(1790-1838)の言葉〈祖国と人間性〉に代表されるような国民文学の最盛期である。キシュファルディ協会をつくった劇作家キシュファルディ,詩人で劇作家のベレシュマルティ,劇作家のカトナらがこの時代の代表的な作家であった。その頂点に〈自由と愛の詩人〉と自ら称したペテーフィがいた。彼は,民族主義の気運が盛んになり,しだいに高まってきた反オーストリアの国民感情の代弁者であり,独立戦争での悲劇的な死によってハンガリー文学史上に大きな影響を残した。1837年ペシュト(現,ブダペスト)に国立劇場が創設され,演劇活動も活気づいた。シグリゲティSzigligeti Ede(1814-78)は多くの戯曲を書き,演劇の民衆化に努めた。また,トランシルバニアのセーケイ地方の民謡を採集したクリザKriza János(1811-75)の業績も忘れてはならない。
独立戦争(1848-49)に敗れ,オーストリアの抑圧やテロなどの苦難の時代が続き,この時代に活躍したアラニュやマダーチなどの作品は,時代を反映したペシミスティックなものが多い。ほかに,小説家ケメーニKemény Zsigmond(1814-75),寓意詩のトンパTompa Mihály(1817-68),詩人のバイダVajda János(1827-97),評論家ジュライGyulai Pál(1826-1909)らが活躍した。
この後,1867年にオーストリアとの妥協により二重帝国が形成され,醒めた現実政治により,経済的安定がもたらされ,散文が開花する市民社会の時代を迎えた。ロマンティシズムの作品を数多く書いたヨーカイ,リアリズム小説の先駆者ミクサートが国民的人気作家となったゆえんである。劇壇ではチキCsiky Gergely(1842-91)が民衆演劇の人気作家として活躍した。
19世紀末から労働者階級が形成され,農村でも退廃したジェントリ(小地主,下層貴族)階級の抑圧に苦しむ農民など,社会矛盾が顕在化し,文学においても新しい時代を迎えた。社会問題をテーマとするこれらの文学は,西欧の新思潮の影響と相まって,国民文学から世界文学への脱皮を示すものである。その代表的な存在はアディで,彼を中心とした文芸誌《ニュガト(西方)》には,多彩な詩人,作家が集まった。そのうちバビッチ,ユハースJuhász Gyula(1883-1937),コストラーニKosztolány Pezsöらは象徴派の流れを汲む詩人たちで,一方,モーリツは《ニュガト》から出発したが,ハンガリー的近代リアリズムの祖といわれるように,独自の方向に進んだ。また《ニュガト》に近い関係にあったカリンティ,クルーディKrúdy Gyula(1870-1933)らは都会的な作品を得意とした。同じ都会派作家のモルナールは,戯曲によって世界的名声をかちえた。その一方で,ガールドニGárdony Géza(1863-1922),モーラMóra Ferenz(1879-1934)らは,前時代の伝統を受け継ぎ,地方主義の作家として活躍した。ほかにアバンギャルド派のカッシャークKassák Lajos(1887-1969)はこの時期から活躍し,戦後も初心を貫いた。
第1次大戦末期,ブダペストに市民蜂起が起こり,クンの共和政権が成立した。この政権には,バラージュら多くの文学者が関与したが短命に終わり,ホルティの保守政権による暗黒政治が支配した。
両大戦間期の傑出した存在としては,ヨージェフがいる。ナチスの収容所で死んだラドノーティRadnóti Miklós(1904-45)も美しい抒情詩を書いた。30年代になると《ニュガト》が文学的力を失い,それに代わってイェーシュを中心とする民衆派の小説家タマーシTamási Áron(1897-1966),コドラーニKodolány János(1899-1969)らが活躍し,新しい農民文学の道を開いた。
第2次大戦後,ハンガリーは,諸党間の抗争を経て48年人民共和国になった。50年代までは,戦前活躍した民衆派の作家サボーSzabó Pál(1893-1970),ベレシュVeres Péter(1897-1970),ネーメトら,また亡命先や獄中から社会復帰したデーリやイレーシュIllés Endre(1895-1974)らコミュニスト作家が長編を次々に発表した。しかしこの時期は,ラーコシの個人的統治の時代で,文学においても教条主義がみられ,真の戦後文学が開花するのは56年のハンガリー事件以降である。新しく登場する作家たちに影響を与えたのは,モーリツの継承者であったシャルカディSarkadi Imre(1921-61)である。ほかにオトリクOttlik Géza(1912- ),エルケーニÖrkény István(1912-79),メーセイMészöly Miklos(1921- ),マーンディMándi Iván(1918- )らは,40代で戦争を体験し,多くの血を流した世代で,戦後も,超現実的なショート・ショートにも似た短編を書くなど,党の文化政策から離れたアウトサイダーの位置にとどまった作家たちである。
56年のハンガリー事件の動揺後,若手作家たちが堰を切ったようにアクチュアルな作品で登場したが,そのうちフェイェシュFejes Endre(1923- )は《くず鉄墓場》(1963)で,シャーンタSánta Ferenc(1927- )は《二十時間》(1963)で一躍話題作家となった。同世代の作家としてはほかにモルドバ,サコニ,サボーI.らがいる。農民文学系作家の多いハンガリーで,心理主義小説を書く女流のサボーSzabó Magda(1917- ),管理社会の矛盾を告発するコンラードKonrád György(1933- )らの活躍も新しい動きである。詩人としては,戦前から《ニュガト》にかかわったベレシュ,新しい詩型で登場したナジNagy László(1927-78),ユハースJuhász Ferenc(1928- )らがいる。
執筆者:岩崎 悦子
現在のハンガリーの地には,9世紀にマジャール人が移動し定住を始めるまでに,多くの民族が次々に通過し,足跡を残した。前400年ころ到来したケルト人の後,紀元前後にはドナウ川以西はパンノニアとしてローマの属州となり,都市跡にローマ美術の地方的作品がみられる。その例に,ブダペスト市内のアクインクムの遺跡やソンバトヘイ(サウァリアSavaria)の遺跡などがある。またペーチュ(ソヒアナエSopianae)には,4世紀の初期キリスト教時代のカタコンベのフレスコがある。その後,フン族,東ゲルマン諸族,アバール族などが住み,動物文様や幾何学文様を特徴とする工芸品を残した。
最後の移動民族として定住したマジャール人は10世紀末にキリスト教化され,イシュトバーン1世時代に大規模な教会堂の建造と,それに付随する彫刻,絵画,工芸品の制作が始まったが,西欧諸国との関係にもかかわらず,当初よりイタリアとの強固なつながりがみられる。11世紀初めのペーチュの司教座教会(大聖堂)や13世紀初めのヤークJákの教会堂はとくにロンバルディアの建築にならい,絵画ではフェルデブレFeldebröの教会堂に断片として残る12世紀のフレスコがその例である。12世紀末,ベーラBéla3世はフランスのカペー朝より妃を迎え,エステルゴムの王宮に,フランスの初期ゴシック様式を導入した。また1230年ころには,フランスの建築家ビラール・ド・オヌクールがハンガリーに滞在した。一方,13世紀前半の,ベーラ4世のビザンティン皇女との結婚が契機であろうが,ベスプレームのギシェラGisela礼拝堂には,ビザンティン風のフレスコも描かれた。1308年,ナポリのアンジュー家がハンガリー王に選出されるに及び,12世紀以来自国の領土であったダルマツィアを通じてのイタリアとの結びつきは,ますます強化され,ルクセンブルク家のジギスムント王治下のブダには,多くのイタリアの人文主義者が招かれ,画家のマソリーノ・ダ・パニカーレも1424年からしばらく滞在した。このハンガリー宮廷におけるイタリア・ルネサンスの反映は,15世紀の,芸術保護に熱心であったマーチャーシュ1世の治下において極まり,彼はブダの王宮をルネサンス様式に改築した。また王の写本収集は当時のヨーロッパで屈指のものであり,彼はつねにイタリアから最高の物を入手しようとした。この成果は,のちにプラハやクラクフに伝わり,東欧のルネサンスの源として重要であるが,現存するものは少なく,そのなかでは1507年のエステルゴムのバコーチュBakócz礼拝堂がほとんど奇跡的に破壊を免れている。他方,宮廷や高位聖職者のイタリア趣味に対して,周辺の国々との交流のなかで,土着的な作品が制作された。コロジュバーリKolozsvári Tamás(生没年不詳)による祭壇画(1427。エステルゴム博物館)はボヘミアのゴシックに連なる作品であり,〈M.S.のモノグラムの作家〉による祭壇画(1506。エステルゴム博物館)は,古拙さをいまだ残すが,祖先をハンガリーにたどることのできるデューラーの作品を想起させる。
1526年モハーチの戦以後のオスマン帝国の支配によってイタリアとの関係は断たれ,ハプスブルク家支配下のハンガリーはオーストリアに同化する。1686年にブダペストが再び回復された後,18世紀にハンガリーはウィーンを範にし,ヒルデブラントやマウルベルチュらウィーンの建築家,彫刻家が同地に赴いて制作を行ったが,徐々にハンガリー人の芸術家が育っていった。静物画についてはボグダーニュBogdány Jakab(1660-1724),肖像画ではマーニョキMányoki Ádám(1673-1757)がすでに,それぞれイギリスとドイツで令名高かった。ブロツキBrocky Károly(1807-55)はビクトリア朝初期のロンドンで甘美な女性像を描き,人気があった。19世紀半ばの民族主義の動きのなかで,画家は自国の風物や歴史を描き始めた。その代表として,ミュンヘンのピロティK.von Pilotyに学び歴史画の大作群を残したベンツールBenczúr Gyula(1844-1920),パリで同時代の新しい技法を試みたが,民族固有の表現を求めたセーケイやムンカーチ,バルビゾン派に傾倒したパールPaál László(1846-79),分割された色の輝きを精緻に画面に固定し印象派になぞらえられるシニェイ・メルシェSzinyei-Merse Pál(1845-1920)らが挙げられる。彼らの活躍に続いて,1896年以来ナジバーニャNagybányaなどに芸術家コロニーが形成され,後期印象派や象徴派,フォービスムや表現主義に至る諸相をみせた。現代美術では,オップ・アートの先駆者といわれるバザレリーが,その思いきった装飾性をもつ作品で知られる。
執筆者:鐸木 道剛
ハンガリー人(マジャール人)が東洋系の民族であることはよく知られているが,マジャール人の始祖の地とされるロシアのボルガ地方に居住するマリ族(チェレミス)の民謡のなかに,ハンガリー民謡と共通する特徴を発見し,その近親関係を音楽学的に明らかにしたのはバルトークとコダイである。現在のハンガリー民謡の旋律は,半音のない5音音階(ラ・ド・レ・ミ・ソ)に基づく下降的旋律を5度下で繰り返す〈古いタイプ〉のものと,西ヨーロッパの音楽の影響を受けて19世紀の初めころから盛んに歌われるようになった,A・A5・A5・Aのように真中が5度高くなる〈新しいタイプ〉の二つに大別することができる。ハンガリー民謡は,〈祭りの歌〉〈婚礼の歌〉〈愛の歌〉〈わらべ歌〉など,生活のなかのいろいろな機会に歌われる歌の種類が多く,なかでもほとんど民謡化している〈古いクリスマスの歌〉とか,葬式のときに遺体のそばで泣きながら歌う〈嘆きの歌〉がハンガリー独特のものとして知られている。民族楽器としては,羊飼いの縦笛(フルヤ),バッグパイプ(ドゥダ),チター(チテラ),ハーディ・ガーディ(テケル),ダルシマーの一種のツィンバロムなどがある。器楽の分野ではジプシー音楽家の活躍が目だち,とくに弦楽器とツィンバロムの組合せによるジプシー楽団の演奏は,18世紀後半から19世紀にかけて,ハンガリー国内はもちろん,ヨーロッパの大衆音楽に君臨していた。このジプシー楽団によって演奏される,いわゆる〈ハンガリー風〉音楽は,ブラームスの《ハンガリー舞曲》や,リストの《ハンガリー狂詩曲》の素材となっているものである。
ハンガリーの建国はキリスト教化とともに行われ,ローマ教会の宗教音楽が普及したが,15世紀ころになると,民謡などの影響を受けた独特なハンガリー風聖歌が歌われるようになっていた(プライ古写本。1192-1216)。13世紀から15世紀にかけては,フランス(ベーラ3世の治世)やドイツ(ジギスムントの治世)から来た数多くの著名な音楽家が宮廷音楽家として活躍していたが,16世紀になると,とくに器楽の分野で,リュート奏者のバクファルクBakfark Bálint(1507-76)のような国際的に活躍するハンガリーの音楽家が生まれるようになった。1699年のカルロビツ条約によってオーストリア・ハプスブルク家の支配を受けるようになって以来,ハンガリーの音楽文化の中心はドイツ音楽になった。ヨーゼフとミヒャエルのハイドン兄弟,ディッタースドルフKarl Ditters von Dittersdorf(1739-99)ら,オーストリア・ドイツ系の音楽家が指導的役割を果たしていた。
1848年の独立戦争を頂点とする民族主義の運動を背景に,ハンガリーに独特のロマン的国民主義の傾向が生まれ,それはまずエルケルErkel Ferenc(1810-93)の,例えば《バーンク・バーンBánk bán》(1861)のような国民主義オペラの創造を促した。この傾向は,リストによって世界的語法にまで発展した。リストの貢献は教育の面でも著しく,彼を校長として1875年に設立された〈王立音楽アカデミー〉(1925年に現在の〈リスト・フェレンツ高等音楽学校〉と改称)からは,やがてドホナーニ,バルトーク,コダイら,革新的民族主義による現代ハンガリー音楽の担い手が輩出した。当時のハンガリー・オーストリア二重帝国下における,政治的・文化的抑圧に抗する民族主義者コダイにとって,とくにハンガリー民謡は,民族一体化のよりどころであり,また彼の創作の直接的な素材でもあった。演奏の面でも,フーバイを中心とするハンガリー・バイオリン楽派が誕生し,そこからシゲティやセーケイSzékely Zoltán(1903- ),ベーグVégh Sándor(1912- )ら名バイオリン奏者,あるいはブダペスト,ハンガリーなどの名を冠する世界的弦楽四重奏団が巣立った。
執筆者:谷本 一之
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東ヨーロッパの共和国。896年頃に,フィン・ウゴル語系のマジャル人の諸部族が,カルパティア盆地に定住して建国。キリスト教に帰依したイシュトヴァーン1世が1000年にハンガリー王国を建てる。14~15世紀には東ヨーロッパの強国となり,マーチャーシュ王のときにはルネサンスの花を咲かせた。1526年にオスマン帝国軍に敗れた後,国土の中南部は同帝国に,北部・西部はハプスブルク家に支配されるが,1699年には全土がハプスブルク帝国の支配下に入った。18世紀末からハンガリー人の社会的・民族的自覚が始まり,1848~49年の革命と独立運動が挫折したものの,67年にはオーストリアとの二重君主制が成立(アウスグライヒ)。19世紀末から20世紀初めには,資本主義経済が発展し,政治・文化も一種の黄金時代を迎えたが,反面で農村での激しい農民運動や排他的なナショナリズムの高揚がみられた。第一次世界大戦ではドイツ,オーストリア側について参戦,敗戦国となった。1918年に革命で王政が廃されるが,19年のソヴィエト共和国の崩壊後は「国王のいない王国」に戻った。20年のトリアノン条約で国土の3分の2を失い,失地回復をめざしてナチス・ドイツに接近,第二次世界大戦では枢軸国側について敗戦。戦後は共産党の支配下で人民民主主義国の一つとなりソ連圏に入ったが,89年には共産党支配が崩壊して,共和国となった。
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…7~8世紀ころにドン川中流へ移り,ここでブルガール,トルコ系諸族の文化的影響を受けた。このとき密接な関係のあったオノグルOnogur族の名前から,外国語での〈ハンガリー人〉(スラブ語系のvenger,ドイツ語のUngar,フランス語のHongrois,英語のHungary)が出ている。マジャール人は9世紀にはドニエストル川とドン川の間へ移り,895‐896年に族長アールパードÁrpád(?‐907ころ)に率いられて,カルパチ盆地(ハンガリー盆地)に入り,独自の国家を建てた。…
…オスマン帝国の中部ヨーロッパへの攻撃は,スレイマン1世の治世に始まる。1世紀以上にわたりトルコ軍の北進をはばんできたハンガリーの弱体化,神聖ローマ皇帝と争っていたフランス王フランソア1世の支援要請によって,スルタンはハンガリーへ遠征し,1526年モハーチの戦で大勝した。そのさいハンガリー王ラーヨシュ2世の戦死によって王位継承問題が生じ,中小貴族はサポヤイ・ヤーノシュを国王に戴いたが,ハプスブルク家世襲領地を継承するボヘミアの王フェルディナントは,別個に議会を召集し大貴族の支持をえてハンガリー王位についた。…
…と同時に国際化の進展にともない,労働組合運動の国際的連帯の必要性が痛感されてきた。(2)官公労働組合においても,スト権奪還闘争の重要な一環であったいわゆるILO闘争を通じて,国際自由労連およびITS(国際産業別組織)の援助を受け,それとの接触が深まる一方,ハンガリー事件,チェコ事件,ポーランドのたび重なる騒動などによって,社会主義圏の労働組合を中心とする世界労連の威信が国際的に低下した。(3)春闘が始まった当初には全労会議は闘争激発主義,スケジュール闘争だとしてこれに批判的であり,春闘は総評,中立労連がつくった春闘共闘会議主導で行われてきたが,65年ころになると同盟傘下の組合のなかに春に賃上げ闘争を行う組合が増加した。…
※「ハンガリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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